岐阜市金華山天守閣18
岐阜城は、かつて、稲葉山城と称していました。
金華山頂に最初城を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政で、戦国時代には、斎藤道三の居城でもあったところです。
特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)(一説に永禄7年)8月、不世出の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、その地名も「井の口」を岐阜と改め大胆な構想のもとに善政を施し、天下統一の策源地としてからでした。
しかし、慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の合戦の際信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入れられ、激戦の末落城しました。
翌慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移されました。
岐阜城
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周りに木々が多いので絶好の撮影ポイントを探すのに苦労しました。 |
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昭和31年復興
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(平成12年現在)
岐阜城資料館
岐阜城のすぐ前にあります。
昔の武器庫、食料庫を隅櫓[すみやぐら]城郭造りに復元したものです。
内部には岐阜城関係の資料等が展示されています。
斎藤道三略歴
京都北面の武士の子として生まれ、幼名を峰丸、青年の頃は庄五郎と名乗った。
エゴマ油を各地に行商して歩き、30歳の頃手づるを求めて土岐家に仕官した。
抜群の才智を発揮して出世を遂げ、土岐家の執権斎藤家を相続した後、天文8年(1538年)稲葉城を築き、美濃の実権を握った。
一人娘の濃姫は信長の正妻として有名。
後年、子息義龍と不和になり、長良川原で戦死した。
織田信長略歴
天文3年(1534年)尾張の織田信秀の次男として生まれ、幼名を吉法師、元服して上総介信長と名乗った。
永禄10年(1567年)稲葉城を占領し、天下統一の足場とし、城下町には「楽市楽座」を設けた。
当時の岐阜の町の様子をポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは「バビロンの賑わいのようであった」と述べている。
天正4年(1576年)岐阜城を長男信忠にゆずり、自らは安土城へ移った。
天正10年(1582年)本能寺の変で倒れた。
(パンフレットの解説より)
【岐阜城陥落】
「関ヶ原の戦い」・・・・
西軍の戦略において、岐阜城は極めて重要な位置づけだった。
石田三成ら西軍の首脳は「岐阜城〜大垣城」のラインを最終防衛線と定め、そこで東軍と対峙し、濃尾のうび国境、あるいは尾三びさん国境で雌雄を決する目論見だった。
これは峻険な山城の岐阜城を見込んでの戦略である。
一方、岐阜城攻略を期して美濃みのへ進軍したのが、福島正則や池田輝政、井伊直政ら歴戦の勇将らが先を競う東軍の先鋒。
東軍3万5000に対し、岐阜城に拠る西軍は6000余。
東軍は慶長5年(1600年)8月22日に木曾川を渡って、最初に竹ヶ鼻城攻略を目指した。
この時、岐阜城主・織田秀信(信長の嫡孫)は東軍を迎撃すべく、家臣の進言(籠城策)を退け、あえて城から打って出て、合渡ごうどに陣を敷いた。
しかし、押し寄せる東軍を前にあえなく敗退。
翌23日、東軍の岐阜城総攻撃が始まる。
東軍で目覚しい活躍を見せたのが、福島正則隊と池田輝政隊である。
福島隊が大手口を破り城内に侵入する一方、池田隊は水の手口から二の丸に攻め上がり、本丸へ侵攻。
岐阜城は、わずか一日で陥落してしまった。
頼みの岐阜城がかくも早く落ちるとは、西軍にすれば全くの計算外だったであろう。
東軍の先鋒を岐阜城に釘付けにし、有利な態勢を作ろうという石田三成の思惑は崩れてしまった。
(参考:『歴史街道 2012年3月号』)
(平成25年8月29日 追記)
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