(別称:舞鶴城)
福岡市中央区城内
平成20年11月25日再訪問
史跡福岡城跡
黒田長政は、慶長5年(1600年)10月、筑前の領主となり、名島城に入城したが、治政上適地でないとみて、この地に福岡城を築いた。
この地は、当時、福崎といっていたが、長政は祖先の領地備前(岡山県)の福岡にちなんで改名したといわれる。
築城には、7か年を要し、石垣積の名人といわれた重臣野口一成のさしずによって、5メートルから15メートルにおよぶ石垣がめぐらされ、今もなお、その規模の雄大さを誇っている。
国の史跡指定 昭和32年8月29日
史跡指定の面積 458,092平方メートル
城跡の東西 約1,000メートル
城跡の南北 約700メートル
注意事項
1.許可なくして指定地域内を発掘ならびに破壊しないこと
2.許可なくして樹木を伐採しないこと
3.その他、指定地域内の現状を変更するいっさいの行為は、文化財保護法に規定する許可を要すること
昭和48年8月20日
福岡市教育委員会
(説明板より)
(説明板より)
福岡城跡の説明板より 福岡城は、福岡初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601年)から7年をかけて築かれました。 〜平成12年5月4日当時〜 |
福岡城は規模が広大に過ぎて47もの大小の櫓があったほどなので、外様大名の黒田氏は幕府の警戒を懸念して天守を建てなかったといわれています。
築城には石垣積みの名人といわれた重臣・野口一成の指図により10mから15mにおよぶ石垣がめぐらされました。
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鉄物櫓かなものやぐら周辺 (平成20年11月25日) |
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生捕櫓跡 (平成20年11月25日) |
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水ノ手御門跡 (平成20年11月25日) |
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重要文化財
福岡城南丸多聞たもん櫓
重要文化財指定 昭和46年12月28日
福岡城は、慶長5年(1600)に筑前国に封じられた初代藩主黒田長政が、慶長6年(1601)から12年(1607)にかけて築城した平山城である。
城は、天守台、本丸、二ノ丸、南丸(二ノ丸南郭くるわ)、三ノ丸からなる。
南丸にあるこの多聞櫓は、江戸時代から城内にそのまま残っている数少ない建物の一つである。
櫓は、南西隅にある二重二階切妻造きりづまづくり隅櫓すみやぐらと、それに連接して桁行けたゆき三十間分続く平櫓ひらやぐらである。
建築年代は明らかではない。
一部には近世初期に遡さかのぼると思われる部材を用いているが、ほとんどが後世の改修を受け、平櫓は嘉永6年(1853)から翌7年にかけて建て替えられている。
一般に多聞櫓は16の小部屋に独立しており、石落しのみで城外を見る窓がない部屋もある。
また建物の軒先を支えている方杖ほうづえと端隠はなかくし板で垂木口たるきぐちを隠す工法は福岡城の特徴とされ、古式を留めた城郭じょうかく建築の美しさを備えている。
福岡市教育委員会
(説明板より)
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南丸 (平成20年11月25日) |
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桐木坂御門跡 (平成20年11月25日) |
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裏御門跡 (平成20年11月25日) |
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表御門櫓跡 (平成20年11月25日) |
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福岡県指定文化財
福岡城祈念櫓きねんやぐら
福岡城は慶長5年(1600)筑前に入国した黒田長政が翌6年から7年の歳月をかけて築城したものです。
城は東西に長い梯廓式の平山城で、本丸・二の丸・三の丸に分かれています。
その面積は48万平方メートルにおよび、昭和32年に国史跡に指定されています。
この祈念櫓は本丸の北東隅に鬼門封じのために建立された二層の櫓で、棟札によって現在の建物は、万延元年(1860)年3月に起工し、同年10月に竣工したことが判明しています。
その後、大正7年(1918)には本市内にある黒田家菩提寺の崇福寺が陸軍省から払い下げをうけ、その末寺である北九州市八幡西区の大正寺の境内に観音堂として移築されました。
その際の棟札によると大正9年に竣工しています。
さらに昭和58年(1983)から翌年にかけて再び福岡城の現在の位置に再移築がなされました。
また、その間の昭和32年8月には「旧福岡城祈念櫓」として福岡県の有形文化財(建造物)に指定されています。
大正初期の移築前に撮影されたと推定される古写真と現在の建物を比較すると外観や規模が異なっており、大正寺への移築の際に大幅な改変を受けたものと推測されます。
旧状の櫓の壁は白漆喰で、二層目の窓は花頭窓であったことが写真から判明しています。
2004年3月
福岡市教育委員会
(説明板より)
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鉄御門跡 (平成20年11月25日) |
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埋門跡 (平成20年11月25日) |
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平成20年11月25日再訪問 | 平成12年5月4日訪問時 |
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大天守台跡 (平成20年11月25日) |
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中天守台・小天守台跡 | 大濠公園方向 |
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小天守台跡 (平成20年11月25日) |
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御武具櫓跡 (平成20年11月25日) |
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御旗石跡 (平成20年11月25日) |
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水鏡権現聖照権現 相御殿跡 (平成20年11月25日) |
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月見櫓跡 (平成20年11月25日) |
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屏風櫓跡 (平成20年11月25日) |
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二の丸跡 (平成20年11月25日) |
二の丸跡梅園
この地は慶長5年(西暦1600年)徳川家康によって筑前の国に封ぜられた黒田長政が 約7年の歳月をかけて築城した福岡城二の丸跡である
又この梅園並びに施設は 福岡博多ライオンズクラブの創立十周年と福岡博多中ライオンズクラブの創立を記念して寄贈されたもので この史跡に最もふさわしい施設であり 市民の憩いの場として梅の清らかな香りと共に市民に愛される広場になることと期待するものである。
昭和50年2月
福岡市長 進藤一馬
(記念碑・碑文より)
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大組櫓跡 (平成20年11月25日) |
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松原櫓跡 (平成20年11月25日) |
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扇坂御門跡 (平成20年11月25日) |
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松木坂御門跡 (平成20年11月25日) |
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西側広場(三の丸跡) (平成20年11月25日) |
西側広場について
現在の西側広場は、古代から中世においては、現在の大濠から草香江にかけて湾入した内海に面していました。
江戸時代には、福岡城三の丸北西城郭に位置し、上級武士の屋敷や黒田藩主3代目光之以降藩主私邸が置かれ、「御館」「御下屋敷」と呼ばれました。
黒田官兵衛(如水)の隠居所と伝えられる御鷹屋敷があった広場東側の丘は、現在「ぼたん・しゃくやく園」となっています。
(説明板より)
(案内板より)
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福岡市指定文化財(建造物)
名島門なじまもん
昭和53年3月30日指定
この門は、天正15年(1587)小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた名島城の脇門で、慶長年間(1596〜1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、黒田24騎の一人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の一つです。
明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士平岡浩太郎氏によって買い戻され、天神の自宅の門として使用されていましたが、戦後富士ビルの建設に伴い、平岡浩氏(浩太郎氏の孫)によって現在地に移されたものです。
昭和63年2月
福岡市教育委員会
(説明板より)
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母里太兵衛邸長屋門 (平成20年11月25日) |
福島県指定文化財
旧母里太兵衛邸長屋門
筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛(母里但馬守友信)は、黒田24騎の1人で、福島正則から名槍日本号を飲み取った豪傑として知られている。
黒田長政が筑前入国後、6つの支城の一つ大隈城主となったが、慶長20年(1615)6月6日病没した。
現在の天神2丁目の野村証券株式会社の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、この長屋門はそこに構えられていた。
武家屋敷長屋門として代表的なこの江戸時代の優れた建造物を末永く保存していくため、昭和31年に県の文化財に指定され、同40年にこの地に移築されたもので、今もなお往時の姿を伝えている。
昭和53年3月
福岡市教育委員会
(説明板より)
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「黒田如水公御鷹屋敷跡」の碑 黒田官兵衛孝高(如水公)は慶長8年から翌9年に没するまでこの地に隠居した 進藤一馬書 福岡市教育委員会 (碑文より) (平成20年11月25日) |
黒田如水隠居地(三之丸御鷹おたか屋敷)跡
黒田官兵衛孝高よしたか(如水じょすい)[1546〜1604]は、戦国時代の武将で、筑前黒田藩の藩祖とされる。
はじめ赤松氏の一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが、のちに羽柴秀吉に従い、竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、中国、四国及び九州の平定の後はその軍功により豊前国六郡を封ぜられ、同地に中津城を築いた。
長子長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。
如水の隠居後、関ガ原の役の功により、長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ筑前黒田藩の初代藩主となって福岡城を築いた後は、如水もその晩年を福岡城で過ごした。
福岡黒田家に仕え、儒者・博物学者として著名な貝原益軒の書「筑前国続風土記ちくぜんのくにぞくふどき」の中に、「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。是又本丸より高かりしかば、山をならしてひきゝ(低い)岡とし、如水公の兎裘ときゅうの宅地(隠居所)とせらる。」という記述のある「三ノ丸御鷹屋敷」は現在のここ「ボタン・シャクヤク園」にあった。
福岡市教育委員会
(説明板より)
(説明板より)
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下之橋御門しものはしごもん
(県指定文化財 昭和31年4月3日指定)
福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年をかけて築かれました。
城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋かみのはし・下之橋しものはし・追廻橋おいまわしばしにそれぞれあり、このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。
現在の門は、文化2年(1805)に建てられましたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。
平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行い、同20年に二層櫓門にそうやぐらもんとして復原しました。
門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献史料などにより、その規模、北側の下屋げやの様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁しっくいかべなどが明らかになりました。
また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にしました。
この復原は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復原整備検討委員会」」で検討されたものです。
これとは異なった復原案も提案されましたが、現段階でより蓋然性が高いと判断された本案を採用しました。
平成20年11月 福岡市教育委員会
(説明板より)
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(伝)潮見櫓しおみやぐら
福岡城に50近くあった櫓の一つです。
大正初期に浜の町の黒田別邸に移築され、昭和31年(1956)に再移築されました。
潮見櫓の本来の位置は、現在の位置ではなく三の丸北西角であり、また、この建物は平成3年の調査の結果、潮見櫓ではなく、城内の別の櫓であると考えられています。
(説明板より)
【天守がなかった福岡城】
黒田如水じょすいは息子の長政と共に中津城を出て、筑前に赴き、小早川隆景が築いた名島なじま城に入城した。
しかし、名島城は要害であっても辺地に過ぎ、城下町を営むべき余地も乏しかった。
そこで長政は、如水と相談して警固けいご村の福崎ふくざき、すなわち、那珂なか川を挟んで博多と隣り合わせの地に新城を築いた。
これが福岡城である。
工事は慶長6年(1601年)に始まり、同12年に竣工をみた。
かつて如水に世話になった九州の諸大名が労務者を提供するなど、築城に加勢している。
今は埋め立てられてしまったが、那珂川と城を結ぶ幅35間(1間は約1.8メートル)の肥前堀(佐賀堀)などは、先年、如水が佐賀城築造に尽力してくれたお礼として、鍋島直茂が掘らせたものである。
福岡城は、内城と外城に分れており、内城だけでも総面積8万坪と、規模は九州諸城のうち一番大きい。
内城はまた、幅広い堀に囲まれれ一見、小島のような観を呈し、その堀は博多湾へと繋がっていた。
当時はまだ海外貿易が禁止されておらず、博多は堺と並ぶ大貿易港であった。
黒田氏にとってみれば、博多港は金の卵を産む鶏のようなものである。
内城の縄張は、そのような海による雄飛をもくろんだ黒田氏の意気込みが偲ばれる構造になっている。
しかし、いぶかしいのは、内城に天守台は築かれたのに、最後まで天守が姿を見せなかったことである。
天守台の石蔵は、本丸の位置する赤坂山より9メートル、市街地よりは20メートルほど高く畳み上げられており、面積も500平方メートル弱と、なかなか壮大である。
如水が新城築城にあたり、天下への夢を諦めていなかったことは、縄張に際し、福岡城を九州一の巨城として構想したことから窺い知ることができる。
しかし、慶長8年に家康が征夷大将軍の宣下せんげを受けた時に、如水は、もはや天下取りは不可能と知る。
その翌年、如水は死病にとりつかれ、いかに黒田家を存続させるかを心配した。
子の長政は、生涯に30数度戦って一度も敗れたことがないという勇将だが、短慮に走る傾向があった。
そこで如水は、天守を築いてはならぬと長政に遺言し、長政の暴走にブレーキをかけたのである。
大局を見るに敏で、奇略縦横の軍師・如水が、御家おいえ安泰のために最後に放った秘策であった。
その真意を、長政はどの程度理解したかはわからないが、如水の遺言は代々伝えられ、天守は江戸時代を通じて福岡城に出現することはなかった。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月16日 追記)
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大濠公園 (平成20年11月25日) |
大濠公園の沿革と概要
慶長年間、黒田長政が福岡城を築城する時、博多湾の入江であったこの地を外濠として利用、昭和2年ここで開かれた東亜勧業博覧会を機に造園工事を行ない、昭和4年県営大濠公園として開園したものです。
大濠公園は福岡市のほぼ中央に位置し、総面積が約40万平方メートルあり、うち約21万平方メートルの池を有した、全国有数の水景公園です。
(説明板より抜粋)
(平成22年7月8日全面改訂)
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黒田家の江戸屋敷鬼瓦 (東京都台東区上野公園・東京国立博物館) (平成20年11月6日) |
黒田家の江戸屋敷鬼瓦
徳川幕府の参勤交代の制度により、江戸には諸大名の屋敷が設けられた。
この鬼瓦は、筑前福岡藩主黒田家の屋敷(現在の千代田区霞ヶ関、外務省の地)の建物の棟飾りとして用いられたものである。
鬼瓦といっても鬼面にはなっていない。
複雑な雲紋の鰭ひれまでを一体に造った大振りなものとなっており、屋根を重厚にする江戸趣味をよくあらわしている。
(説明板より)
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