二荒芳徳 ふたら・よしのり

明治19年(1886年)〜昭和42年(1967年)


文学碑



文学碑
(愛媛県宇和島市・天赦園)





(平成19年11月6日)

文学碑

 なかなかにむかしかたらぬ
栗の木のふかきこころは
    君ぞしるらむ

  栗樹記
          二荒芳徳

宇和島藩主伊達宗徳の九男に生まれ北白川宮能久親王の五女拡(ひろ)子と結婚し二荒家を継いで伯爵となった。
この石碑には、二荒伯爵の幼い心にとどまる栗の樹が故郷をはなれてもなお母の思い出と共に心の中で育ちつづけたことが切々たる想いをもってここに刻まれています。
裕仁皇太子の海外巡遊に随従、イギリスで見た青少年運動に心をひかれ、
ボーイスカウトを創設し、発展に尽くした。

昭和42年4月没(82才)
日本ボーイスカウト
   日本連盟総コミッショナー

(説明板より)

天赦園



天赦園てんしゃえん
(愛媛県宇和島市御殿町)





(平成19年11月6日)

国指定名勝
天赦園

当園は宇和島城の西南部に接する旧浜御殿の敷地の一部である。
第7代宇和島藩主伊達宗紀むねただ(号春山)退隠の居所として文久2年潜淵館を建築し翌年造園の工を起して3年の歳月を経て慶応2年(1866)に築造されたものである。
園名は初代藩主伊達秀宗の父伊達政宗(仙台藩主)の酔余口号と題した漢詩
  馬上少年過  馬上に少年過ぐ
  世平白髪多  世は平かにして白髪多し
  残躯天所赦  残躯は天の赦す所
  不楽是如何  楽しまずして是如何せん
の一節による。
庭園の地割の主体は広い池で、岬、入江、曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれ池心に一小島を配し池辺の護岸の重厚な石組には多くの和泉砂岩の海石を用い園の周囲は、マツ、クス、カシ等の常緑樹によって外部を遮蔽し園内には各種の暖温帯性樹木が多数植栽されている。
特に家系並びに家紋に因んだフジとタケは種類が多く独特の風致をつくり出している。
作庭の年代は比較的新しいが意匠技法に見るべきものがあり、この種回遊式庭園として優秀なものである。

昭和43年5月20日 名勝指定
伊達家

(説明板より)


皇太子殿下御外遊記

大正10年、裕仁皇太子(のちの昭和天皇)が初めてヨーロッパを外遊した際、同行した宮内書記官二荒芳徳と外務書記官澤田節蔵が大正12年にまとめた。

参考:『文藝春秋 2007年11月号』)



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