風船爆弾


風船爆弾放流地跡の碑 平成16年5月30日

風船爆弾放流地跡の碑(茨城県北茨城市大津町)
五浦の海岸線沿いに建っています。

風船爆弾放流地跡の碑




『風船爆弾放流地跡 わすれじ 平和の碑』






(平成16年5月30日)

風船爆弾放流地跡

この辺一帯は 昭和19年11月から昭和20年4月の間 アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地です
背後の低い丘と丘にはさまれ 現在は田んぼに復元されている幾つもの沢に 放球台や兵舎 倉庫 水素タンクなどが設置されていました

これは極秘の「ふ」号作戦といわれ 放流地はほかに福島県勿来関麓と千葉県一の宮海岸 あわせて3か所でしたが 大本営直属の部隊本部はこの地にあり 作戦の中心でした

晩秋から冬 太平洋の上空8千メートルから1万2千メートルの亜成層圏に最大秒速70メートルの偏西風が吹きます
いわゆるジェット気流です
風船爆弾は50時間前後でアメリカに着きます
精密な電気装置で爆弾と焼夷弾を投下したのち 和紙とコンニャクのりで作った直径10メートルの気球部は自動的に燃焼する仕掛けでした

第2次大戦中に日本本土から1万キロメートルかなたのアメリカ合衆国へ 超長距離爆撃を実行したのはこれだけであり 世界史的にも珍しい事実として記録されるようになりました
約9千個放流し 3百個前後が到達
アメリカ側の被害は僅少でしたが 山火事を起したほか 送電線を故障させ原子爆弾製造を3日間遅らせた という出来事もあとでわかりました
オレゴン州には風船爆弾による6人の死亡者の記念碑が建っています
ワシントンの博物館には不発で落下した風船の1個が今も展示され 深い関心の的になっています

しかし戦争はむなしく はかないものです
もう二度とくり返さないように努めましょう
この地で爆発事故のため 風船爆弾攻撃の日に 3人が戦死したことも銘記すべきでしょう
永遠の歴史の片隅で人目を偲び いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です

昭和59年11月25日建之

(碑文より)


『ふ』号作戦気球部隊(千葉の気球連隊を改編)
正式編成:昭和19年9月8日
編成完結:昭和19年9月26日

連隊長:井上茂・大佐
連隊本部:茨城県大津

編制
連隊本部=茨城県大津
通信隊
気象隊
連隊材料廠
第1大隊(3個中隊・1個段列中隊)=茨城県大津
第2大隊(2個中隊・1個段列中隊)=千葉県一宮
第3大隊(2個中隊・1個段列中隊)=福島県勿来

※1個中隊=2個小隊、1個小隊=3個発射分隊、1個発射分隊=1個発射台
※1個中隊=将校12〜13名、下士官22〜23名、兵約190名
※段列中隊=水素ガスの充填、焼夷弾・爆弾等の運搬・装備を担当

試射隊=千葉県一宮
(ラジオゾンデを装備した観測用気球を放流し、電波を受信標定して気球の経路を追跡する部隊)

標定隊
標定本部=宮城県岩沼
第1標定所=青森県古間木
第2標定所=宮城県岩沼
第3標定所=千葉県一宮
(のちに樺太にも標定所を設けた)

総員:約2千名
予算:基地整備・運用費として2億円(兵器資材費・制作費は予算外・別会計)
気球製造場所:『国際劇場』『日本劇場』『宝塚劇場』『国技館』『有楽座』など
製造数:1万発(3箇所から9,300発を放流、到達数280発、残存700発は終戦時焼却処分)
攻撃開始日:昭和19年11月3日未明(3か所から同時放流)

事故
第3大隊(福島県勿来)=昭和19年11月1日未明、暴発により死亡3名、負傷3名
第1大隊(茨城県大津)=昭和19年11月3日未明、暴発により死亡3名、負傷4〜5名


岡倉天心邸


岡倉天心邸
(茨城県北茨城市大津・茨城大学五浦美術文化研究所敷地内)

岡倉天心が住んでいた建物が、部隊長宿舎として使用されていたらしいです。



(平成16年5月30日)
鎮魂碑 『風船爆弾犠牲者 鎮魂碑』
(茨城県北茨城市大津町)

「平成10年6月吉辰」とだけ刻まれています。
その他に何も書かれていないのが残念です。

鎮魂碑 平成16年5月30日

国道6号線から『茨城県天心記念五浦美術館』へ向かう道の右側に鎮魂碑が建っています。
事故で亡くなった3名の方の鎮魂碑です。
ここに碑があるということは、この周辺が風船爆弾発射基地だったのでしょう。
今では、それらしき遺跡は何も見当たりません。
ここに実物大の風船爆弾の模型でも野外展示されていたら・・・・などと思ってしまいました。


【水素ガス】

第2大隊(千葉県一宮)と第3大隊(福島県勿来なこそ)は水素の供給を昭和電工川崎工場に依存したが、茨城県大津の第1大隊だけは自前の水素ガス発生装置を備えていた。
後にアメリカ軍の空襲が激しくなるにつれ、この水素ガス発生装置は非常に貴重な存在となる。

(参考:『歴史街道 2011年10月号』)

(平成25年10月2日 追記)


ガスタンク設置場所

水素ガス製造装置及び水素ガスタンク設置場所跡
(茨城県北茨城市大津町)

ここに風船に入れるガスの設備があったと地主さんにご案内いただきました。
地主さんにご迷惑をかけられないので場所はお教えできません。


(平成18年11月10日)
土台跡



水素ガスタンクのコンクリート製土台跡
(茨城県北茨城市大津町)





(平成18年11月10日)
弾薬庫跡



弾薬庫跡
(茨城県北茨城市大津町)

ここは、いわゆる秘密基地ですから、終戦時には徹底的に破壊して全て撤去したため今は何も残っていないそうです。



(平成18年11月10日)



北茨城市歴史民俗資料館

野口雨情記念館)
北茨城市磯原町磯原

ここに少しだけですが、風船爆弾の資料が展示されています。



(平成15年7月6日訪問)

風船爆弾の開発

陸軍登戸研究所

研究主務者
   一科長・草場少将
研究顧問
   八木博士(アンテナ)、藤原博士(気象学)、真島博士(通信工学)、代々木博士(材料工学)
A型気球(紙製)の研究
   主任・大槻少佐、伊藤技師、折井大尉、中川中尉ほか
B型気球(ゴム製)の研究
   主任・武田少佐、西田大尉、中村大尉、藤井中尉ほか
ラジオゾンデの研究
   高野少佐、尾形中尉ほか
材料面研究協力
   山田大佐、伴少佐、岩本大尉ほか
協力研究機関
   第5技術研究所(気球航跡の標定)
     森村中佐、内藤少佐、川島少佐、孤崎中尉、星埜中尉、石川中尉ほか
   第8技術研究所(材料面の研究)
     高田少佐、小日向少佐、吉田大尉ほか
第2陸軍造兵廠(火薬および焼夷弾などの研究)
   深津大尉ほか
陸軍気象部(ラジオゾンデ・気象の研究)
   湯浅技師ほか
中央気象台(太平洋気流研究)
   荒川秀俊技師ほか
陸軍軍医学校(経度信管研究)
   内藤中佐
海軍側
   足達少佐、田中少佐
民間企業
   精工舎、藤倉工業、東芝、日本火工品、国華ゴム工業、横河製作所、久保田無線、三田無線

ふ号兵器(風船爆弾)
アメリカ本土に向けて高度8千メートル以上に吹く偏西風を利用し、紙風船(無圧式)に時限信管をつけた焼夷弾(5キロ・2個)と爆弾(15キロ・1個)を懸架、アメリカ本土上空に辿り着いた頃に落下するように考案された実用兵器。

昭和17年12月に5メートル気球の試作品が完成。
試験飛行は千葉県一宮海岸で行なわれた。
その時の記録、飛行持続時間が5時間、時速100キロ、飛行距離500キロだった。
その後、改良され、実用兵器としての10メートルA型気球が完成。(昭和18年12月)
本格的に実戦使用されたのは昭和19年11月3日(明治節)だった。
翌年4月までの間に約1万個の、陸軍が開発したA型気球が北米大陸に向け放球された。

風船爆弾が到達した範囲は北はアリューシャンのアッツ島からアラスカ、カナダ、西はカリフォルニア州、東はミシガン州、南はメキシコと、ほぼ北米大陸全域に落下したが、1万個のうち、北米大陸に達した数は300球足らず、残りは飛翔中の機材の不調や水素ガスの漏れから自爆したり、撃墜されて海上に落下したりで、行方不明になっている。

風船爆弾が最初に発見されたのは、放球翌日の11月4日。
発見されたのはカリフォルニア州サンペドロの沖合100キロ地点の海上で、発見したのはコースト・ガード(沿岸警備隊)の警備艦だった。
(しかし、ジェット気流に乗ったとしても翌日に到達できる距離ではないので、11月3日以前に放球された試験気球ではないかと思われる)

A型気球
陸軍が開発したもので無圧式とも称され、浮力が高く、多少、地上風があっても放球ができ、球皮には和紙をコンニャク糊のりで貼りあわせた原紙を使った。

B型気球
海軍が研究していた有圧式気球。
球皮には絹羽二重はぶたえにゴム引き材を使用したので、均一の皮を球体に貼ることができた。
しかし、自重が重く、上昇速度も遅くて、無風状態でないと放球できないため、実用気球はA型気球に規格化された。

307装置(高度維持装置)
風船爆弾は水素ガスにより太平洋を渡っていくのだが、球皮からはわずかとはいえ、水素ガスが漏れるし、日中、30℃以上になるガス温が、夜には零下40〜50℃にも下がったりする。
それとともに気球はしぼんで降下する。
そこで、バラストと呼ぶ2キロの砂袋のおもりが32個付けられ、降下を始めるとアネロイド空盒くうごうと称する高度計がそれを感知、電気回路に命じて火薬が点火され、バラストを一つ落とす仕組みになっていた。
落とすと軽くなるので、気球はまた上昇する。
こうしてジェット気流に乗り1万2千キロの太平洋を2日ないし3日で飛び、アメリカ本土上空に達したころ、32個のバラストを使い切って、高度5千メートルになると、爆弾が自動的に投下される。

ラジオゾンデ(高層気象観測用無線発信器)
従来型のラジオゾンデA3型から電池の起電力の持続に重点を置き、数十時間、数千キロの距離で信号を発信できるA1型に転換したことで、飛躍的に通信距離が向上した。

標定所
ラジオゾンデA1型が発信する特殊信号から風船爆弾の航跡を追尾するため、気球連隊に標定隊が配備された。
測定方法は三点追尾方式で、青森県の古間木、宮城県の岩沼、千葉県一宮を標定所に選定。
方向探知機は安立電機製の情報用のものを使用し、これを地下の電磁遮蔽しゃへい室内に設置した。
また、U型アドコック空中線と30メートル半径の完全な地網も設置し、別にV型200メートルのロングアンテナが設備された。
傍受機として高感度のナショナルおよびRCA製受信機を使用して、地上での位置測定の監視体制に万全を期した。

(参考:斎藤充功著 『謀略戦 陸軍登戸研究所』 学研M文庫 平成13年初版発行)

(平成23年5月26日追記)


【風船爆弾】

風船爆弾の構想は、最初は黒竜江をはさんでソ連と対峙する関東軍の、ソ連領への宣伝ビラ撒き、爆撃用として思いついたものである。

太平洋の上空1万メートル内外の亜成層圏にはジェット気流と称する西風が吹いている。
気球をこの風に乗せたら、機関も燃料もなしでアメリカの上空に達するのではないかと思いついたのが登戸研究所である。

研究が完成すると、『登戸』からは第一課宣伝班長の武田照彦兵技少佐が、千葉県一宮海岸に出張。
陸軍第五技術研究所の内藤頼武中佐も、九州から北海道までの間の3ヶ所に、五号特無線機を配置、三点交法で風船の所在を追求する。
海軍からも気象部の安達左京中佐が協力して実験を行なった。
成功間違いなしの見通しがつき、陸軍省と兵器行政本部の所轄に移された。

原料の紙は東上線越生おごせ(埼玉県入間郡)附近の細川紙をはじめ、全国から和紙を集荷。
こんにゃく粉は内地だけでは足りないので、インドネシア、スマトラ、中国からまで集め、群馬県下仁田しもにたの工場で製粉した。

気球の放射地点は根室、宮古、銚子が予定された。
しかし、北海道から飛ばせたのでは北に流れ、ソ連領侵入の危険もあったため、昭和19年冬から、千葉県一宮、大津、勿来の3ヶ所から放流した。

(参考:畠山清行・著 保阪正康・編 『秘録陸軍中野学校』 新潮文庫 平成15年初版発行) 

(平成24年10月7日追記)


【ふ号作戦】

昭和8年、陸軍技術部では、直径2〜4メートルの気球を作り、ソ連領に飛ばす案が出た。
時限爆弾を積んで、敵都市へ落下させようというのである。
昭和14年には、100キロくらいの距離ならば、かなり精度のよいものが完成していた。

昭和18年になって、日本からアメリカ本土へ直接、気球爆弾を飛ばそうという画期的な案が具体化した。
1万キロのかなたでは、対ソ作戦の気球の100倍である。

研究の結果、1万メートルの高空には、強い偏西風が吹いていることが判った。
この偏西風は、北緯40〜60度の間を流れ、数日から十数日の間隔をおいて、2日ほどストップ、その間、別の風が吹くことが多い。
昭和18年8月、無人気球に無線機を載せて追跡したところ、“太平洋をはるかアメリカ方向へ流れていくらしい”ことが判り、アメリカ攻撃も夢ではないと考えられた。
その所要時間は、ざっと30〜100時間(平均60時間)と推定、一般には時速200キロとされた。
これは、“赤とんぼ”練習機のスピードと同じである。

浮力には水素ガスを用いた。
安全なヘリウムより安価で手っ取り早く、無人だから爆発の危険は無視してよい。
技術的難点は、昼夜の気温差が激しいことである。
昼は太陽をまともに浴びるから、気球内の温度は30度を超えるが、夜は零度近くに下がる。
温度差に耐える厚いゴムを使うと浮力不足になる。

そこで考えられたのが和紙を使用し、軽い気球を張り、排気弁をつければということであった。
太陽熱で気球の内圧が高まれば、自動的に弁が開いて気球の爆発を防ぐ。
夜間は気球が縮まって高度が落ちてくるから、自動的に錘おもりが落ちて軽くなるよう工夫された。
錘は砂袋で、この目方の合計は12キロとした。
気球本体は薄い水色で、和紙を貼る糊はコンニャクの粉末が使われた。

搭載する爆薬の量はごく少ない。
錘を含めて20キロの気球では、九二式15キロ爆弾と12キロ焼夷弾が各1発しか積めない。
しかし、気象次第では、砂袋の代わりに1キロ焼夷弾3発、5キロ焼夷弾1発が余分に載せられた。
焼夷弾の代わりにCB兵器「芙蓉」を積み、この化学剤で麦の黒穂病を起こさせようという考えもあったが、これは中止された。

風船爆弾を放球する部隊が、大津(北茨城)、上総一ノ宮に各1個大隊が配置された。
昭和19年11月、明治節を期して一斉放球に入った。
B29の東京大空襲が開始された20日ほそ前である。
直径10メートルの三分の一に水素を詰めるのには、約1時間かかる。
1ヶ所でせいぜい数個、計1日20個飛ばすのがやっとであった。

サンフランシスコ放送は、「12月11日、モンタナ州で巨大な気球の残骸を発見した。日本字を書いた焼夷弾がつけられていた」と、発表した。
また中国の広東放送によると、「アメリカ西部で大きな山火事が続発、11月から12月20日までに500人の死者を出した」という。
これらがすべて“風船”の手柄かどうかは分からないが、「ふ号作戦」大成功とみて、放球は連日、続けられた。
しかし、以後、風船爆弾の被害はさっぱり聞かれなくなった。
これはアメリカ当局の報道管制で、西部の山火事については一切、発表を禁止したからである。

大本営陸軍部は、昭和20年2月、国民の士気を鼓舞するため、風船爆弾を新兵器として発表した。
「アメリカ本土を脅かす風船爆弾、時速200キロで襲撃」の記事がニュースに流れた。
だが、これは「ふ号作戦」中止の直前だった。
1万個のうち、5ヶ月間に放球されたもの約6000個、ついに「戦果なし」と判断されて、昭和20年3月に中止となった。
もっとも、中止にはもう一つの原因がある。
B29の来襲で京浜の水素工場がやられ、放球場への供給がストップしたせいでもあった。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月20日 追記


【開発責任者:草場季喜すえき技術大佐】

草場大佐は温厚な人柄で部下からも慕われたが、陸軍部内では変わった経歴の持ち主だった。
大正7年(1918年)に抜群の成績で中央幼年学校を卒業。
将来は陸軍大学校に進んで陸軍エリートの道を邁進すると思われていたが、彼は理工学方面の研究に関心が強く、自らの意思で砲工学校に進んだ。
砲工学校の課程を終えると、東京帝国大学工学部に進み、昭和2年(1927年)に卒業すると、ドイツ駐在武官となった。
帰国後は東満洲で独立工兵第2連隊の連隊長を務める。
昭和17年(1942年)、登戸の第9陸軍技術研究所に着任した。

(参考:『歴史街道 2011年10月号』)

(平成25年10月2日 追記)




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