船津伝次平 ふなづ・でんじべい

天保3年11月1日(1832年11月22日)~明治31年(1877年)6月15日


明治期の篤農・農業指導者。
上野国の農家に生まれる。
幕末期に植林事業に名主として尽力する。
維新後、熊谷県に登用されて養蚕の普及に努めたことが認められ、明治10年(1877年)に内務省御用掛となる。
駒場農学校の農場を担当して、実習指導と農業の講義にあたる。
のちに農商務省農務局を経て農事試験場技師となるが、その間、巡回教師として全国の農談会などに招かれ、農事改良の指導に努めた。







 船津翁の碑
 (東京都北区・飛鳥山公園)





(平成26年8月24日)

船津翁の碑

船津翁は、近世三老農のうち最もすぐれた人である。
翁は実験と学理をもととし農蚕業の改良を唱え、足跡全国に及び近世日本の農事を刷新した。
翁は幼名を市蔵と云い、天保3年(1832)10月群馬県勢多郡富士見村に生れた。
翁は父の教訓を守り農事に励み、余暇に和漢の学問と和算を学び長じて名主となり赤城山麓の植林事業を指導し、又門松に用いる心松の伐採を禁止するなど多くの業績を残した。
世は変り、明治10年(1877)12月大久保内務卿の懇請により駒場農学校農場監督となり、後に農商務省に入り、かねて唱えていた農事試験場が西ヶ原に設けられたのでここに転じ、在職20年各地に播いた農道、農魂、農学そしてあくまで土に立つ崇高なものは農業であることを説いて廻った。
年老いて郷里に戻った時はさすがに身体は衰弱していて幾許もなく病の為この世を去った。
今の静岡県の石垣苺の栽培法は翁の研究が最も高く使われている。

篆額は、小松宮彰仁親王、文は品川弥二郎で、書は小野鵞堂である。
横井時敬等の提唱によって全国からよせられた寄付金で明治33年12月に建てられた。
この碑は翁の郷里赤城山麓を向いて建っている。

船津傳次平翁伝 上毛篤農伝参照
東京都北区役所

(説明板より)




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