群馬県護国神社

(群馬県高崎市乗附町2000)


 平成26年11月16日







 群馬県海外引揚物故者慰霊塔





(平成26年11月16日)

昭和二十年八月十五日
太平洋戦争は吾々に敗戦の悲しみを残して終結した
祖國日本の発展を擔い懸命の奮斗を続けた在外七百万の同胞は全く放棄されたのであった
海外に於ける辛苦■結晶は総て奪われ尊き人命は彼等の暴力と飢餓とによって失われてしまった
幸いに九死に一生を得て引揚げたものの極貧と病魔とが襲いかかったのである
吾々は地下に眠る県下三千四百有余の声なき犠牲者の霊を永久に慰めんため推進委員会を設け広く引揚同志の協力を仰ぎ茲に慰霊塔を建設し謹んで物故同胞の霊に捧げるものである

昭和三十五年十二月八日
群馬県引揚者連合会
仝引揚物故者慰霊塔建設委員会

(銘板碑文より)




 「あゝ特攻」の碑

 平成21年3月吉日
 群馬県特攻勇士の像建設委員会

 (財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会
 日本人の心を伝える会


(平成26年11月16日)

日本は昭和の一時期 米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した
この時一機一艇で一艦に体当たりする歴史に例のない必死の戦法が採られた
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送ったその雄姿を此処に置く
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ
命に代えて何を守ろうとしたか この像に問い続けて欲しい

(副碑・碑文より)






 鵬翼の塔

 群馬県知事 神田坤六謹書




(平成26年11月16日)

明治天皇御製
   よとともに語りつたへよ國のため
       命をすてし 人のいくさおを

大東亜戦争の火が消えてすでに二十年
蒼空を仰ぐ度に祖国の勝利を信じつつ散華した航空部隊の将兵各位を思う雲こそわが墓標なりと
肉弾となって大陸に北辺の空に南溟の涯に雄々しく羽ばたいた群馬県出身の諸士も戦運利あらず遂に再び家郷に見えることなく天翔ける護国の神と化したものが少くなかった諸士の壮烈な殉国は永く日本の歴史とともに語り伝えられるであろう
幸い祖国は諸霊の加護により再び平和と繁栄を招いたがことある毎に日支事変大東亜戦争において戦死された群馬県出身航空関係将兵の慰霊と顕彰が議せられその崇高な諸士の偉勲と忠誠を千載の世に伝えるためここに鵬翼の塔を建てる
願わくば諸霊よ安らかに瞑し折あらば空ゆく雲に座して後に続く者を照覧あれ

昭和四十年五月五日
群馬県航空関係戦没者顕彰碑建設委員会
    佐藤春重撰文
藍窓 小暮亀造拜書

(碑文より)

永代祭祀厳修記

この碑は昭和三十九年秋に 元陸海軍航空関係生存者の仂きかけにより 県当局から碑石の提供を受け 陸上自衛隊新町第十二施設大隊の採石運搬等の協力支援もあり 浄志を広く県民に仰ぎ翌四十年五月建立いたしました
美しい新緑に囲まれた碑前において 第一回の祭典を大勢の関係者により厳かに執行いたしましてより 毎年桜花爛漫の頃祭典を執行し 同志の慰霊飛行も毎回行われてまいりました
私達は英霊の慰霊顕彰に誠を尽すことを第一義とし 英霊の偉勲を永遠に伝えると共に おかげで今日の平和があることを感謝し その祭祀が永代に継承せられんことを念願するものであります
このことが身命を国の大事に捧げ散華せられた方々への私達の尊い責務であり それが国民道義の昂揚に寄与し行くものと確信するものであります
今回この礎石を添増して碑石を更に力強く支えて これを副碑となし 永代祭祀厳修のために協賛せられた節義の方々を刻名し もって忠霊の衛士となろうとするその志を後世に遺さんとするものであります

昭和六十二年五月吉日

(~芳名は略~)

(副碑・碑文より)






 平和の礎

 群馬県護国神社宮司金子安平謹書




(平成26年11月16日)

碑文

日清日露の両戦争をはじめとし幾度かの戦争を経て太平洋戦争の終結まで約半世紀の年月が流れた
この間郷土群馬の若者は高崎部隊をはじめ全国各地の部隊に所属し北や南の遠い異国の地にまた国内の各地に身命を捧げ愛国の真心をもって戦争遂行に尽くしたのである
しかし祖国日本の安泰と繁栄を信じながら前途有為な先輩戦友が惜しくも戦没されたことに思いをよせるとき誠に残念の極みといわなければならない
一方銃後にあって困苦欠乏に堪えて食糧ならびに軍需物資の増産と輸送及び戦地への慰問品発送など献身的に尽くされた方々の労苦は極めて多大であった
太平洋戦争終結から四十五年平和でしかも世界各国の注目する大国としての繁栄は戦没者をはじめ国内にあって銃後を守られた方々そして終戦直後の困難をきりぬけ復興に尽くされた人々の犠牲と努力の上にうちたてられたことを思いここに深く感謝の誠を捧げるものである
激動の昭和時代も終り平成の時代となった今戦争は悲惨の極みであることを痛感し平和の礎となられた英霊をはじめ多くの方々の慰霊とその功績を顕彰すると共に永遠の平和を祈念するものである
ここに同志相はかって群馬県護国神社の社頭にこれを建てる

平成2年10月30日
平和の礎碑建立委員会委員長 関口久夫

(副碑・碑文より)






 近衛歩兵第2連隊
 近歩二会群馬支部 奉納






(平成26年11月16日)







 祖霊殿(納骨堂)





(平成26年11月16日)







 嗚呼戦没級友之碑





(平成26年11月16日)


(碑文)

戦没級友氏名(~略~)

大東亜戰争戰没者級友を祭祀し、吾等生存者一同■■■感謝■■心を捧げ永遠なる冥福を祈る

昭和三十年(~以下判読不可~)
昭和九年高崎(~以下判読不可~)
尋常科卒業生一同建之
(一行、判読不可)






 高崎市連合郷友会会長の句碑






(平成26年11月16日)


奉仕終え
  流るる汗も
    清々し
  勝太郎

高崎市連合郷友会は昭和30年13支部6千余名で発足し、英霊の顕彰、遺族会の援護、護国神社諸行事並びに高崎市合同慰霊祭等に参加して参りました
昭和60年私が連合郷友会長に推挙され引き続き奉仕活動を続けて参りましたが、会員の老齢化により、各支部相ついで解散し、遂に会長一人となり、私の年齢も八十八才の米寿を迎え、記念に句碑を建立した

平成21年5月6日
高崎市連合郷友会
会長 旭五 金井勝太郎
 藤澤群黄 刻

(碑文より)






 嗚呼隆西丸遭難者之碑






(平成26年11月16日)

隆生丸由来

時、昭和十九年二月二十五日、南方小スンダ列島、バリ島沖に於て敵潜水艦の魚雷を受け、沈没
隆生丸、乗船者六千余名が戦死せり、茲に生存者、相集いて、護国の神域に供■碑を建立し以て戦友諸氏の冥福を祈念す、

本縣出身犠牲者百三名■裏面に銘記す

生存者氏名(~略~)

(碑文より ※「隆生丸」は「隆西丸」の誤記と思われる)






 歩十五会 奉納燈籠

 (歩兵第15連隊




(平成26年11月16日)





 弓歩兵第215聯隊 奉納燈籠

 (歩兵第215連隊




(平成26年11月16日)





 二三八会 奉納燈籠

 (歩兵第238連隊




(平成26年11月16日)






 フィリッピン方面戦没者慰霊顕彰碑


 防衛庁長官 中曽根康弘謹書



(平成26年11月16日)

フィリッピン方面戦没者慰霊顕彰碑

郷土出身陸海軍所属各部隊従軍
比島方面戦没将兵等6429柱


碑文

この碑は太平洋戦争に於てフィリッピン方面で散華した同胞47万6千余柱のうち、群馬県関係6429柱の英霊を顕彰する慰霊の碑であります。
大東亜戦争の天王山といわれた比島では、南方諸地域中、日本国でも、また群馬県でも最高数の戦没者を出した一大決戦場でありました。
顧りみれば昭和16年12月10日、日本軍がルソン島リンガエン湾に上陸して以後、戦況が次第に苛烈となった、昭和18年仝19年頃に内地より臨時召集や現役兵編入等で郷土部隊の母体(軍旗)と共に派遣されずに数百名が一単位となり、高崎連隊から或は宇都宮、水戸、千葉その他の各連隊を始め、海軍部隊諸基地や、遠く朝鮮、満州、支那等の各現地部隊と共に続々と緊急南下され、途中台湾沖やバシー海峡等で敵潜水艦や空襲のため数千人乗船したまゝ輸送船もろ共海中に消えた多くの将兵・軍属・従軍看護婦等を始め、昭和19年10月レイテ島に米軍を迎撃して以来、遂に南方面の制海権と制空権を手中に納めた米軍は、総てに圧倒的有勢を誇る新鋭兵器、航空機、艦船等の絶対的物量を以てルソン島を始めミンダナオ島、ネグロス、セブ、ミンドロ、サマール、パラワン、パナイ、コレヒドール等の各島々に於て日本軍と対決しました。
特にレイテ・ルソン島等は米軍上陸の水際戦斗のその日から、各兵団諸部隊は肉弾斬込み戦を繰返し山岳戦に到るまで悪戦苦斗し、全諸島に渡り将兵等は、ひたすら祖国日本を直接戦場にしてはならぬと胸に堅く誓い、悪條件の下爆弾を抱いて特別攻撃機となり又は人間魚雷となって全機全員敵艦に体當りし、或いは人間爆弾となり、むらがる敵戦車に飛び込み、深山幽谷の地に或は南海の孤島に空に海に一塊の肉片も残さず散華、弾薬食糧の補給全く杜絶し、道なき熱帯のジャングルに分け入り困難辛苦、飢餓と風雨にさらされ勇戦奮斗むなしく戦傷や、マラリヤ、赤痢等の悪疫に尊くも斃れ或は自決、血で血を洗う鬼哭啾々たる戦場で激斗の末、最後の突撃を敢行して全員玉砕するなど全滅的運命となり遂に護国の神となられたが、戦争の結末は敗戦という烙印を押され総ては無言のまゝ終了しました。
二度とこのような戦争を繰返し巻込れてはなりませんが戦後20有余年を過ぎた今日に到ってもこの戦没英霊を讃る事は充分でなくすごして参りました。
然し平和を完全に取戻した現今、この尊き殉国の犠牲・鬼神も泣く無言の戦没諸兄の武勲を顕彰、御霊の御冥福を祈り、その勲功を永久に讃え奉るものであります。

昭和46年3月21日
フィリッピン方面戦没者慰霊顕彰碑建立委員会
代表 群馬県フィリッピン会
    比島方面戦没者遺族有志一同
後援 群馬県遺族の会・群馬県軍恩連盟
    群馬県郷友会・他有志一同

(碑文より)






 義勇軍の碑

 加藤完治 書




(平成26年11月16日)

建立の詞

 われらは若き義勇軍
     祖国の為ぞ鍬をとりて
 萬里涯なき野に立たむ
     いま開拓の意気高し
       いま開拓の意気高し

この歌声と共に開拓を志した我等満州開拓青少年義勇軍群馬県出身者は、昭和十三年の第一次より、昭和20年の第八次までの総計七阡有余名であった
青少年義勇軍による満州開拓事業は満蒙の天地に民族協和の王道楽土建設と祖国の防衛を実現するための重要国策として時の政府により行われたものであった
我等は若くしてその国策に身を振るったのである
しかし昭和二十年八月思はざる祖国の敗戰により血と汗の建設は一瞬にして崩れ去り数多くの拓友は大陸の草原に露と消えていった
この碑は満洲の昿野で犠牲となった拓友の霊を慰めると共に青少年義勇軍の壮挙を記念するため生存者一同によってこんりゅうしたものである

 はてしなき昿野に立ちつ鍬とりて
     ふる里思ふ君はかえらじ
 北満の昿野を照す君が遺志
     郷土の為に我等うけつがん
 蘭の花土のへに亡き拓友の
     すぎし面影友と語らん

我等はその思いを此の歌に託しつゝこゝに亡き拓友の霊を護国神社の丘にお祀りできたことをこの上なき喜びとすると共に真の世界平和の実現を心から祈念するものである

昭和四十二年五月
群馬県出身元満洲開拓青少年義勇軍生存者一同

(碑文より)





 軍馬忠魂碑

 陸軍歩兵大佐 谷 弘 書

 昭和14年12月25日建之



(平成26年11月16日)

軍馬忠魂碑

この碑は元高崎部隊営庭に建立されしが大東亞戦争後同兵營の解放と共に荒廃久しく顧みられざるにより縣下有志と相図り講和発効記念戰歿者慰霊行事の一環として當神社境内に移す
即ち群馬縣戰歿軍馬三千有余頭の霊を此處に鎮め永く其の忠魂讃えんとす

昭和二十七年四月廿七日
 群馬縣軍人軍属戰歿者
 合同慰霊祭実施期成連盟

(副碑・碑文より)






 傷痍軍人之碑

 群馬県知事 清水一郎 謹書




(平成26年11月16日)

建碑の趣旨

この碑の建設は 世界平和の大願を後世に伝えたいという念願から発したものである
我々は嘗ての大戦に際し 国家の要請に基づいて戦線に立ち傷痍の身となって生死の境を彷徨した者である
戦後における国民の生活は窮乏を極めたものであったが とりわけ我々戦傷病者にとっては精神的にも肉体的にも堪え難い苦難の日々であった
しかも今日まで挫折することなく生存し得たのは 国家のために戦い 民族を守るために受けた傷病であるという矜持と 戦傷病者相互の励ましと助け合いがあったからである
今日の日本は民主主義国家として 世界を瞠目させるほどの経済的発展を遂げ国民の生活も飛躍的な向上見るに至ったが その陰には尊い戦没者や我々のような多くの犠牲者の存在することを思うべきであらう
我々はこうした苦渋の体験に鑑み 将来我が国民が永久に戦争に介入するようなことなく 平和で豊かな国土を守り 勤勉で礼節ある民族として 世界平和に貢献すよう努力することを祈ってやまない
ここに戦没された英霊を慰霊顕彰するとともに 我々戦傷病者悲願を永く伝えるために 会員一人一人の善意を結集してこの碑を建立するものである

昭和五十七年四月二日
群馬県傷痍軍人会

(副碑・碑文より)



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