府内城 ふないじょう

大分県大分市荷揚町


府内城 平成20年11月18日

府内城あんあい

府内城は1597(慶長2)年、福原直高なおたかにより築城が始められ2年後には一部が完成しましたが、直高の領地没収によって中断、これに代わった早川長敏ながとしも1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に加担して取り潰されました。
次いで翌年、竹中重利しげとしが入封して築城工事を再開、石垣の築造には熊本藩の加藤清正の援助を受けるなどして、1602(慶長7)年四重の天守閣がそびえる城郭が完成しました。
続いて城下町の建設が始められ、やがて東西約1.1キロメートル、南北約1キロメートルにおよぶ、豊後最大の規模を誇る府内城下町が出来上がりました。
荷揚にあげ城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかつての「荷落ろし」(交易地)の場所に城地を定めました。
荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み「揚」の字に改めたといわれています。
今はその面影はほとんど失われていますが、府内城と府内城下町は内堀(現存)、中堀、外堀の三つの大きな堀をもち、北は海に接してまさに水城ともいえる城でした。
また、その美しい姿から白雉はくち城とも呼ばれています。
城と城下町を完成させた竹中氏は、その後長崎奉行を兼務していた重義しげよしの時に、非違をとがめられて断絶しました。
代って1634(寛永11)年、壬生みぶ城(栃木県)から日根野吉明ひねのよしあきらが入封しましたが、あとつぎがなく、一代で断絶しました。
次いで松平(大給おぎゅう)忠昭ただあきらが1658(万治元)年に新藩主として入封、以来1871(明治4)年の廃藩置県まで、2万余石の譜代大名として10代にわたる藩主によって府内藩政が進められました。
この間1743(寛保3)年に城下におこった大火によって、天守閣を始め城の施設が多く焼失し以後天守閣は再建されませんでした。
1871(明治4)年11月大分県が成立、翌年城内に県庁が置かれて県政の中枢を担う場所となりました。
1921(大正10)年には、新県庁舎が竣工しましたが、戦後1962(昭和37)年庁舎の移転にともない、1966(昭和41)年には現在の大分市文化会館が完成しました。
この年、1945(昭和20)年の米軍の大分空襲により焼失した5つの櫓も復元(鉄筋コンクリート製)され、往時の姿を取りもどしました。
城跡は旧状をとどめる堀、土塀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定され、また城址公園として市民の憩いの場になっています。

大分市教育委員会

(説明板より)

天守台跡




天守台跡






(平成20年11月18日)
本丸跡




本丸跡





(平成20年11月18日)
人質櫓




人質櫓





(平成20年11月18日)
東の丸・北東隅櫓




東の丸・北東隅櫓






(平成20年11月18日)
西の丸・西南隅櫓




西の丸・西南隅櫓





(平成20年11月18日)
東の丸・着到櫓



手前:西の丸・西南隅櫓
奥:東の丸・着到櫓






(平成20年11月18日)
大手門




大手門





(平成20年11月18日)

府内城跡

大分市荷揚町73ほか
県指定史跡(昭和38年2月15日)
人質櫓・宗門櫓・堀・土塀・石垣・櫓(天守台)跡

沿革(別称 荷揚にあげ城・白雉はくち
1597年 慶長 2 福原直高なおたかが築城開始
1599年 慶長 4 東三重櫓と三の丸の家臣屋敷が完成
早川長敏が府内藩主に
1601年 慶長 6 竹中重利が府内藩主に
1602年 慶長 7 四重天守閣、山里、諸櫓、中堀などが完成
1605年 慶長10 外堀が完成
1607年 慶長12 笠和口、堀川口、塩九升しょくじょう口の門が完成
1608年 慶長13 京泊きょうどまり(港)が完成
1634年 寛永11 日根野吉明ひねのよしあきらが府内藩主に
1658年 万治 元 松平(大給おぎゅう)忠昭ただあきら(てる)が府内藩主に
1743年 寛保 3 城下大火で天守閣以下諸施設焼失
1872年 明治 5 大分県庁が置かれる
1945年 昭和20 米軍空襲により着到ちゃくとう櫓など焼失
1965年 昭和40 着到櫓などを再建

大分市教育委員会

(説明タイル板より)

説明タイル板 (説明タイル板)

帯曲輪跡




帯曲輪跡





(平成20年11月18日)

帯曲輪(おびくるわ)

府内城は江戸時代、本丸・東ノ丸・西ノ丸・と山里丸を含む北ノ丸からなり、天守閣のあった本丸周辺には水掘があり、北方も海に面した典型的な浮城となっていました。
堀の東側から北側には、堀を囲んで、堤防状の土手が築かれていました。
これは、帯曲輪と言われ、城と海とを区画するための外周施設で、古絵図によれば、354間(約644メートル)の長さと書かれています。
現在、お堀の東側に外苑として細長く残っているこの場所がそれにあたります。

(説明板より)

説明板の絵図 (説明板より)

人柱 お宮




人柱 お宮





(平成20年11月18日)

人柱 お宮

今からおよそ400年前、福原直高が、この地に荷揚城(現在の府内城)を築城する際、度重なる水害に工事が進まず人柱ひとばしらを立てることになりました。
上野六坊うえのろくぼうに住む孝行娘のお宮が一家を救うために立ち、弁財天べんざいてんの木像を抱いて人柱となりました。
その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに府内城の鎮守としてあがめられたと伝えられています。
手前の階段を下り、お堀に沿って天守台の下にお宮を祀った祠ほこらがあり、毎年3月18日に法要が行われています。

大分市教育委員会

(説明板より)

内堀跡


内堀跡


かつて府内城は本丸を囲む内堀を有し、ここは内堀の北西の端にあたる場所です。
(説明板より)



(平成20年11月18日)
西の丸・冠木門跡




西の丸・冠木門跡






(平成20年11月18日)
冠木門の礎石


冠木門の礎石
(西の丸跡)

かつて西の丸と廊下橋の間には、冠木門(柱の上に横木を渡した屋根のない門)があり、この石はその冠木門の礎石です。
(説明板より)


(平成20年11月18日)

廊下橋

廊下橋とその周辺 (説明板より)

廊下橋

松栄神社の場所は、かつて山里丸と呼ばれた廓くるわのあった場所です。
山里丸は、茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示す貴重な史跡です。
山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられていた渡り廊下が、この廊下橋です。
山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年度に復元しました。
復元に先立って、平成7年度に行った発掘調査の結果、「慶長期絵図」「松栄神社所蔵絵図」等を参考にしました。
廊下橋の規模は、長さ21.7m、復員2.4m、橋脚高3.8m、建築部分の最高高さ4.6m、檜ひのき造り、壁はしっくい塗り、屋根は檜皮ひわだ葺きとなっています。

(説明板より)

慶長の石垣

慶長の石垣
(山里丸)


この石垣は、築城当時の慶長期(1600年前後)に積まれたもので山里丸(現松栄神社)を囲む石垣の一部です。
(説明板より)


(平成20年11月18日)
山里丸




山里丸跡

(松栄神社)




(平成20年11月18日)
松栄神社



松栄神社







(平成20年11月18日)

松栄神社沿革

当神社は慶長末期、上州(現在群馬県)水沼村に松平家(徳川家康生家)の祭神近正八幡宮として創祀され、戦国時代混乱治世の神、疫病災厄鎮護の神として国内に名声高く国民の信仰顕著なりしため、享保14年(1729年)豊後府内藩主直参の宮として城内山里の邸この土地に祭祀され、寛政11年神託により松栄山(現県護国神社社地)に遷宮、松栄神社と称されたがその後、日田広瀬久兵衛の助言もあり、藩財政の確立成り、幕府の信頼も厚く国内の信仰いよいよ広まり明治18年住民の信望に応え、市内堀川町奉行所跡地に新宮建立遷宮す。
更に明治33年現在地に復元し今日に至るが、その後幾多の災害や昭和20年大戦災も奇跡的に免れ全市民の信仰益々厚く祭典も数日に渉り盛大に行われたが、終戦後世相の変遷により荒廃極に達したので、昭和43年全市民の協賛により明治百年記念改修が行われ面目を一新し、時恰も新産都進行の途上の市発展守護の神とし、市民のシンボルとなり、加えて疫病免除産業繁栄の神徳を祈る参拝者は日を追って増加しつつある。

府内藩記録資料より

昭和44年6月24日
荷揚校区全町代表総代 建之

(説明板より)




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