6.西部方面慰霊巡拝

(アウステン山・丸山道・水無し川・セキロウ・ビサレ教会・タンベア・戦争博物館・鬼怒川丸の残骸)


平成22年(2010年)11月20日 【5日目】
朝食

今日はガダルカナル島の西部方面への慰霊巡拝するという。
昨日の件もあるので、添乗員さんには、予定が急遽変更された時には必ず早目に教えてくれるよう頼む。
なにせ、こちらは初めての訪問である。
日程表に書かれている訪問先を順番通りに訪問すると思っているのだが・・・・
実際には、その時の気分(?)で、コロコロと変わるだろう。
そうなると、あとで、いったいどこへ行ったのかさっぱり分からなくなるのである。
何度も来ていて分かっている人はわかっているが、初めての参加で地名や場所や位置関係を知らない人にはわからない・・・
結局、下手をすると、何もわからないまま旅が終わってしまう。
これを極力避けるためにも、日程表のスケジュールに変更があったら教えてくれるよう頼む。

まずは、アウステン山へ行き慰霊・・・・
先日と良く似た場所なのだが、さて、先日行った場所との関係がよくわからない。
とにかく目印がないから困ったものだ。
昔は慰霊碑があったらしいとかって関係者が話しているのだが・・・・

次に向かったのが、「丸山道」
この道は第2師団(仙台で編成)の師団長である丸山政男中将の名を取って名付けられた道。
米軍によって占領された飛行場(日本軍名はルンガ飛行場、米軍名はヘンダーソン飛行場)を攻撃するため、ジャングルの中に迂回路を切り開いて進撃した・・・その道である。
白い三角形の“標柱”がその目印らしい。

その次に向かったのが、「水無し川」と呼ばれているところにある「ママラ野戦病院」跡である。
確かに水の全く流れていない石ころだらけの川を歩いて向かったが、ご高齢者は歩くのも大変。
途中で、しっかりした木の枝を見つけて杖代わりにと差し上げる。

この川のすぐ脇にあったという「野戦病院跡」の前で慰霊祭を行う。
参加者の中に、ここで伯父さんが亡くなったらしいという方がおられたので、この方を中心にしての慰霊祭をする。
この奥には“洞窟“があるというので、よじ登って見に行ってみる。

確かに・・・あるにはあったが・・・かなり小さくて狭い洞窟だった。
ついつい洞窟の中が野戦病院というイメージを持つが、もし、ここが本当に野戦病院だとしたら、実際はそうではなかっただろう。
多くの傷病兵は洞窟の中ではなく、この周辺に横になっているだけ・・・という状態だったのではないだろうか?
そんな気がする・・・・
もっと広範囲にこのあたりを見てみれば何か遺品のようなものが見つかるかも知れないと思ったが、時間もないし、団体行動なので諦める。

移動途中の景色

次が・・・「セキロウ」という場所・・・
この頃には、当初の旅程の訪問の順番は滅茶苦茶!(笑)
どこへ行くのやら、何が何やらさっぱりわからない・・・・

この橋のすぐ向こうは海岸だという。
ここは“セキ会長”のお兄さんが亡くなられた場所だという。
この先の海岸には撤収作戦の為の兵士たちを収容する船が来ていたらしいのだが・・・・
“セキ会長“のお兄さんは、このあたりまで来て力尽きてしまったという。
あともう少しのところまで来ていたのに・・・・海岸まで100mもないだろうという。
このことを伝えた生還者も辛かっただろう。
自分が歩くのがやっとで、とても他人の面倒までは見られなかったのだろうから・・・
それにしても残念無念である。
あと・・・もうちょっと・・・だったのに・・・・
そういう方々は多かったんだろうなぁ〜
河川敷で慰霊祭を執り行う。
移動途中の景色

その後、しばらくバスは走り続けるが・・・どこに向かっているのかはわからない。
予定では「カミンボ」というところに行くはずなのだが・・・
しかし、添乗員の話では「カミンボ」は通過したという。
「カミンボ」は歩兵第124連隊の岡連隊長の率いる舟艇部隊(約1000名)が上陸した地点。
同じ川口支隊の本隊とは別に、舟艇による移動を主張して独自に行動したところ、支隊主力とは飛行場を挟んで反対側の、しかも島の最西北端に上陸してしまったのである。
これにより、川口支隊は兵力を分散してしまった。
岡部隊は、この「カミンボ」から飛行場を目指して進撃したわけなので、いわば岡部隊の出発地点というわけだが・・・・
ご遺族の皆さんは関心はないのだろうか?
通過しちゃったのなら仕方がない・・・・

できれば、この出発地点から慰霊巡拝を始めてくれると、戦史と合わせながら回れるので、理解しやすいのだが・・・
それを望むのは贅沢というものか・・・
ご遺族にとっては自分の家族の慰霊がメインなのであって、戦史や戦跡には興味はないのだろう。

そのうち、添乗員さんから「エスペランス岬で慰霊をされる方はおられますか?」との問いがあった。
そこでお亡くなりになっている遺族はいないので、「いませ〜ん!」ということになったが・・・
ん?
何か変だと気が付く。
エスペランス岬も、一応、コースに含まれているのだが・・・まさか・・・(汗)
で・・・尋ねてみたら・・・
「慰霊をする人はいないというので通過しました」と言う。
えぇ!うそ〜!
「エスペランス岬」は、ガダルカナル島から日本軍が撤退する時の撤収地点だった場所である。
ここの海岸に日本軍の駆逐艦がやって来て、餓死寸前の兵士たちを収容したという“有名”な場所である。
慰霊祭をしないからと言って、通過されたのでは困る。
私にとっては、パリに行ってエッフェル塔を見ないで帰ってくるようなものである。(汗)
他の遺族からは異論は出なかったが・・・それはそうかもしれない・・・・
撤収した場所なんて関係ないのである。
ご家族は戦死してしまったのだから、そんな場所を見ても仕方がないということだろう。
戦跡と戦史の勉強と、慰霊を兼ねる私としては残念なのだが・・・・
しかたがない・・・いつか、一人でまた来るしかないかぁ・・・
これが遺族会などの団体の一員として一緒に行動した場合の一番不便なところである。
「訪問予定地」を見たうえで、このツアーに参加するかどうかを決めている部分もあるので、現地で勝手にカットされてはガッカリである。
といって、話が違うじゃないかと文句を言えば、個人的わがままと言われかねない雰囲気・・・・
「団体行動」の難しいところである。

次に向かったのが、「ビサレ教会」
なんでここに向かったのかは知らない。(笑)
ここでお昼を食べるらしい。
この教会の敷地内で“おにぎり弁当”を食べる。

この教会には“看護学校”も併設されているらしい。
今日は、偶然にもその学生さんたちの“卒業式”だという。
「少し見学しましょう!」と添乗員さんに言われ、何だかわからないが見学する羽目となる。
別に、式典で我々が紹介されるわけでもないし・・・・
我々が祝辞を述べるわけでもないし・・・
ただ、勝手に敷地内に入り込んで・・・見学とは・・・(汗)

私は全然興味がないので、周辺を散策して時間を潰すことにした。(笑)
ここで卒業式の見学に時間を潰すより、戦跡の散策に時間を使いたいところである。
「価値観の違い」とは、まさしく、こういうことである。

すぐ目の前の海岸は砂ではなくてサンゴの残骸(死骸?)でできた“砂浜”だった。

1時間も無駄な時間を潰し・・・・・ようやく「ビサレ教会」を出発。(苦笑)
次に向かったのが、「タンベア」というところにある第2師団の慰霊碑。

ガ島戦没者慰霊碑
第二師団勇会 昭和60年(1985)建立
この慰霊碑は、ここにあったホテルの敷地内に建てられたものだそうだが・・・
今は、そのホテルは消滅していてプールだけが残っているのみ。
倒産でもしたのだろうか?

次に向かったのは、「戦争博物館」
「博物館」というから、どんなところだろうと思っていたら・・・・
「館」とは言っているが建物はない。
野外に兵器類が展示されているだけだった。
「博物館好き」の私としては、ついつい興奮してしまう場所であるが・・・
他の参加者にはあまり興味のない場所だろうなぁ〜(大笑)

九六式15糎榴弾砲 九七式中戦車(改)の砲塔
米軍戦闘機の残骸 飛行機の残骸(翼部分)
 
水上機のフロート? 米軍戦闘機の残骸
 
九二式10糎加農砲  日本軍の高射砲の残骸

日本軍の大砲がいくつも残っているのには驚いた。
ガダルカナル島に到着する前に多くの輸送船が沈められているので重火器の陸揚げは出来なかったのだろうと思っていた。
だから大した武器はなかったと思っていたのだが、重砲がいくつも残っているとは・・・
日本軍の戦車の残骸が砲塔だけというのは残念。
どこかに、そのままの形で埋もれていないだろうか?・・・・などと、つい思ってしまう。

次に向かったのが、「タサファロング」という海岸・・・・
ここに、かの“有名”な日本の輸送船「鬼怒川丸」の残骸がある。
ガダルカナルへの物資輸送を行う輸送船は米軍の航空機の攻撃にさらされ、撃沈されるくらいならばと、海岸に乗り上げたのである。
その中の1隻が「鬼怒川丸」である。
戦後の写真ではかなりしっかりとその船体が残っていて、結構、有名な写真だが、今では、ほんの一部分が海面から顔を出している程度・・・・
船体のほとんどが消え去ってしまっていた。

この近くに桟橋の残骸のようなものが見えたので、皆さんから離れて一人でそこへ行ってみる。
ちょうど現地の人達が何やら魚をさばいていた。
と・・・・
その中の一人の女性が「日本人ですか?」と日本語で話しかけてきたのには驚いた!(大汗)
話をしたところ、彼女は以前、2年ほど日本にいたことがあるという。
それにしても上手な日本語にはビックリした。
何をしているのかと尋ねたら、バーベキューの準備をしているという。

ん?この魚を焼いて食べるのか?
やっぱり、こっちではバーベキューは魚か・・・・(笑)
地元の人と、日本から戦没者の慰霊に来たんだという話などを少しして別れる。

次に向かったのが・・・・
さて、これが・・・どこなのか・・・わからない。(大笑)
きちんと説明をしてくれる人がいないので、多分、何度も来ている人は知っているんだろうけど・・・
こちらは何が何だかわからず「連れて行かれる」という感じ。
バスから降りて、どこかの村の林の奥に向かって歩く。

ここに慰霊碑があったが、部隊関係ではなく、福島県の方お二人の名前が刻まれた個人の慰霊碑だった。
どうも亡き事務局長さんが、生前、この個人慰霊碑の建立のお手伝いをしたらしいので、それでここに来たらしい。
ここで慰霊祭を行ったが、この時に、ここまでくっついて来た村の子供の中の一人が、我々と一緒に手を合わせて神妙にしている姿には驚いた。
大したものである。
日本人の子どもでもここまでキチンとしたお参りが出来る子は少ないと思う。
いやぁ〜感心した。

午後4時半・・・・今日の巡拝慰霊はこれで終了!
ホテルに戻る。

夕食

夕食後、会長の部屋に集まり、明晩行なう“灯篭流し”の灯篭の組立の手伝いをする。


   


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