天保9年3月19日(1838年4月13日)〜明治30年(1897年)8月4日
藩主・山内豊信とよしげを補佐し、慶応3年(1867年)坂本龍馬の意見に賛同して大政奉還運動に挺身し、これを実現させた。
明治政府に参与兼外国官事務掛として出仕。
以後、工部大輔・左院議長・参議を務めたが、明治6年の政変で下野。
板垣退助らと民撰議院設立建白書に署名した。
一時、元老院副議長に就任したが退官し、事業に関わったが失敗。
明治14年(1881年)自由党の創立に参画。
翌年、板垣退助を誘ってヨーロッパに渡り、帰国後伯爵。
藩閥政府攻撃の大同団結運動を提唱して指導したが、政府の誘いに応じて黒田内閣の逓信相として入閣し、運動を離脱した。
以後、農商相・朝鮮顧問などを歴任。
後藤象二郎邸跡 (長崎県長崎市金屋町・KTN長崎テレビ) (平成20年11月22日) |
KTNテレビ長崎(後藤象二郎邸跡) (長崎県長崎市金屋町1−7) (平成20年11月22日) |
後藤象二郎邸跡
後藤象二郎は天保9年(1838)、土佐藩で生まれた。
慶応2年(1866)、武器や軍艦を買い付けのため長崎に来た。
ここで、土佐藩を脱藩していた坂本龍馬と意見が一致し、土佐藩を倒幕派に導いた。
明治7年(1874)には、官営であった高島炭鉱の払い下げを受け、のちに三菱造船所の創設者である岩崎弥太郎に譲渡した。
(説明板より)
(慶応元年ころ撮影・説明板より)
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||