7.東部方面慰霊巡拝

(テテレビーチ・イル川・テナル・ムカデ高地・新飛行場跡・米国記念碑)


平成22年(2010年)11月21日 【6日目】

今日はガダルカナル島の東部方面へ慰霊巡拝に行く。
朝食・・・・
毎度、毎度、食事の度に写真を撮るので参加者の皆さんから笑われるのだが・・・
これも・・・旅の記録ななのです。(笑)
旅から帰ってくると・・・さて、現地では何を食べていたんだろう?・・・って、忘れている・・・・
だから、記録として残しておくのです!
たいして大事な記録ではないのですが・・・(大笑)

最初に向かったのが「テテレ・ビーチ」

途中の景色

この「テテレ・ビーチ」は、米軍が上陸した海岸の一つだそうだ。

この海岸の右のほうに「タイボ岬」というのがある。
この「タイボ岬」は一木支隊や川口支隊が上陸した場所だが、陸路では現地には行けないそうで、船で海上から向かうしかないのだそうだ。
というわけで・・・日本軍に縁ある戦跡の「タイボ岬」は、この「テテレ・ビーチ」から見るしかないらしい。
現地に行けないとは何とも残念・・・・

タイボ岬方向

ここから少し内陸部に入ったところに米軍の水陸両用トラックの残骸が30台近く放置されている。

この敷地内に小屋がある。
この土地の持ち主の小屋で、これらの米軍の遺棄車輛の監視小屋も兼ねているのかな?
ここにいた人達と、ちょっと会話を交わす。
彼らが英文で書かれた資料を見せてくれた。
どうも話によると、この海岸に上陸した米兵の一人が戦後、ここに来て、この資料をくれたのだという。
その人は、この人だ・・・と写真まで見せてくれたが・・・
彼らの説明がイマイチわからない。
ここに上陸した米軍の唯一の生き残りなのだと言っている。(・・・ように聞こえる)
おかしい・・・
上陸した米軍が全滅するような激しい戦闘がここで行われたのか?
どのくらいの兵力が上陸したのか知らないが・・・・
一人を除いて全ての米兵が戦死したなんて信じられないんですけど・・・
もしかしたら、自分の小隊なり分隊が全滅して、自分一人が生き残ったという意味かも・・・
いや、いや、当時は誰も死んでいないが、戦後、仲間はみんな死んでしまい、今生き残っているのは自分一人だ・・・という意味かも。
とにかく戦後ここにやって来た元米兵がそう言っていたのだと現地の人が言っているのだが、彼らが元米兵の話を聞き間違えている可能性はある。
いやいや、彼らの話を私が聞き違えている可能性のほうが大かも・・・・(大笑)
私は英語が大の苦手だからなぁ〜(笑)
そんな話を少しして、バスに戻って次の場所へ・・・・

次は「テナル」という場所・・・・
ここには学校なのか教会なのか、その敷地内に「一木支隊」の慰霊碑がある。

一木支隊 鎮魂碑

平成4年9月 一木会 建之

施工 北野建設
     1992年9月28日
碑文
一木支隊は大東亜戦争中(太平洋戦争)旭川第7師団歩兵第28連隊を基幹に編成され、昭和17年8月この島に上陸、半年の間勇戦奮闘し2千余名の将兵が非業の最後を遂げた。
ここに鎮魂碑を建立し、支隊勇士の霊に奉慰の誠を捧げ、その尊い勲を顕彰すると共に、この地に散華した日米をはじめ、参戦各国全勇士の霊の安鎮を祈るものである。
建立者 一木支隊戦友と遺族の会 一木会
協賛    一木支隊鎮魂碑建立協賛会

一木支隊は歩兵第28連隊を基幹とした部隊なので、このツアーの遺族の皆さんとは直接関係はないと思うが、ここで慰霊祭をすることとなる。
皆さんが慰霊碑の廻りを掃除して祭壇を準備している間、私は怠けて・・・(笑)
すぐ目の前にある民家の住人たちの所へ行く。
我々が到着した時、バスに乗っていきなり現れた我々に怪訝そうな顔をして“睨んで”いたからである。
彼らに挨拶し、日本から戦没者の慰霊に来た団体であることを伝える。
こういうのは私がやるようなことではないかもしれないが・・・
周囲にいる現地人に何の挨拶もせず、言葉もかけずに・・・というのは、いかがなものだろうかと思うのである。
私が彼らの立場だったら「なんだ、こいつら・・」と思うだろう。
どういう団体で、何しに来たのかを話しておけば、相手も嫌な顔はしないだろう。
で、説明したら「あ〜日本から来たんですかぁ〜」と彼らもにこやかに応えてくれた。
「お線香の煙と匂いで迷惑をかけるかもしれないが・・・」と身振り手振りを交えて説明したら通じたらしく・・・
「気にしなくていいですよ。どうぞどうぞ」と笑いながら応えてくれた。
我々日本人にとっては、お線香の煙は“いい香り”だが、現地の人にとっては、どうかはわからないから、ここは事前に言っておいたほうがいいだろう。
これで・・・よし!・・・・うまくいった。

次に向かったのは「イル川」という場所。
この川の河口付近で一木支隊がほぼ壊滅した。
その近くに「一木支隊奮戦之地」碑が建っている。

碑文
一木支隊は大東亜戦争の昭和17年旭川で編成され同年8月約2千3百人が上陸し数次の戦闘でその大半がこの地に散華した
平成4年9月 一木会建之

みなさんが慰霊の準備をしている間、私はまたもや怠けて(笑)海岸へ出てみる。
お世話係をしてくれている現地の“ダニエルさん”と、彼の息子の“ブランドン君”(8歳)も同行。
“ブランドン君”は、かなりの甘えん坊かな?(笑)
ずっと慰霊団に父親と同行してくれているが、父親にピッタリくっ付いて離れない。(笑)
人見知り屋さんでもあるのだろう、参加者が声をかけても恥ずかしがって父親の後ろに隠れてしまう。
まぁ、無理もないかも知れない・・・・
爺さま、婆さまの(失礼!)の慰霊団にずっと付き合うのも退屈だろうと思い・・・・
海岸の木の下に落ちていた松ボックリのような実を“ブランドン君”に「グレネェ〜ド!!(手榴弾だぁ!)」と投げつけたら“乗って”きた。(笑)
途端に、戦争ごっこである!
「バババ・・・ドドド・・・バキュ〜ン、バキュ〜ン!」
近くに落ちていた木の枝を銃に見立てて戦争ごっこ!(笑)
私はこの枝を軍刀に見立てて「突撃!」

 イル川河口

イル川の河口付近で“銃撃戦”と“チャンバラ”ゴッコ・・・
このイル川は日本軍は「中川」と名付けていたが、米軍側は「アリゲータークリーク」と呼んでいた場所で、一木支隊が進撃を阻まれて全滅した場所。
海岸に一木支隊の兵の死体が累々と横たわっている写真は有名である。
そういうところで“戦争ゴッコ”とは不謹慎かも・・・と、思ったが・・・・止められない。(汗)
他の参加者はまだ海岸に来ていないので、まぁ、いいだろう・・・
さすがに運動不足の50歳中年男にとって、海岸の砂浜を走るというのはキツイ・・・
が・・・“ブランドン君”は大いに楽しんでくれたようなので良かった。
いつか彼が大人になった時に、私とここで戦争ごっこをしたことを思い出してくれたら有難い。
私のことは忘れても・・・日本人と遊んだことを思い出してくれたらそれでいい。
なぜ、ここで戦争ごっこをしたのか・・・・
この場所がどういう場所なのか・・・大人になった時に理解してくれたらありがたい。

私と“ブランドン君”

まもなく、鎮魂碑のところで慰霊をするというので戻る。
その後、参加者は海岸へ向かう・・・・
私は鎮魂碑の場所に残る。
誰もいなくなったおかげで写真が撮りやすかった。

慰霊碑を参拝

次に向かったのは「ムカデ高地」・・・・
空港のすぐ近くの南側にある高地であるが、「ムカデ」と名付けられたのは、ムカデのようなクネクネとした形の高地だから・・・ということらしい。
ここに第2師団と川口支隊などが突撃をした。
ここに第2師団の慰霊碑がある。

ホニアラ空港滑走路(旧・ヘンダーソン飛行場)
ガ島戦没者慰霊碑

第二師団勇会
昭和60年(1985)建立
遠くに見える白いモニュメントは米軍の慰霊碑か?
この第2師団の慰霊碑から少し離れたところに、以前は川口支隊の慰霊碑があったという。
現在はホニアラ市内に移転し、ここには台座の部分が残っているだけ。
ここで慰霊祭を執り行う。

 ムカデ高地の一部

手元に詳細な地図がないので、自分がどのあたりにいるのかがわからないが・・・・
丘の斜面を突撃した日本兵が死体の山を築いたという場所はどのあたりなのだろう?
以前、友人と宇都宮へ史跡巡りに行った時、偶然、那須少将のお墓に出遭ったが・・・
その那須少将が戦死したのはどのあたりだろうか?

午前中の巡拝慰霊はここで終わり。
昼食をとるため、一旦、ホテルに戻る。

先ほど、イル川でバスに乗り込む時に“ブランドン君”に「お前は敵だからバスには乗せない。ここでバイバイ〜!(笑)」と、からかったら、今度は私がバスから締め出された。(大汗)
おい、おい、勘弁しろよぉ〜(苦笑)
参加者からは「なんであの子はあなただけには懐いてるんでしょう?」と質問されたが・・・・
戦争ごっこをしてましたとは答えられない。(汗)

今日の昼食は、お蕎麦である。

今回の旅は、とにかく忙しい・・・・
予定をカットしたり、とにかく慌ただしさがどことなくある。
というのも・・・この季節は雨季の為、午後になると雨が降ることが多いそうなのだ。
雨(スコール)が降ると、ちょっと奥地に入るとぬかるんで車が走れなくなりかねない。
ということで、天気が良いうちにドンドン回れ・・・ということになる。
雲行き次第では、予定を変更して、さほど重要ではない場所は飛ばして次の場所へ・・・となる。
特に“会長”は、この天気には特に御執心。
多分、以前ひどい目に会ったのだろう。
「雲行きが怪しいので、そこに行くのはとりやめましょう」「早く次の場所に移動しましょう」となる。

午後の予定は、雲行きが怪しいので、ゴルフ場での慰霊祭を早々とやってしまおうということになる。
日程表では「新飛行場跡」となっているが・・・・この「新飛行場跡」は、現在ゴルフ場になっているという。
日本軍には「新飛行場」なんてあったのだろうか?米軍が作った新飛行場の跡のことなのだろうか?
いずれにせよ、ここで私とホテルの部屋が同室の“ヤマグチさん”のお父さんが亡くなっているとのこと。

このゴルフ場の駐車場のフェンスの所に祭壇を設けて読経・・・慰霊祭を執り行う。

雨がパラパラと降ってきたが、大したことがなかったのは英霊の御加護か?
この時、周囲には地元の人たちがグルリと我々を取り巻いていたのだが・・・
その中の一人が「イスラムか?」と話しかけてきた。
「イスラム?」
どこからイスラムなんて言葉が出てきたのやら・・・(汗)
日本から戦没者の慰霊に来たのだということと、彼のお父さんがこのあたりで亡くなったのでお参りしているということを話したのだが・・・・
「え?日本?」と驚かれてしまった。
日の丸の旗をフェンスの所に飾っているんだけどなぁ〜
「あれは日本の国旗なんだけど、知らない?」と日の丸を指さして尋ねたら、「知らない」という。
「日の丸」を見て「イスラムなのか?」と言われたんじゃ困るんですけど・・・(大汗)
こりゃ、重大な問題だぞ・・・・
経済大国だとか、ODAで国際貢献しているとか・・・と言っていても単なる自己満足か?
日本は一般人には全然有名じゃないのか?
太平洋戦争の話をしたら、それは分かっていたようだ。(笑)
「ここに昔、滑走路があった」と言う。
そんなこんなで、地元の人と少しおしゃべりをする。

お決まりの“お下がり”

慰霊祭が終わり・・・・お決まりの“お下がり”・・・・・
私はこのお菓子やら何やらの“お下がり”が好きではない。
ただの“ばら撒き”にしか思えないからである。
とにかく近くにいる現地人にただ渡すだけ。
もらう側は何が何だかわからないが、もらえるものはもらおうと集まってくる。
これでは意味はないのではないか?
フィリピンでは、子供たちだけが並んで大人たちは見ているだけだが、ここガ島では大人が子供たちに混じって、さっさと列に並んだのには驚いた。

ことさら「ありがたく思え」という態度で渡す必要はないが・・・・
先ほどの「イスラム教か?」の発言でもわかるように、我々が何者で何をしているのか周囲の現地人は知らないのである。
ここは多少の説明はすべきではないだろうか?
どこの遺族会でも大なり小なりみんな同じことをする。
自己満足といえば自己満足・・・・
配った遺族は「良い事をした」と思っても、現地の人とのコミュニケーションにはなってはいないと思う。
だから私はこの“ばら撒き”は好きではない。
かといって、私にはこれを批判したり止めさせる権利はない。
遺族は遺族の思いでやっていることだから・・・・
私は、どこへ行っても、この“ばら撒き”の時は、傍観者に徹することにしている。

続いて向かったのはアメリカの記念碑がある場所。
それは丘の上にあり、小さな公園のようになっている。(平和祈念公園らしい)
入口には管理人がいてちゃんと管理されていて、綺麗に清掃されている。
日本の慰霊碑とは大違い。
この差はアメリカは戦勝国で日本は敗戦国だからなのか?

ここは遺族にはあまり興味がない場所であろうが・・・・
なぜか30分以上もここに留まる。
いくつもの石碑にはガダルカナルの戦史が英文で刻まれていたので、私はとにかくこの英文を全部撮影する。
日本に帰って訳してみようと思う。

写っている少年は“ブランドン君”・・・・
「日本軍と米軍では、どっちが好きだ?」と尋ねたら、すかさず「アメリカ!」と言われてしまった。(大笑)

本来の慰霊碑・記念碑はこうあってしかるべきだと思う。
日本のものは空疎で簡単な一文しか刻まない。
これでは意味がなかろう。
ここでどんな戦闘があったのか、どういう部隊が関わったのか、何人ぐらいが亡くなったのか・・・
そういうものを刻んで後世に伝えるのが本当ではないだろうか?
日本は日本側の立場で、米国は米国の立場で、それぞれ刻めばいい。
日本のやることはお粗末であり、自己満足だけのものである。
お金をかけた割には意味がない・・・・と、私は思う。

 米軍記念碑から見た景色

今日の巡拝慰霊はこれで終了・・・・
ホテルに戻る。

ホテルの1階の私の部屋・・・
目の前は砂浜・・・

今晩はガダルカナル島最後の夜ということで、何年にもわたり今まで遺族会がお世話になって来た方々を招いての夕食会だそうである。
5つのテーブルに分かれ、各テーブルに“お客さん”が一人ずつ座るという。
参加者は、好きなテーブルに自由に・・・とのことなのだが・・・
こうなると、問題は通訳。(笑)
通訳する人が足りないというか、いないのである。
英語が話せるのは添乗員くらい・・・
そこで何故か私が駆り出された。(唖然)
何かとんでもなく勘違いをされているようで・・・
私は英語が苦手だというのに・・・・

夕食会

私はとりあえず「戦史研究家」のテーブルに座り、“ジョンさん”の通訳を担当する。
が・・・当然、私の通訳はシドロモドロである。(大涙)

離れたテーブルには“ダニエル”と息子の“ブランドン君”が座っていたが、通訳がいないので手持無沙汰な様子。
途中から彼らのテーブルに行き、おしゃべりをする。
父親の“ダニエル”の話では、“ブランドン君”が家に帰って母親に「日本人の友達が出来た。日本人と戦って勝ったんだ」と威張って報告したという。
お母さんから「大人と戦ったら死んじゃうよ」と言われたら「僕は強いから大丈夫」と答えたとか。
「小学校を卒業したら日本語を勉強する」と言ったという。
いやぁ〜嬉しい話ではないか。

“ダニエル”からは「最初の日よりずいぶん英語が話せるようになったじゃないか」とからかわれる。
“ブランドン君”には3歳ぐらいの妹がいるらしい。
「お〜それじゃ、お兄ちゃんじゃないか〜。妹は可愛いだろう?」と言ったら、“ブランドン君”大いに照れる。(大笑)
しばらく“ダニエル”親子とおしゃべりをして、ようやく自分のテーブルに戻って食事をし始めたら・・・
「食べているどころじゃないですよ!通訳!通訳!」と叱られ、他のテーブルに駆り出される。
え?私は参加者の一員なのにまともに食事もさせてもらえないのか?(大涙)
なんと人扱いのひどいことか・・・(苦笑)

食事会も終わり、続いて、ホテル客室前の砂浜で“盆踊り”と“灯篭流し”のイベント。

灯篭を流すのは午後9時。
この時間にちょうど海流が沖に向かうのだそうだ。
しかし、波打ち際に置いても流れないそうで、ある程度沖まで持って行かないと、沖に向かう海流に乗らないとのこと。
誰か、参加者の中でパンツ1枚になって海には入ってくれ・・・などと言われたが・・・(笑)
地元の方が胸まで浸かり、灯篭を浜辺から離れた沖の方まで持って行ってくれた。
また、添乗員も水着を持ってきているとのことで、ビキニ姿で海に入って手伝ってくれた。
おかげで、灯篭は無事に沖に向かう。

なんとも幻想的な風景で・・・・
沖に向かってドンドンと去っていく灯篭を見ていると、遺族でもないのに、つい胸が締め付けられるような・・・・
なんとも寂しい気持ちになった。

しかし・・・真っ暗な中で写真を撮るというのは難しい・・・
毎度のことながらカメラの使い方がよくわからない。(笑)

この灯篭流しを見送っている最中、真っ暗闇の中で外人から声をかけられた。
「タイの方ですか?」と言う。
タイ?何で・・・タイ?(苦笑)
真っ暗なのでお互いの顔も良く見えないのだから仕方がないが・・・(笑)
彼が言うには、彼はタイに在住しているオーストラリア人で、タイでは満月の夜に、この「灯篭流し」のようなことをするので、タイ人のグループがここでもやっているのかと思って声をかけたという。
いや、いや、我々は日本人の慰霊団で・・・・とお答えするが・・・
さて・・・「灯篭流し」って英語でなんて言うんだ?
参った・・・・説明できない・・・(汗)
真っ暗だから身振り手振りは通用しない・・・・またもやシドロモドロの英会話である。(大涙)
それにしても今日は何という日だ・・・「イスラムか?」と言われたり「タイ人ですか?」と言われたり・・・・

続いて盆踊り!
私に声をかけた“部外者”のオーストラリア人も無理やり盆踊りの輪の中に連れ込まれた。
「その人は違いますよ!関係ない人ですよ!」と言っても誰も聞く耳持たず・・・
「よかばい!」の一言。(笑)
盆踊りは・・・・やっぱり恐れていた通り、炭坑節!
「掘って〜掘って〜また掘ってぇ〜」である。
練習をしてもしなくても同じである。(大笑)

全てのイベントが終了して解散。
参加者の一部は夕食会場に戻って“飲み会”をするらしい。
“会長“から戦史研究家の“ジョン”さんと2人でバーラウンジに行くので、よかったら一緒に来てくれと誘われたので同席させてもらう。
で・・・会長は英語が話せない。
“ジョンさん”は日本語が話せない。
お互い言葉がわからないのだが、以前から巡拝慰霊では顔なじみだそうで・・・
お互いに再会を喜び合い、前回の時の想い出話をしているようなのだが・・・
英語と日本語の間に挟まれて、お互いの話を聞いていると、ちゃんと話が噛み合っているんだから不思議だ。(大笑)
ちょっと難しい話は私が“通訳”をさせられた・・・
簡単な話を通訳するならいいが・・・・話が込み入った難しい話になったら私が通訳するというのもねぇ〜(大涙)
相変わらずのシドロモドロの“通訳”である。
誠にお粗末・・・・
こういう時に役に立ちたいのだが、能力不足のため自己嫌悪に陥る・・・
肝心なところで役に立たない・・・・
基本的に私には語学の才能がないのではあるまいか?

ビールを1杯づつ飲んで・・・解散!
帰宅する“ジョンさん”を見送る。


   


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