京都市伏見区桃山町大蔵45
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伏見城の大天守と小天守
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入場料:平日=大人(中学生以上)600円 子供(3歳以上)400円 休日=大人800円 子供500円
休園日:毎週水曜日(ただし休日は営業)と12月31日
(平成13年現在)
現在、耐震強度が基準に満たしていない可能性があるため危険なので入城できません。
(平成21年1月20日追記)
この「桃山文化史館」の売店に桃山文化や伏見城に関する書籍等がなかったのが残念でした。
ただのお土産屋さんでした。
伏見桃山城キャッスルランドは本年(平成15年)1月31日に閉園となったようです。
お城は撤去の方向で協議されているようです。
このHPに訪問していただいた『京の碑散歩道』のHP管理者様からの情報によると、伏見桃山城キャッスルランド跡地は野球場や多目的グラウンドをなどを備えた「伏見桃山城運動公園」に整備するという基本構想が策定され、伏見桃山城は取り壊しが免れそうだということです。
(平成17年3月21日記)
(財)京都市体育協会様から連絡があり、このページをプリントして「伏見城」を見学に来られた方がいたそうですが、「伏見城」は現在入城出来ません。
入場料等を記載していたため、見学できるものと勘違いされたようです。
現在掲載している写真は平成13年当時のもので、その時の施設のデーターを載せていたのですが、勘違いを引き起こさせてしまい誠に申し訳ございませんでした。
関係者には大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした。
「伏見城」は現在、耐震強度の問題で入城出来なくなっているそうです。
(平成21年1月20日追記)
【落城】
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が没すると、徳川家康が伏見城に入った。
慶長5年(1600年)6月、家康が上杉討伐に向う時、伏見城の留守居を鳥居元忠に命じる。
この間隙を衝いて石田三成ら西軍が挙兵。
7月19日には小早川秀秋、宇喜多秀家、島津惟新いしん(義弘)、毛利秀元ら、4万の軍勢が伏見城に押し寄せた。
鳥居元忠側はわずか1800の軍勢であったが激しく抵抗。
7月25日、小早川軍が松ノ丸を攻撃すると、城内からの内応者が火を放って塀を五十間ほど破って逃走。
元忠は畳で塀を補修したものの、松ノ丸を放棄して本丸へ移った。
8月1日、小早川軍が松ノ丸、名護屋丸に侵入して本丸に火矢を放つ。
天守や千畳敷も焼け落ち、ついに落城した。
(参考:『歴史街道 2012年3月号』)
(平成25年8月29日 追記)
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伏見城古瓦 (京都市伏見区・乃木神社) 左:五七の桐紋入り古瓦 右:菊紋入り古瓦 この菊花・桐花、貮枚の瓦は当神社近辺より掘り出されたもので、金箔ははげていますが金瓦です。 (説明書きより) (平成16年10月1日) |
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桃山御陵 (京都市伏見区) 明治天皇のお墓です。 天守閣はこの場所に建っていたといわれています。 (平成16年10月1日) |
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伏見城客殿 (愛知県知多郡美浜町・野間大坊本殿) 秀吉公の晩年の城『伏見城』の一部を寛永年間(1624〜43)に移築されたもの。 愛知県重要文化財指定の客殿建築。 (平成18年4月3日) |
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伏見城客殿 (愛知県知多郡美浜町・野間大坊本殿) (平成18年4月3日) |
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伏見城大手門 (京都市伏見区・御香宮神社表門) (平成19年9月2日) |
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伏見城残石 (京都市伏見区・御香宮神社) (平成19年9月2日) |
御香宮神社
御祭神は神功じんぐう皇后、仲哀ちゅうあい天皇、応神天皇など9柱を祀る。
社伝によれば、貞観4年(862)境内から清泉が湧き出て、その香気が漂い、その水を飲むとたちまち病が癒えたので、「御香宮」を賜った。
以後、伏見の産土神として人々の信仰を集めたが、度々の兵乱や天災により荒廃した。
文禄年間(1592〜96)豊臣秀吉は、当社を伏見城内に移し、鬼門の守護神としたが、慶長10年(1605)徳川家康により旧地である当地に戻され、現在の本殿(重要文化財)が建立された。
表門(重要文化財)は、旧伏見城の大手門と伝えられている。
宝物として、秀吉の寄進した金熨斗付太刀きんのしつけたち(重要文化財)を蔵する。
境内には、伏見義民文殊九介らの顕彰碑がある。
毎年、10月の神幸祭は、伏見祭・花傘祭とも呼ばれ、神輿や花傘、獅子などが出て、盛大に行われる。
京都市
(説明板より)
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