4.離島方面巡拝慰霊

(ツラギ島・東京ベイ・洋上慰霊)


平成22年(2010年)11月19日 【4日目】
朝食

朝食後、今日は離島方面の巡拝慰霊に向かう。
高速船をチャーターしての慰霊だという。
これには驚いた。
ガダルカナル島の慰霊といったら、ガダルカナル島だけで、船をチャーターしてまで他の島まで行くとは思ってもみなかった。
しかも、特にこの慰霊団に参加されている遺族とは関係がないにも関わらず・・・である。
ある意味、戦跡に興味のある私としてはラッキーである。

チャーター船

ガダルカナル島と対岸のツラギ島の間の海峡にはサボ島という島がある。
そのためこの海峡で惹起した海戦は「サボ島沖海戦」とか「ソロモン海戦」と呼ばれている。

第1次ソロモン海戦(1942年8月8日〜9日) 
 サボ島南方における日本軍・連合軍の夜戦 
日本軍  米軍・豪軍・英軍 
重巡洋艦 鳥海 小破 重巡洋艦 (豪)オーストラリア  
青葉 小破 (豪)キャンベラ 沈没
衣笠 小破 (米)シカゴ 大破
加古 沈没 (米)ヴィンセンス 沈没
古鷹   (米)クインシー 沈没
軽巡洋艦 天龍   (米)アストリア 沈没
夕張   軽巡洋艦 (米)サン・ファン  
駆逐艦 夕凪   (米)ホバート  
      駆逐艦 (米)パターソン  中破
      (米)バッグレイ  
      (米)ヘルム  
      (米)ウィルソン  
      (米)モンセン  
      (米)ブキャナン  
      (米)ラルフ・タルボット 大破
      (米)ブルー  
サボ島沖夜戦(1942年10月11日〜12日) 
ガダルカナル島への揚陸と艦砲射撃を計画
米軍と夜戦となる。
揚陸は成功するが、夜戦には失敗する。 
日本軍  米軍 
重巡洋艦 青葉 大破 重巡洋艦 サンフランシスコ  
古鷹 沈没 ソルトレイクシティ 小破
衣笠 小破 軽巡洋艦 ボイス 大破
駆逐艦 吹雪 沈没 ヘレナ  
初雪   駆逐艦 ファーレンフォルト 大破
(揚陸部隊=日進隊)   ダンカン 沈没
水上機母艦 日進   ラッフェイ  
千歳   ブキャナン  
駆逐艦 秋月   マッカラ  
夏雲 沈没  
朝雲    
白雪    
叢雲 処分  
綾波    
第3次ソロモン海戦・第一夜戦(1942年11月13日)
日本軍  米軍 
戦艦 比叡 処分 重巡洋艦 サンフランシスコ  
霧島   ポートランド  
軽巡洋艦 長良   軽巡洋艦 アトランタ 処分
駆逐艦 処分 ジュノー 沈没
小破 ヘレナ 小破
  駆逐艦 カッシング 沈没
天津風 小破 ラフィー 沈没
雪風   ステレット 中破
照月   オバノン 小破
朝雲   アーロン・ワード  
村雨 小破 バートン 沈没
五月雨   モンセン 沈没
夕立 処分 フレッチャー  
春雨    
時雨    
白露    
夕暮    
第3次ソロモン海戦・第二夜戦(1942年11月15日)
日本軍 米軍
戦艦 霧島 沈没 戦艦 ワシントン  
重巡洋艦 愛宕 小破 サウスダコタ 中破
高雄 小破 駆逐艦 ウォーク 沈没
軽巡洋艦 長良   グウィン 中破
川内   ベンハム 沈没
駆逐艦 照月   ブレストン 沈没
       
五月雨        
白雪        
初雪        
浦波        
敷波        
綾波 沈没      
朝雲        
ルンガ沖夜戦(1942年11月30日)
 食糧を入れたドラム缶を満載してガダルカナル島に補給をする計画。
目的を達成する前に米艦隊に見つかり交戦。
日本軍 米軍
駆逐艦 長波   重巡洋艦 ミネアポリス 大破
高波 沈没   ノーザンプトン 沈没
黒潮     ペンサコラ 大破
親潮     ニューオリンズ 大破
陽炎   軽巡洋艦 ホノルル  
巻波   駆逐艦 フレッチャー  
江波   ドレイトン  
涼風   モーリー  
      パーキンス  
      ラムソン  
      ラードナー  

この海峡の波は静か・・・・
船酔いを起こすのではあるまいかと心配していたが、快適な航行である。
対岸のツラギ島まで約1時間半だという。

サボ島

実際に海に出てみると、その海峡の狭さには驚かされる。
こんな狭い所で日米の軍艦が戦闘をしたのか?
砲撃と魚雷攻撃・・・・
右へ左へと廻り込みながら・・・・
よくお互いにぶつからなかったものだと思う。

逆にこの狭い範囲内での戦闘だったから双方の被害も大きかったのだろう。
何度も海戦が惹起し、その都度、何隻もの軍艦がこの海に沈んだのである。
そのため、ここは「鉄底海峡」とも呼ばれている。

現地人船長が、「このあたりに日本海軍の戦艦『霧島』が沈んでいる」と言って船を停めてくれたので、船上から洋上慰霊を行う。

ガダルカナル島を出発して1時間半後、ツラギ島に到着する。
のどかな小さな島である。
そもそも、ここに日本軍が陣地を築いたことから、例のガダルカナル島の争奪戦が始まったのである。
ここには第84警備隊の約400名が駐屯していた。
たしか、ここに日本軍の基地があるのを米軍が偵察機で偵察したついでに、ちょっと足を延ばしてガダルカナル島上空を飛んでみたら、日本軍が滑走路を建設中だったのを偶然見つけた・・・というのが発端だったと思う。

ツラギ島 
ツラギ警察署

とても警察署には見えないが・・・
間違いなく警察署・・・(笑)
上陸し・・・・
まずは、第84警備隊の英霊の慰霊に向う。
第84警備部隊本部があったという場所

造船所のような建物があったが・・・ここは港だろうか?

このツラギ島は、1942年(昭和17年)5月3日に日本軍が占領したが、それから3ヵ月後の8月7日に米軍が反攻してきた。
米軍がこの島に上陸した時に、日本軍の陣地があった「208高地」で慰霊祭をする。
84警備部隊本部(長:鈴木正明中佐・約200名)・第14設営隊の一部88名・その他56名の約350名がこの島で戦い全滅しているらしいが・・・
一説では、第84警備部隊本部から約50名が別の島に派遣されていたので、総勢約300名との話もある。
400名、350名、300名・・・と、いくつもの説があるのでハッキリしたことはわからない。
この「208高地」には特に慰霊碑などはないが、慰霊の目印にと、事前にホテルの“ヤマガタさん”が手配した「三角標柱」が設置されていた。

208高地

この後、島の向こう側に日本軍の横穴があるというので、そこへ向かう。

島の反対側へ向う切り通し

“セキ会長”を含め数人は途中で歩くのを断念して「208高地」の切り通しの日陰で待機するという。
たしかに高齢者にとっては、この暑さの中を歩くのは辛いだろう。
ボートの中でミネラルウォーターを配られたが船の中に置いてきてしまったというので、私が持参したものを差し上げる。
この間のペリリュー島での教訓を生かし・・・
私はリュックの中にミネラルウォーターのペットボトルを3本ほど入れているのだ。(笑)

途中で村の人をパチリ!

カメラを向けて撮っていいかと言ったら、、なぜか横一列に並んだ・・・・(大笑)

日本軍のU字型に掘られた横穴を2カ所ほど見学して戻る。
ここは、もしかしたら日本軍守備隊が最後に立て籠もって戦った「280高地」の裾野あたりではなかろうか?

洞窟のある場所の前に広がる砂浜から見た景色・・・・

いやはや暑い暑い・・・・
ミネラルウォーターをがぶ飲みしながら歩く・・・
戻る途中、“残置組”を拾って、ボートが停泊している「ツラギ・ホリデー・イン」に向かう。

笑ってしまうが・・・これが、ホリデー・イン?
ここのスロープは日本軍の水上機用のものだったという話だが・・・・本当かどうかは知らない。

この日本軍のスロープ跡と言われる場所の直ぐ後に開けている場所がある。
そうなると、ここは水上機の駐機場跡ということになるが・・・
地形的に見て、その可能性は充分あると思う。
昼食はサンドイッチのお弁当

昼食後、再びボートに乗り、今度は周辺の島々を巡るらしい。

ツラギ島を出発してまもなく見えてきたのがカブツ島とタナンボコ島。

左の島が「ガブツ島」
右の島が「タナンボコ島」
両方の島の間には、島を結ぶ橋が架かっていたようで、その橋脚だけが残っている。
その手前には何かの船の残骸らしきものが水面から顔をのぞかせていた。
「ガブツ島」
横浜航空隊の水上機部隊が駐屯。
当時のスロープが今も残っている。

ガブツ島には横浜航空隊の約100名が駐留していたらしい。
(ツラギ島の第84警備隊から約50名が、ここに派遣されていたという説もある)
隣のタナンボコ島には横浜航空隊の大艇(大型飛行艇)部隊350名の他、設営隊や工作関係の部隊が駐留していたらしい。
昭和17年8月、米軍はガダルカナル島に上陸すると同時に、ツラギ島、ガブツ島、タナンボコ島にも上陸。
ここカブツ島、タナンボコ島の守備隊は徹底抗戦をして全滅した。
しかし・・・こんな小さな島で「徹底抗戦」って言っても・・・ねぇ〜
隠れるようなところがあったのだろうか?
半日もしないうちに占領されてしまうような気もするが・・・
2〜3日は頑張ったようである。

洋上から、ガブツ島、タナンボコ島を“見学”して、続いて向かったのは・・・どこかの入り江。
どうも、この辺りは「トウキョウ・ベイ」と言うらしい。

この湾の中に、船の残骸があった。
話によると、米軍の輸送船の残骸とのこと。

更に入り江の奥に入っていくと、水面からチョットだけ船の残骸が顔を出している場所がある。
これが日本海軍の駆逐艦「菊月」の残骸である。

「菊月」は大正15年5月15日に進水した日本海軍の駆逐艦。
昭和17年5月4日に米軍の空母「レキシントン」の艦載機の攻撃を受け、魚雷が命中。
乗組員定数は154名だが、12名が戦死し22名が負傷したという。
その後、駆潜艇に曳航されてガブツ島の海岸に擱座。
生存者は敷設艦「沖島」に収容されラバウルへ向かったらしい。
昭和18年、米軍は大破放棄された「菊月」を引き揚げて調査をし、その後、「トウキョウ・ベイ」まで持ってきて放棄したらしい。
米艦載機の攻撃を受けながら、ここまで来て、沈没を免れる為にわざと海岸に擱座したのかと思っていたのだが、そうではないようである。

ここでボートを停止して、洋上から慰霊を行う。

船上では副団長で僧侶の“フジさん”が、しきりに「さぁ、歌でも歌いましょう!」と言う。
御自身で歌詞カードまで作って配布する熱の入れようである。
かなり歌の好きな方のようである。(笑)
“フジさん”は確か予科練の出身で、私の親父より2期ぐらい後輩の方。
当然、戦地には行っていないと思う。

帰りのボートの中・・・
みなさん、お疲れのようで・・・寝ている!(大笑)
私は舷側に立ち、風を受けながら海を見続ける・・・・
座席に座っていては寝てしまいそうである。
もったいない!
この景色を目に焼き付けておかねば・・・

途中・・・イルカの群れを発見!
3頭ぐらいのイルカとすれ違った!
が・・・一瞬のことなので写真が撮れなかった。
並行してくれたら撮れたんだけどなぁ〜
残念である。

船長が「ここが戦艦比叡の沈没地点だ」と言って船を停めた。
ここが・・・って言われてもねぇ〜
海の上じゃ、どこなのかわからない。
ここでも洋上慰霊を行う。
船の形が見えりゃ、あ〜ここかぁ〜ということになるのだろうが・・・
かなり深いんだろうなぁ〜
浮標があるわけでもないので・・・とにかく、ここだと言うんだからここなんだろう。

ツアー仲間から「戦艦には何人ぐらい乗っていたのですか?」との質問を受けたが・・・
正直言って、戦艦比叡のことは全くと言っていいほど知らない。
なにせ、事前に勉強なんかしてこなかったんだもん!(大笑)
戦艦山城が1500名ぐらいだったはずだから、同じくらいだろうと答えたが・・・
“戦史研究家”との肩書を付けられてしまっている割にはいい加減である。
なさけない・・・・・

午後2時過ぎ、無事にボート乗り場に帰着。
ホテルに向かう。


   


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