福井直秋像 平成18年2月5日

福井直秋 ふくい・なおあき

明治10年(1877年)10月17日〜昭和38年(1963年)12月12日

東京都練馬区・武蔵野音楽大学江古田キャンパスでお会いしました。


富山県の浄誓寺の五男として生れる。
明治32年(1899)東京音楽学校へ進学、授業補助をしていた滝廉太郎と出会う。
声楽指導法、歌曲集編纂に尽力。
明治41年、我が国最初の和声学専門書『初等和聲學』を執筆。
歌曲、器楽曲の創作に意欲を燃やし、約1,000曲の作品を遺した。
1929年、武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校を設立。
武蔵野音楽大学初代学長。


福井直秋先生像



福井直秋先生像
(武蔵野音楽大学江古田キャンパス内)





(平成18年2月5日)

碑文

                  文学博士 久松潜一撰
福井直秋先生は明治10年10月17日富山県に生まれ明治35年東京音楽学校を卒業以来或は師範学校或は中学校或は音楽学校の教育に盡瘁し昭和4年周囲の要請もだしがたく私財を投じ現在の武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校を創立尓来廾八年間具さに苦難を嘗めつゝこれが育成に専念し同校をして今日わが国有数の音楽大学にまで発展せしめた
その間常にわが国全般の音楽教育の向上刷新を念願しその卓抜な識見と若々しい情熱とは絶えず音楽教育界を警醒しその功績は実に顕著なものがあった
殊にわが国音楽教育機関の施設改善の機運を促すために率先して武蔵野音楽大学の校舎改築を計画し万難を排して事に当り新しい設備の新校舎の完成を見るに至った
このたび同校舎の落成を機会に先生の偉大な恩徳と不朽の功績とを永遠に鑽仰するためにこれを建立するものである

昭和32年5月25日
福井直秋先生彫像建立委員会
呉石 西脇 静 書

武蔵野音大・ベートーヴェンホール




武蔵野音楽大学江古田キャンパス・ベートヴェンホール






(平成18年2月5日)

【陸軍幼年学校・音楽教師】

幼年学校は、明治29年、日清戦争の直後に明治天皇の思し召しによって創設された。
帝国陸軍の驫イていかんたるべき将校を、幼年(少年)の時から養成するためである。
中学1年または2年から入るので、最低年齢は13歳である。
当初は、東京、仙台、名古屋、大坂、広島、熊本に6校。
各校それぞれ50名あて入校した。
その後、大正末期、いわゆる宇垣軍縮によって東京1校だけが残り、他の5校は全部一時廃校となった。

東京陸軍幼年学校には全国から集まってくるので、各地の方言が入り乱れ、なかには、標準語は聞くことはわかるが、喋ることがまったくできないという者もいた。
まさに外国語なみである。
特に我々第32期は、東京から入校した者が数名に過ぎず、甚だ劣勢であったため、方言、とりわけ九州弁が幅をきかせ横行したものである。
学校における課業は、軍事面を重視するといったことは全然なく、一般の中学とまったく同じ普通学科が主体であった。
しかし、教官には一流の優秀な人材を集めていたようだ。
地理の先生はたしか水戸高校の教授であったし、音楽の先生は武蔵野音楽大学を創立された福井直秋先生であった。

情操教育についても、幼年学校に音楽の時間があったのでもわかる。
当時は唱歌といっていたが、小学唱歌よりはずっと高級というか、高尚な歌を、福井先生のグランドピアノの伴奏で独唱させられるのには、音痴の私はまったくもって弱り果てたものであった。

(参考:小林友一 著 『同期の雪〜林八郎少尉の青春〜』 日本工業新聞社 昭和56年2月 初版発行)

(令和元年7月21日 追記)


武蔵野音楽大学  和声



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