深川不動堂

東京都江東区富岡1−17−13


深川不動堂



深川不動堂






(平成15年12月6日

歴史と沿革

江戸時代、中でも元禄年間は江戸町人を中心として不動尊信仰が急激に広まっていった。
この背景には、経済・商業の中心地としての江戸、またそれを支える町人の経済力の飛躍的な増大が大きな原動力になっていた。

このような時期、成田山新勝寺は信徒数も増え、また寺格も、より高い本山へと大きく発展していく。
そのような時江戸町人を中心に成田山のご本尊、不動明王を江戸で参拝したい、という気運が高まり、ついに1703年(元禄16年)4月に初の江戸に於けるご本尊の出張開帳(江戸出開帳)が行なわれた。
当時は犬公方と知られる五代将軍綱吉の治世、その母桂昌院が成田山の不動明王を江戸での参拝を希望し実現したという説もある。

成田山出発の総勢は三百人を超える行列が組まれ、江戸まで一週間余りかけてご本尊が奉持され、二ヶ月にわたる開帳は江戸町人に大きな人気を博し、この開帳の場所が深川永代寺境内であり、これが深川不動堂の始まりである。
明治になり神仏分離令により永代寺は廃寺、境内は深川公園となり、明治2年に現在の地に「深川不動堂」の正式名称が認められ、14年には本堂が完成するも関東大震災・第2次世界大戦と二度に亙り本堂が焼失、しかしながらご本尊は奇しくも災禍を免れた。

昭和26年に当時千葉県印旛沼のほとりに建っていた龍腹寺(1862・文久2年建立)を深川に移築し復興、現在の本堂になっている。
江東区最古の木造建築としてその痛み著しく、平成3年大改修を施行し、平成14年開創300年を記念し内佛殿が建立され、東都随一の不動霊場として山容を整え一層の活況を呈している。

(リーフレットより)


石不動



石不動






(平成15年12月6日)

石不動 縁起

昭和の宰相吉田茂閣下が千葉県松戸市に法曹界を目指す塾を創設し、石不動を奉安して真摯に祈願の日々を送られておられましたが、大東亜戦争の空襲による災害よりお守りする為、親交厚い大倉喜七郎氏(男爵大倉喜八郎氏長男)に保護を依頼、爾来霊徳遍く石不動を大倉家の守護佛として安置いたし篤い信仰をいただいておりました。
而して過日大倉眞澄様(大倉喜八郎氏曾孫)が深川不動堂に参拝の砌、郡参信徒を目の当たりにして、ご参詣各位と共に家内繁栄をご祈念いたすべく石不動と併せ真言宗宗祖弘法大師石像をご奉納賜りました。
成田山内陣十六講総講元小柴宏友氏を初め、各講元。
役員諸大徳のご寛容を得て、此処講庭に奉安する。

平成5年12月18日

(説明板より)


成田山内陣十六講の碑




「成田山内陣 十六講」の碑





(平成15年12月6日)

成田山内陣十六講

抑々内陣十六講とは、成田不動信仰十六講社の連合講社にして結成110有余年の歴史を誇り、成田山講社認証第4号なり。
江戸時代中期成田不動の信仰が盛んになり徳川5代将軍綱代氏公の生母桂昌院の信仰を得たことにより 元禄16年第1回の江戸出開帳が施行され、幕末までに12回、明治時代に4回出開帳が行われ、不動信仰は広く市民に浸透した。
明治18年市民並びに組織講社熱望の裡、本尊不動明王は所縁の地深川公園に遷座され 深川不動堂が創建された。
十六の講社はその出開帳期間中奉仕と外護に務めた。
成田山では十六講社の貢献に対し各々の講社に内陣の称号を冠し功績を讃えた。

この講庭は当時の内陣十六講各講元、世話人並びに有志により講碑を建立し、十六講々庭として歴代総講元を主体として遵守され、昭和15年(皇紀二千六百年記念)に各講社の協力により玉垣を建立、昭和47年4月には十六講結成八十八周年記念 又、平成5年12月には不動明王石像及び宗祖弘法大師石像を奉祀し、幾多講員大いに盛儀を寿ぐ。

このたび先人諸氏の偉業に敬意を表し、旧玉垣及び講庭の改修を行なうに当り、各講社のご協力とご支援を得て無魔浄業は此処に完成する。
平成8年6月18日
岡部傅之助 記

(説明板より)


深川不動堂のすぐ脇に深川公園があります。


深川公園




深川公園





(平成15年12月6日)

深川公園について

深川公園は、明治6年(1873)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つです。

この公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。
西側には、油堀川より水を引き入れた汐入りの池があり、東側には、小高い丘がありました。
明治12年(1879)には梅、桜を植え花園として整備しました。

明治40年(1907)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治42年(1909)に深川図書館が建てられましたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。

震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第2次世界大戦中に池は埋められ運動場になりました。

この漆喰画は、文化12年(1815)伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし明治22年(1889)深川で没した漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良事業を記念して製作したものです。

平成2年3月
江東区

(説明の碑文より)

漆喰画 (平成15年12月6日)

明治末期の深川公園の様子を描いた漆喰画


忠魂碑


「明治卅七八年役戦死者忠魂碑」
正四位勲三等男爵澁澤榮一謹書


深川公園の中に建っています。



(平成15年12月6日)
戦死者之碑


「追悼征清戦死者之碑」
明治29年11月 深川區有志者建立


これも公園の中に建っています。



(平成15年12月6日)

六衛門


季節料理 六衛門
深川不動尊参道中程


ここで、お昼を食べました。


深川丼



深川丼定食
1,000円でした。




(平成15年12月6日)

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