後藤基次 ごとう・もとつぐ

永禄3年(1560)(?)〜慶長20年5月6日(1615年6月2日)


通称又兵衛。
播磨別所氏に属して小寺政職まさのりに仕えていた新左衛門の子。
黒田孝高よしたかに育てられ、孝高・長政に仕えて各地を転戦する。
慶長5年(1600年)黒田長政の筑前入部に伴い嘉麻郡大隈城1万6000石を得る。
慶長11年(1606年)黒田家を離れ、一時、池田輝政に従ったが牢人となる。
大坂の陣で豊臣秀頼の招致により大坂城に入り、戦死。


後藤又兵衛基次の兜



後藤又兵衛基次の兜
(埼玉県川越市・川越歴史博物館





(平成17年12月11日)

廻り鉢六十二間星兜 後藤又兵衛基次
慶長19年甲辰八月日朱書在銘

後藤又兵衛基次
大阪の陣に豊臣方として参戦し夏の陣の道明寺の戦において伊達藩の銃砲隊と激戦ののち壮絶な最期をとげた武将である。

(説明板より)


【大坂の陣】

後藤又兵衛は、筑前黒田家の若き主君・黒田長政との確執から同家を出奔。
「奉公構え」とされ、豊前小倉の細川忠興、広島の福島正則、加賀の前田利長への客分召抱えは、長政の執拗な横槍ですべて不調に終り、諸国を流浪。
京都に流れ着いた時には、六条河原のむしろ囲いの小屋に起き伏す身となり果て、乞食牢人と化していた。
豊臣家に風雲急を告げるや、大坂城に入城した又兵衛は、一転して実戦豊かな武人として衆望を集める。
キリシタン武将の明石全登あかしてるずみ、長宗我部盛親ちょうそかべもりちか真田幸村、毛利勝永かつながと並んで五人衆と称され、冬の陣における大閲兵式では万余の牢人部隊の軍監を務め統括した。
よわい60余。
「夏の陣」では、又兵衛は大坂城の南東約20キロ(5里)にある小松山に布陣した。
対する徳川軍・大和口の主将は、黒田家に仕えていた時の同僚である水野勝成。
勝成の伯母は徳川家康の生母・於大おだいの方、家康と勝成は従兄弟同士であり、妹は加藤清正の正室なので、清正は勝成の義弟という関係になる。
勝成は、堀直寄なおより、本多忠政、松平忠明ただあき伊達政宗、諸将の総勢2万を統括。
この「道明寺の戦い」という激闘で、又兵衛は、伊達隊の先鋒・片倉小十郎重長配下の鉄砲隊の放った銃弾で戦死した。

(参考:『歴史街道』 2011年9月号 PHP研究所発行)

(平成26年4月18日 追記)


後藤又兵衛一族の墓所

後藤又兵衛一族の墓所

(鳥取県鳥取市・景福寺)

右:又兵衛の奥方の墓
中:又兵衛の墓(遺髪墓)
左:一子為勝の墓


(平成16年11月18日)

後藤又兵衛基次と妻子の墓

大阪城の軍略会議に真田幸村木村重成と共に参画した、豪傑、後藤又兵衛は豊臣方として大阪夏の陣、小松山の合戦にて元和元年5月6日勇戦奮闘して遂に戦死す。
遺髪を胸に納めた夫人は一子為勝(当時2才)を連れて岡山の実家、三浦家に落ちついた。
其の後寛永9年岡山城主池田光仲公、因伯二州(鳥取県)を領するに依り、城代家老の荒尾嵩就もこれに従い鳥取に移る。
荒尾家の菩提寺である景福寺も亦当地に移った。
池田公の家臣、三浦家と共に後藤一族もこれに従う。
当寺を後藤家の菩提所として初めて当墓地内に又兵衛の遺髪を埋む。
其の後子孫相継いで9代までの墓が現存する。

右 仙洞院保年寿延大姉 夫人
中央 西照院夏安道蓮禅定門 又兵衛
左 桂雲善香居士 為勝

瑞松山 景福寺

(説明板より)

景福寺



景福寺
(鳥取市新品治しんほんじ町)




(平成16年11月18日)

瑞松山景福寺(曹洞宗)

鳥取藩池田家家老「荒尾」家の菩提寺「景福寺」は、南北朝時代摂津国六ノ瀬村(兵庫県川辺郡)に通幻寂霊つうげんじゃくれい禅師を開山として創建されたのが始まりである。
慶長年間、姫路城主池田輝政の家老荒尾志摩守隆重は、景福寺11世大桂宗奕そうえき禅師に帰依し、同寺を姫路城下に移して再興し中興開基となり、以後、荒尾家代々の菩提寺として護持されてきたものである。
池田輝政の没後、備前岡山藩主となった忠雄に従い荒尾家と共に同寺も岡山へ移った。(元和2年)
寛永10年、景福寺14世角山宗虎禅師となり、忠雄の嫡男光仲の鳥取転封に伴って同寺も荒尾家と共に鳥取城下に移り、荒尾嵩就を開基とする鳥取景福寺が建立され今日に至っている。
このような経緯から摂津・姫路・岡山・鳥取と4箇所に景福寺がある。
鳥取景福寺には、鳥取藩関連の書画、墓跡等が残されている。

(※寺宝・境内墓に関する記述は略します=重兵衛)

平成6年2月
鳥取市教育委員会
景福寺

(説明板より)


【後藤又兵衛の子孫】

後藤又兵衛の息子は和泉国淡輪たんのわ村(現・大阪府岬町)で地元の百姓の娘と結婚して帰農。
寛文年間(1661年〜1673年)頃、淡輪村にいた又兵衛の孫が大坂城代の青山宗俊むねとしに取り立てられ、以後、青山氏の家臣として代々続くことになる。
また、又兵衛の末子は母方の姓の「三浦」を名乗って、鳥取の池田家に仕えていましたが、藩主から「筋目すじめよろしき者」と評価され、その孫の代の享保17年(1732年)には「後藤」に復姓したいと願い出て、藩はこれを認めました。
大坂夏の陣直後、後藤又兵衛は、幕府に敵対して将軍家(徳川家)を窮地に陥れたA級戦犯的存在で、豊臣家直臣が赦免された後も、その家族一類は厳しい探索の対象となりましたが、時が経つにつれ、その潔い戦いぶりや忠誠心が評価され、一転して「武士の鑑かがみ」としての評価を得ることになったのです。

(参考:『歴史街道』 2011年9月号 PHP研究所発行)

(平成26年4月18日 追記)




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