北海道函館市五稜郭町・五稜郭公園
平成22年5月24日
【五稜郭】
五稜郭は、その平面が星形五角形をなし、幕府における本格的な「西洋式築城」である。
このような星形に縄張をし、大砲を主眼とする築城は稜堡式といい、五稜郭の他に、信州竜岡城、四稜郭、武州神奈川台場などがある。
安政3年(1856年)、北辺防備の要である箱館奉行所は、蝦夷地警備に関する意見書として「五稜郭」築城の工事上申書を提出した。
幕府はまず稜郭式築城の手始めに弁天場を構築。
翌安政4年(1857年)、蘭学者・武田斐三郎の設計のもと、監督を河津三郎太郎、鈴木四郎と定め、五稜郭の築城に着手した。
掘割は松川弁之助、石工は井上喜三郎、大工に中川源蔵がそれぞれ担当する。
8ヵ年を経て、元治元年(1864年)、一応の完成を見る。
初代城番には箱館奉行・小出秀実があたった。
完成を見る頃、幕府は折からの財政難で、搦手門の石材採石および構築を中止している。
大手の前に三角形の一郭があるが、これは半月堡といわれるもので、我が国固有の馬出に相当する。
当初は、凹形5ヶ所の全てに築く予定であったが、費用が続かず、大手のみになったといわれる。
城内の建物はすべて平屋造りで、城外より見えないようにしてあったが、五稜郭戦争の折には主殿に望楼を乗せたため、かえって攻撃対象となってしまった。
郭外には長屋が連なっていたが、最後の決戦を試みた榎本武揚以下の軍勢が自ら火を放ったため、現在は何一つ残っていない。
(参考:大類伸監修 『日本城郭事典』 昭和58年第8版 秋田書店発行)
特別史跡 五稜郭跡 (平成22年5月24日) |
【特別史跡 五稜郭跡】
史跡指定 大正11年10月12日
史跡地域一部追加指定 昭和4年4月2日
特別史跡指定 昭和27年3月29日
五稜郭は、安政(1854)に結ばれた日米和親条約(神奈川条約)によって開港された函館をはじめとする北辺の防備のため、江戸幕府の手により、安政4年(1857)4月に着工され、元治元年(1864)に完成した西洋式の城であり、慶応3年(1867)10月の大政奉還後、新政府に移管された。
明治元年(1868)におこった戊辰戦争では旧幕府脱走軍榎本武揚らによって短期間占拠されたが、新政府軍に平定されてから開拓使、陸軍省の所管を経て、大正3年(1914)以降公園として市民に開放されている。
城の形が五稜形をしているのは、守備の際に死角をなくすためであり、武田斐三郎の指導のもとに、西洋式の築城法をとりいれて造られたものである。
文化庁
函館市
位置 函館市五稜郭町本通1丁目
面積 約247、898平方メートル
(説明板より)
【箱館戦争と特別史跡五稜郭跡】
江戸湾から軍艦8隻と共に脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が箱館に入り、五稜郭を占拠したのは、明治元年(1868年)10月。
新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことでした。
五稜郭は新政府軍に明け渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の終結とともに、長い間続いた封建制度がここで終わりを告げました。
日本の新しい時代が始まったのです。
特別史跡 五稜郭跡
(五稜郭公園)
箱館奉行が、蝦夷地(北海道)を統治するために、役所を新築する敷地として整備した洋式の城郭です。
5つの突角をもつ星型であるところから五稜郭と呼ばれています。
蘭学者武田斐三郎の設計で安政4年(1857年)着工。
元治元年(1864年)完成。
昭和27年3月、国の特別史跡に指定されました。
(説明板より)
箱館奉行所
当初、箱館奉行所は函館山山麓にありましたが、開港後、内陸の亀田(現五稜郭町)に五稜郭を築き奉行所を移転させました。
写真は慶応年間(1865年〜1868年)のものです。
(説明板より)
函館市
(説明板より)
復元工事中の箱館奉行所 (平成22年5月24日) |
五稜郭の模型 (五稜郭タワー) 模型縮尺 1:250 (平成22年5月24日) |
4ポンド砲(四斤山砲)の実物大模型) (五稜郭タワー) (平成22年5月24日) |
箱舘戦争供養塔 (五稜郭タワー) (平成22年5月24日) |
五稜郭タワー (函館市五稜郭町43−9) (平成22年5月24日) |
五稜郭タワー主要データ
2006年4月1日 新タワー開業
(1964年12月1日創業)
敷地面積 2,938u
延床面積 5,783u
高さ 107m(避雷針高) 98m(全高)
展望台高さ 展望1階86m 展望2階90m
展望台収容人数 約500名
エレベーター 30人乗り×2基 所用時間 約30秒
(リーフレットより)
年 | 月日 | 五稜郭・箱館戦争関連事項 |
安政1(1854) | 3月 | 日米和親条約締結。箱館の開港決定 |
4月 | アメリカ艦隊が箱館に来航 | |
6月 | 箱館奉行を設置 | |
安政2(1855) | 3月 | 箱館港を和親開港 |
安政3(1856) | 8月 | 箱館諸術調所を設置 |
安政4(1857) | 6月 | 五稜郭の建設工事着手 |
元治1(1864) | 6月 | 五稜郭へ奉行所を移転 |
慶応3(1867) | 10月 | 大政奉還 |
慶応4(1868) | 4月 | 新政府が五稜郭に箱館府を設置 |
8/19 | 旧幕府艦隊、品川沖を脱走 | |
9月 | 明治に改元 | |
明治1 | 10/20 | 旧幕府軍、鷲ノ木に到着 |
10/26 | 旧幕府軍、五稜郭を占領 | |
11/5 | 旧幕府軍、松前を占領 | |
12/15 | 旧幕府軍、蝦夷地平定 | |
明治2(1869) | 3/9 | 新政府軍艦隊、品川沖を出航 |
4/9 | 新政府軍、乙部へ上陸開始 | |
4/17 | 新政府軍、松前を奪回 | |
5/11 | 新政府軍、箱館を総攻撃 | |
5/18 | 旧幕府軍降伏。五稜郭開城 | |
明治3(1870) | 2月 | 五稜郭の堀で天然氷を採氷 |
明治4(1871) | 4月 | 五稜郭内の建物を解体 |
大正3(1914) | 6月 | 五稜郭を公園として開放 |
昭和27(1952) | 3月 | 五稜郭を特別史跡に指定 |
(リーフレットより)
【五稜郭と箱館戦争】
五稜郭のある函館(当時は箱館)は、15世紀に松前始祖の武田信広が砦をいとなんだが、久しい間、寥々りょうりょうたる寒村で、18世紀に入り松前藩の番所が置かれてから、ようやく港町として発展するようになった。
しかし、都市としての函館(箱館)の一大飛躍を促した端緒は、幕末の安政元年(1854年)に締結された神奈川条約によって、開港場に指定されたことであろう。
幕府は18世紀後半から激しくなったロシアの南下などを警戒して蝦夷地(北海道)を直轄地とし、箱館には奉行所を置くとともに、その防衛のために台場を築いていた。
幕府は神奈川条約締結後に箱館奉行を増員し、まず竹内保徳やすのりを、ついで堀利?としひろを奉行に任じたが、開港となると、外国船や軍人も自由に入港し上陸できることになり、外国列強のどれかが箱館占領を企てたりしたら、今のままではひとたまりもない。
箱館に着任した両者連名の上書もそのような危惧を強く表明してあった。
そこで幕府も、事の重大かつ緊急を要することを改めて悟り、安政2年、箱館に強力な新城を築くことに決定した。
五稜郭の築城工事は、安政4年11月に始まる。
その設計・監督には適塾門下の俊才、伊予(愛媛県)大洲藩出身の武田斐三郎があたった。
堀利?らに随行して蝦夷地に渡り、安政3年、洋学教育機関として奉行所支配諸術調所が創設された時に、その教授となった人物で、生徒には前島密や山尾庸三らがいた。
オランダ兵学書の研究を通じ、ヨーロッパにおいて16〜18世紀に盛行したという星形をした五稜郭の縄張の知識を得た斐三郎は、日本城郭史の最後を飾る五稜郭に、その縄張を適用した。
五稜郭形式は、5つの稜頭りょうとうの上に台場(稜堡りょうほ)を築くため、十字砲火が可能で、死角が出来ないということで、ヨーロッパで盛行した。
箱館の五稜郭は、稜堡上に隅櫓など、敵の目標になりやすい余分の建物は設けず、ただ敵に対抗すべき砲台と弾薬庫のみを置いた。
これだと、遠方から撃ちかける敵の砲は、方角は測れても着弾距離を正確に把握することが難しく、砲撃による攻略は困難になる。
この大城郭が完成したのは、着工から足掛け8年目の元治元年(1864年)のことである。
以来、箱館奉行所もここに移り、城内には書院造りふうの庁舎がいとなまれ、五稜郭は蝦夷地の政治・軍事の中心となる。
そして五稜郭の周辺を固めるため、台場が築かれ、箱館は要塞都市の観を呈していく。
箱館の要塞化は、慶応4年(明治元年=1868年)に榎本武揚が、旧幕軍を率いて上陸し、明治新政府の知事である清水谷公考しみずだにきんなるを追い出して五稜郭に入城して以降、さらに徹底する。
榎本ら旧幕軍は新政府に従うことを潔しとせず、北海道にかれらなりの理念に基づいた国家を樹立しようとしていた。
しかし、明治新政府が彼らの勝手を放置するはずがない。
明治2年2月頃から、新政府は本格的に彼らの鎮圧に乗り出した。
緒戦において、旧幕軍は善戦したが、4月中旬から退勢に追い込まれ、5月7日には箱館港の制海権を奪われる。
五稜郭の死命を制したのは、奉行所庁舎の正面屋上につくられた高い展望楼であった。
5月12日、新政府軍はこの日を総攻撃を定め、黎明の3時を期して陸軍は箱館西方と北方から、海軍は箱館港から大挙して攻め込んだ。
前日、その情報を入手していた旧幕軍は、陸軍に対しては要所に兵を伏して果敢に応戦したが、海軍の艦砲射撃にはなす術すべがなかった。
新政府軍の海軍には、もとは幕府の発注になる甲鉄艦という主要武器が70斤砲の米国製の最新鋭艦が加わっていた。
70斤砲は3キロ前後の飛距離をもっていたので、箱館港から2.6キロぐらいしか離れていない五稜郭は、十分にその射程圏内に入っていた。
しかし、榎本ら五稜郭の首脳陣は、この甲鉄艦の艦砲射撃を脅威とは感じていなかった。
港と五稜郭はあまり高低差がないため、着弾距離をつかめないことを知っていたからであり、事実、砲弾は五稜郭の上空を飛び越えたりあるいは前方に炸裂してばかりいた。
ところが昼近くになると砲弾は城内に着弾するようになった。
これは、奉行所庁舎の展望楼のせいだと築いた榎本らは、慌てて展望楼を取り壊したが、時すでに遅かった。
いったん発射角度を知られてしまうと、もう何をしても無駄である。
艦砲射撃は益々命中度を増し、その夜から翌日にかけて、城内に死傷者を続出させた。
結局、17日に至って榎本らは降伏を申し出ることとなった。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月7日 追記)
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