(広島県福山市丸之内1-8 JR福山駅北口より徒歩5分)
元和5年(1619年)、広島城主・福島正則が除封されると、その後へ紀伊和歌山から浅野長晟ながあきらが広島に、大和郡山から水野勝成が福山へ移封された。
同年8月、海路西下して鞆津とものつに上陸した水野勝成は神辺城に入った。
神辺城は古く守護・山名氏の拠った城で、福島正則の時代に広島の支城として家老の福島丹波重治が預かっていた。
元和一国一城令により、城郭の構えこそある程度の撤去があったとしても、要害の山城で、重治の屋敷跡もあり、武家屋敷も備わっていた。
しかし、神辺城は山間に位置し、城地も狭く、交通も不便であった。
封建領主として領国経営を行なっていくには、城下町建設は不可欠の条件で、城普請が第一の課題となった。
そこで、野上村常興寺の地を選んで福山城築城となる。
この地は山陽道から近く、西側を南北に流れる芦田川は水運の便を有し、同時に自然の要害をなし、北に山を背負い平野を控え、南は海をのぞむ要地である。
築城には家老・中山将監を総奉行に、神谷治部を土木奉行に任じ、勝成自身も陣頭指揮に当った。
神辺城の遺材転用だけでなく、幕府からは伏見城の遺構が多く下賜され、福山に運ばれている。
また、幕府から金1万2600両、銀380貫が貸与されている。
幕府から石垣奉行の名のもとに、花房志摩守、戸川土佐守が派遣された。
この二人は、不要の要害を構えたりするような好ましくない工事を監視させる目付けの役目があったようである。
水野氏は中国に配置された最初の譜代大名で、岡山、広島、両外様大藩の間に割り込む形となった。
元和6年(1620年)5月には、大洪水に見舞われ、人柱伝説を生むほどの難工事だったが、同8年ともかくも完成。
この時から福山城と呼ばれる。
城主の居所となった本丸、二の丸は内堀と二重の石垣があり、本丸の五層六階の天守は、付櫓を有する複合天守で、江戸時代築城の天守としては随一の作品との評価がある。
北面の壁を搦手の手薄と、風雨を防ぐ方法として鉄板張りとし、他に例のない天守であったが、戦災で焼失。
今は復興天守となっている。
5代・勝岑が僅か2歳で没すると水野氏は断絶。
松平忠雄を経て、元禄13年(1700年)、阿部正邦が10万石で入り代々相伝した。
(参考:大類 伸 監修『日本城郭辞典』 昭和45年初版発行 秋田書店)
平成22年5月2日
福山城
福山城は、西国鎮護の重責を担って入封した徳川譜代の臣、水野勝成が、元禄6年(1620)より3ヶ年の歳月を費し、陸海の要衝であるこの地に完成させた平山城である。
総面積約8万坪(26.5ha)内外二重の堀をめぐらし、本丸には、白亜の五層六階の複合天守と多数の櫓を構築、その偉容は、全国城郭中屈指の名城とされていた。
その後、水野5代、松平1代、阿部10代の居城となり、明治になって濠は埋められ、月見櫓をはじめ多くの櫓が取り壊され、残された天守閣・湯殿等も第二次世界大戦の戦火により焼失した。
幸いにも、築城当時、伏見城から移築した伏見櫓・筋鉄御門は、昔日の姿を留め、貴重な遺構として重要文化財の指定を受けている。
なお、現在の天守閣等は、昭和41年市制50周年記念事業として、市民の浄財で外観復元がなされ、城跡は国の史跡となっている。
城名 鉄覆山朱雀院久松城
別名 葦陽城
(碑文より)
【福山城伏見櫓・筋鉄御門】
伏見櫓は、桁行8間、梁間3間、3層入母屋造、本瓦葺の建物で、福山城築城にあたり、伏見城松の丸東櫓を移築して建てられた。
初層と二層は同じ平面で、その上にやや小さい三層を載せ、内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井としている。
城郭建築史上、初期の様式を残しており、伏見城の確かな遺構としても貴重である。
筋鉄御門は、桁行10間、梁間3間、入母屋造、本瓦葺の脇戸付御門で、伏見櫓と同じく伏見城から移築された。
下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、扉にも12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど堅固な造りとなっている。
(説明板より)
伏見櫓 |
伏見櫓(重要文化財)
三層の隅櫓、本瓦葺、伏見城「松の丸東やぐら」(梁の陰刻による)にあったものを元和8年(1622)水野勝成の福山城築城に当って、将軍秀忠が移建させたものである。
伏見城の城郭建築の遺構としては稀有のもので、白壁三層の豪華な姿に桃山時代の気風がうかがわれる。
(リーフレット『福山城博物館』より)
筋鉄(すじがね)御門 |
筋鉄御門(重要文化財)
入母屋造り、本瓦葺、脇戸付、櫓門、福山城本丸の正門で福山築城に際して、伏見城から移建したものといわれている。
柱の角に筋鉄を施し、扉に数十本の筋鉄をうちつけているためその名が生まれたものである。
左に渡櫓、右に多門を連接さしたもので、後代の桝型多門の形をとらない初期様式のものである。
~本丸西南~
(リーフレット『福山城博物館』より)
鐘櫓 |
福山市重要文化財
福山城鐘櫓
昭和54年10月26日指定
築城当時より城下や近隣諸村に“時の鐘”をつげた遺構で江戸期には鐘と共に緊急時武士を招集する太鼓も備えていた。
当初は杮ぶきか桧皮ぶきであったが明治以後荒廃が激しくたびたびの補修のため原形をとどめない状況であった。
昭和54年銅板ぶきとし旧規に復したものである。
城地内に鐘櫓が所在するのは全国的に例がなく貴重な文化財である。
福山市教育委員会
(説明板より)
福山市重要文化財 鐘櫓
この鐘は、全自動装置によりつぎの時間にそれぞれ鳴ります。
午前6時・正午・午後6時・夜10時
1985、創立18周年記念
2000、創立33周年記念(全面改修)
贈 福山中央ライオンズクラブ
(説明板より)
鏡櫓(文書館) |
鏡櫓文書館 かがみやぐらもんじょかん
福山を中心とした郷土史関係の資料や古文書、記録類を収蔵しています。
閲覧利用もできます。
調査や研究、学習の場としてご利用下さい。
古文書・福山城古写真も展示しています。
鏡櫓
福山城本丸東側に位置した2層2階の櫓。
元和5年(1619)水野勝成が10万石の領主として福山城を築いた時に建てられたものです。
明治6年廃城の際に取り壊されましたが、市制50周年記念事業のひとつとして昭和48年外観復原されました。
○開館時間 9:00~16:30
○休館日 月・水・土・祝・第1、3日
○入館は無料です
(説明板より)
月見櫓 |
月見櫓
月見櫓はもと京都伏見城内にあったものを移建したもので、本来は着見櫓のことである。
追手側(南)も入江方面も展望出来る南東隅に築かれ、藩主等の到着を見極める役割をなしていた。
1階南面に石落としがあり、古い建築様式をもっている。
明治初年にとりこわされたが、昭和41年秋、天守閣とともに外観復原されたものである。
(リーフレット『福山城博物館』より)
伏見御殿跡 (平成22年5月2日) |
湯殿 (平成22年5月2日) |
御湯殿
京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていた。
建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間とにわかれていた。
昭和20年の戦災により焼失したが、昭和41年秋、天守閣とともに外装、内部ともに復原されたものである。
(リーフレット『福山城博物館』より)
天守閣 |
天守閣
福山城の城郭は南面し、天守閣は本丸の北隅に位置している。
五重六階地下一階、別に二層三階の付櫓をもつ複合天守で、外見は六階のように見える。
一重目の南北面と二重目の東西面は比翼入母屋、その他の各層には千鳥破風や唐破風を設けている。
城号は敵追山(鉄覆山)朱雀院久松城(てきおいさんすじゃくいんひさまつじょう)といい、別名を葦陽城ともいう。
現在は福山城博物館として、福山を中心とした歴史と文化を物語る資料の展示をおこない、社会教育の文化センターとしての役割をはたしている。
昭和41年復原
(リーフレット『福山城博物館』より)
天守閣から見た景色 |
棗御門 (平成22年5月2日) |
石垣 |
右:JR福山駅 (平成22年5月2日) |
(JR福山駅から見る)
【福山城 藩主一覧】
水野家 | 当主 | 生年・没年 | 藩主在任 | 記事 |
初代 | 水野勝成かつなり | 永禄7(1564) ~ 慶安4(1651)88歳歿 |
元和5(1619) ~ 寛永16(1639) |
徳川家康と従兄弟同士 大和郡山城から入封 福山城を築城 |
2代 | 水野勝俊かつとし | 慶長3(1598) ~ 明暦1(1655)58歳歿 |
寛永16(1639) ~ 承応4(1655) |
島原の乱に父勝成と共に出陣 |
3代 | 水野勝貞かつさだ | 寛永2(1625) ~ 寛文2(1662)38歳歿 |
承応4(1655) ~ 寛文2(1662) |
島原の乱に父勝俊と共に出陣 |
4代 | 水野勝種かつたね | 寛文1(1661) ~ 元禄10(1697)37歳歿 |
寛文3(1663) ~ 元禄10(1697) |
3歳で家督を相続 江戸城奥詰 |
5代 | 水野勝岑かつみね | 元禄10(1697) ~ 元禄11(1698)2歳歿 |
元禄10(1697) ~ 元禄11(1698) |
当才で家督相続、翌年死去 嗣子がいないためお家断絶 |
(三代官時代)
山本与惣左衛門、穴倉与兵衛、曲淵市郎右衛門
松平家 | 当主 | 生年・没年 | 藩主在任 | 記事 |
松平忠雅ただまさ | 天和31683) ~ 延享3(1746)64歳歿 |
元禄13(1700) ~ 宝永7(1710) |
出羽山形より入封 わずか11年で伊勢桑名へ転封 |
阿部家 | 当主 | 生年・没年 | 藩主在任 | 記事 |
初代 | 阿部正邦まさくに | 万治1(1658) ~ 正徳5(1715)58歳歿 |
宝永7(1710) ~ 正徳5(1715) |
下野宇都宮城より入封 |
2代 | 阿部正福まさよし | 元禄13(1700) ~ 明和6(1769)70歳歿 |
正徳5(1715) ~ 寛延1(1748) |
大坂城代 |
3代 | 阿部正右まさすけ | 享保9(1724) ~ 明和6(1769)47歳歿 |
寛延1(1748) ~ 明和6(1769) |
寺社奉行、京都所司代 老中を歴任 |
4代 | 阿部正倫まさとも | 延享3(1746) ~ 文化2(1805)60歳歿 |
明和6(1769) ~ 享和3(1803) |
奏者番、寺社奉行、老中を歴任 |
5代 | 阿部正精まさきよ | 安永3(1774) ~ 文政9(1826)53歳歿 |
享和3(1803) ~ 文政6(1823) |
奏者番、寺社奉行、老中を歴任 |
6代 | 阿部正寧まさやす | 文化6(1809) ~ 明治3(1870)62歳歿 |
文政6(1823) ~ 天保7(1836) |
早くに隠退し、文筆を楽しむ |
7代 | 阿部正弘まさひろ | 文政2(1819) ~ 安政4(1857)39歳歿 |
天保7(1836) ~ 安政4(1857) |
奏者番、寺社奉行、老中を歴任 日米和親条約を締結 藩校・誠之館をつくる |
8代 | 阿部正教まさのり | 天保10(1839) ~ 文久1(1861)23歳歿 |
安政4(1857) ~ 文久1(1861) |
23歳の若さで死去 |
9代 | 阿部正方まさかた | 嘉永1(1848) ~ 慶応3(1867)20歳歿 |
文久1(1861) ~ 慶応4(1868) 喪を秘していたため 実際は慶応3年まで |
16歳で京都守護の任 長州征伐に軍を進める 大政奉還の翌月に死去 |
10代 | 阿部正桓まさたけ | 嘉永4(1868) ~ 大正3(1914)64歳歿 |
慶応4(1868) ~ 明治2(1869) |
明治2年6月版籍を奉還 福山藩知事となる |
(参考:『新版 福山城』 福山市文化財協会発行 2008年第3版)
【福山城】
水野勝成が福山城を築くに至ったのは、安芸あき(広島県)・備後二国50万石の太守・福島正則の改易が原因だった。
このとき幕府は、正則の領地を分割して、安芸を浅野長晟ながあきらに、備後を大和郡山6万石の城主だった勝成に与えたのである。
石高は10万石で、4万石の加増だった。
備後に入国した当初、勝成は従来からあった神辺かんなべ城にひとまず落ち着いたが、この城は甚だ手狭な城で、しかもたびたび落城するという、あまり芳しくない前史をもっていた。
そこで勝成は早速、城造りの適地を探し、最終的に深津郡野上村の常興寺山に白羽の矢を立てた。
当時の常興寺山は、芦田あしだ川の河口に形成された数個のデルタの一つの上に盛り上がる小高い山で、周囲を川や瀬戸内海という天然の要害に守られた要地であり、そのうえ水軍を動かすのにも至便の地の利を得ていた。
常興寺山は福山と名を改められ、築城工事は、移封の翌元和6年(1620年)に始まった。
築城奉行に任じられたのは、重臣・山中重政だったが、勝成も天神山に仮屋を建てて日夜工事を指揮・監督するほどの熱の入れようだった。
福山城の縄張は、本丸を福山の台地の上に設け、その下を二の丸・三の丸が囲む輪郭式の平山城である。
天守の建つ本丸には、練塀ねりべいを用いた天守曲輪が配され、二の丸と三の丸の間には内濠が満々と水をたたえ、三の丸の外部に幅広い外濠が掘られていた。
さらに、捨すて曲輪のような場所をいくつか設けてあったが、これはもし敵が攻めてきた場合、攻撃の矛先を分散させるのが目的である。
大手門は二の丸の南方に開き、外濠の西方および西南方に侍町が、東方および東南方に町屋が置かれ、その外部は土塁を巡らしてある。
この城下町は階段的な構成になっており、道は随所で屈折して見通しが悪いが、すべて防御の便を考えてのことである。
創建当時の五層五階地下一階、塗籠ぬりごめの複合天守は、残念ながら昭和20年8月8日に直撃弾を受けて焼失してしまった。
現在の天守は昭和42年に再建されたものである。
この創建当時の天守は、北面の外部に土台ぎわから最上階まで鉄板を張り巡らせていたことで知られる。
これは天守が本丸の北寄りに立地していたので、裏手から攻めかけられた時の用心のためで、福山城は城下町を含めて、実戦を重視した堅城だった。
これほどの規模の城造りだと、普通は完成までに10年前後はかかるが、福山城の場合はわずか2年半で竣工にこぎつけた。
また『武家諸法度』などにより、城の新造どころか、ちょっとした修築まで制限されていた当時、神辺城がありながら、新たに福山築城が許されたというのは異例なことである。
福山藩に隣接する東西の大名は、東は岡山藩の池田氏、西は広島藩の浅野氏で、共に外様とざま大名の雄である。
それに対して、勝成はれっきとした譜代大名である。
つまり勝成は、両外様大名の連携を絶ち、かつ彼らの動向を監視する役目を負わされて、福山に移封されたのである。
つまり、幕府の政策があってはじめてこの二つの異例が可能となったわけで、勝成の抜擢は幕府の政治的配慮だったのである。
ちなみに幕府は、福山築城に際し、戸川土佐守・花房志摩守はなぶさしまのかみを石垣奉行として派遣し、さまざまに特別な便宜をはからせている。
たとえば、現存する伏見櫓など伏見桃山城の建物を数多く福山城に移築したのも、その一つである。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月12日 追記)
旧内藤家長屋門 (平成22年5月2日) |
福山市指定重要文化財
旧 内藤家長屋門
この長屋門は 福山城の外濠に面した位置にあった武家屋敷内藤家の長屋門である。
昭和20年(1945)の戦災で城下町の風情を喪失した福山にあって藩政時代を偲ぶにふさわしい貴重な建造物である。
内藤家の初代延常は武蔵国(埼玉県)岩槻城主阿部正次の家臣となり阿部家が宝永7年(1710)福山藩主に封じられたとき内藤家三代延貞が随従し以後明治4年(1871)の廃藩まで阿部家家臣として仕えた。
本建造物は 昭和51年3月 所有者である福山市西町中井良介氏より福山市が寄贈を受け現位置に解体修理移築をしたものである。
構造形式等
桁行 17.73メートル
梁間 2.955メートル
平面積 52.39平方メートル
屋根 入母屋造 桟瓦葺
建築年代 弘化3年(1846)
福山市教育委員会
(説明板より)
内堀跡 (平成22年5月2日) |
内堀跡
福山城の内堀は、明治24年(1891)に開通した山陽鉄道(現在の山陽本線)の路線として埋められました。
現在、内堀の跡が残っているのは、福山城本丸をはさんで、現在地とJR福山駅北口パークロードに沿った公園内だけです。
(説明板より)
福山城物見櫓跡 (平成22年5月2日) |
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