ゴローニン像 平成22年5月25日

ワシーリー・ミハイロビッチ・ゴローニン

1776年4月8日〜1831年6月29日

北海道函館市・北方歴史資料館でお会いしました。


海軍士官学校卒業後、イギリスに留学。
帰国後、ディアナ号艦長として世界周航航海を命じられる。
1811年(文化8年)、択捉島・国後島を測量中に、松前奉行所の役人に士官ら7人と共に捕らえられ、松前・箱館で2年3ヶ月余の監禁生活を送った。
1806年、1807年のロシアの海軍士官による樺太・択捉襲撃事件(文化露寇事件)への報復であった。
ディアナ号副艦長のリコルドはゴローニン救出のため、翌年、高田屋嘉兵衛と水主4人を捕らえてカムチャッカに連行。
高田屋嘉兵衛の沈着な判断に助けられて、1813年に釈放が実現した。
この経験を綴った『日本幽囚記』(1816年刊)がある。


ゴロウニン像



ワシリーゴロウニン氏銅像
(函館市・北方歴史資料館)

ピヨトル・ゴロウニン氏寄贈




(平成22年5月25日)

ゴロウニン

ワシーリィ・ミハイロヴィッチ・ゴロヴニン(1776〜1831)
ロシアの海軍士官。
1811年ディアナ号の艦長として、クリル列島南部測量中、クナシリに寄港中に捕えられ松前に移送監禁される。
約2年3ヵ月後に釈放されて帰国。

(説明板より)

北方歴史資料館




北方歴史資料館
(函館市末広町23−2)





(平成22年5月25日)

【ゴロヴニンの逮捕】

樺太、エトロフ島で海賊行為を働いたロシア海軍士官フヴォストフらが樺太を引きあげてから4年目の文化8年5月9日(1811年6月17日)、エトロフ島に1隻のロシア軍艦が現れた。
海軍少佐ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンの指揮する砲艦「デイアナ」号である。
ゴロヴニンは、海軍省より南千島列島ならびに北緯53度38分以北オホーツク港に至るオホーツク海岸を測量するよう命ぜられ、ペトロパヴロフスクを出航した。
たまたま千島列島を測量中、食糧・飲料水が不足し、その補給の為、入港したのであった。
ゴロヴニンは、フヴォストフらの手記も読んでいて、ロシア政府がその私行を非としていることも知っていたが、彼らの好意が日本全国に大きな憤激を巻き起こしていたことは知らなかった。
あくまで平和的に行こうとして自ら上陸し、そこの役人と会見した所、フレベツの会所へ行ってほしいとの答えであった。
しかし、彼は港のあるクナシリ(国後)島へ直航し、7月5日の未明、トマリ(泊)湾へ進入したところ陸上から砲撃された。
そこで「ディアナ」号は、いったん港外に出て、翌日、トマリの東方ケラムイ岬番所にボートを上陸させ、食糧を徴発し、その代償にサラサ、ラシャ類を置いて帰った。

泊会所の責任者、奈佐瀬左衛門政辰(松前奉行支配調役)は、計略をもってロシア人を抑留しようと考え、「船長以下少人数で上陸するならば話をつけよう」と申し送った。
ゴロヴニンは喜んで、7月11日、将校2名、水兵4名、通訳のアイヌ人1名と共に泊会所を訪問。
奈佐は、「食糧補給には、松前の許可がいるから、それまで将校一人は陸にいてほしい」と述べ、これを拒否したところ全員が逮捕されてしまった。

逮捕されたロシア人は、「ディアナ」号の艦長・海軍少佐ゴロヴニン、少尉ムール、舵手フレーブニコフ、ほかにマカーロフら水兵4人と、千島人通訳アレクセイ・チェーキンであった。
彼らはがんじがらめに縛られて箱館へ護送された。
ゴロヴニンらは箱館で厳しい尋問を受けたのち、1811年(文化8年)9月末、松前へ送られ、納屋のような暗い獄舎に繋がれた。
数日後、奉行の尋問が始まったが、それは罪状の尋問というより、ロシアのあらゆることを聞き出すのが目的であった。
11月19日、奉行はゴロヴニンがフヴォストフと関係のないことを認め、無罪を宣告した。
しかし、「江戸の指示を得なければならないから、その命令が届くまで待っているように」と言って、彼らを民家に移したが、それから3年あまり軟禁状態が続いたのである。
この前後の事情は、ゴロヴニンの第1回世界周航記すなわち『日本幽囚記』(ペテルブルグ、1816年刊)に詳しい。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月10日 追記)


【ゴロヴニンの間宮林蔵の評価】

ある日、獄舎にいるゴロヴニンのところへ間宮林蔵がやって来て、天体・陸地などの測量器を持ち込み、その使用法を教えてくれと頼んだ。
「彼は毎日通ってきて、ほとんど朝から晩まで詰めきりで、自分の旅行の話をしたり、彼が描いてきた各地の要図や風景などを見せてくれた。・・・・彼の虚栄心は大したもので、絶えず自分の壮挙や、その間に舐めた苦労を物語り、その最上の証明として旅行中に炊事用に使った鍋を持ってきては、獄舎の炉で何やら煮炊きして、自分でも食べ、我々にもご馳走してくれた」(『日本幽囚記』上)

“大探検家”に対するゴロヴニンの批判は手厳しい。
「間宮林蔵は我々の面前で大言壮語し、『フヴォストフの来寇があった後に、日本側では3艘の船をオホーツクに送って、同地を土台石まで焼き払おうと思っていましたよ』と言うこともあった。
我々は笑ってこう冷やかした。
『日本側がオホーツクにいたる航路を発見できないのは遺憾千万ですな。さもなくて3艘ではなく、30艘なり、300艘なりの船を送ってみるのも良かったかもしれませんな。おそらく1艘も日本には帰れなかったでしょう』
すると間宮はムッとして『日本人は戦さにかけては外国に負けない』と説得するのであった。
この男は我々の目の前で日本の兵術を自慢して、我々を威嚇した最初の日本人であったことを、特記しておかねばならぬ。
そして、我々だけでなく、彼の同僚にまで、嘲笑されていたのである。」

林蔵は、奉行にもいろいろと進言したうえ、江戸へも報告書を送って、「あのオロシャ人どもは、必ず日本を欺いていると思う。彼らは偶然来たのではなく、間者(スパイ)として参った」と言ったことなども、ゴロヴニンは書き留めている。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月10日 追記)


『日本幽囚記』

1821年、馬場佐十郎は江戸に来たオランダ商館長から、ゴロヴニン手記の蘭訳本を借りて写し取り、翻訳にとりかかった。
訳稿の三巻までできたが、翌1822年に病死してしまった。
杉田立卿、青地林宗が後を継ぎ、1825年に『遭厄日本紀事』として完成した。

明治になって日本の海軍省は、ロシア語の原本から訳し、明治27年(1894年)に『日本幽囚実記』を出したが、これは原書の第1部、第2部(幽囚の部分)だけの抄訳である。

今、私たちは、この本を井上満『日本幽囚記』全三巻(岩波文庫)で読むことができる。
初版は戦中の昭和18年(1943年)である。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月10日 追記)


【ゴロヴニンの死】

ゴロヴニンは日本から帰還後、副艦長のリカルドと共に功によって一級を進められ、海軍中佐となった。
1817年から19年にかけて「カムチャーツカ」号の指揮官として再び世界周航をしたが、1831年にコレラで急死した。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月10日 追記)




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