藤原冬嗣 ふじわらのふゆつぐ

宝亀6年(775年)〜天長3年7月24日(826年8月30日)


父は内麻呂。
母は女嬬にょじゅ百済永継。
桓武天皇の皇子良岑よしみね安世は同母弟。
号は閑院大臣。
大判事・春宮亮・蔵人頭を経て弘仁2年(811年)参議となる。
嵯峨天皇に信任され、権中納言・中納言・大納言・右大臣と昇進、左近衛大将を兼任し、政界の中心として現実的地方政策の推進にあたった。
天長2年(825年)には左大臣となったが、翌年没した。52歳。
正二位。のちに贈正一位太政大臣。
温和な性格で文武を兼ね備え、よく人に慕われたという。
『弘仁格式きゃくしき』『内裏式だいりしき』の編纂に従事。
藤原氏および北家興隆の基礎を築き、一族のために勧学院を建てたり施薬院を復興したりもした。
文徳天皇の外祖父。


閑院跡



閑院かんいん
(京都市中京区小川通二条下ル古城町)

藤原冬嗣邸跡



(平成19年3月17日)

閑院址

ここから北西にあたる西洞院通、押小路通、油小路通、二条通に囲まれた地域は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて藤原氏の邸があったところである。
当初は、藤原冬嗣の邸であったが、11世紀初期に藤原公季が伝領してから「閑院」と称した。
また、高倉天皇の時代(1161〜1181)大内裏だいだいりが甚しく荒廃したため閑院邸が里内裏さとだいり(臨時に設けられる皇居)として利用され、次いで後鳥羽天皇もここで皇位を承継するなど朝廷の中心となった所でもある。
以来、後深草天皇に至る9代90余年間里内裏となっていたが、正元元年(1259)5月に火災で焼失した。

閑院の南殿にて月前松を詠める
いまはまた世々をかさぬる庭の松
ふりてぞみゆる秋の夜の霜
〜順徳天皇〜

京都市

(説明板より)



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