平成19年3月26日
1838年6月6日〜1911年12月13日(※12月16日の説有り)
長崎県長崎市・長崎グラバー園でお会いしました。
英国スコットランド生まれ。
上海で事業の後、安政6年(1859年)来日。
文久元年(1861年)長崎にグラバー商会を設立。
元治・慶応年間に諸藩へ艦船・武器類を販売し、長崎屈指の貿易商となり、幕末政治史の重要な局面にも多く関与した。
明治3年(1870年)グラバー商会は破産したが、高島炭鉱の業務などにたずさわった後、三菱の顧問を務めた。
日本人女性と結婚し、子供は後に帰化して姓を倉場とした。
明治44年(1911年)東京で没す。
トーマス・ブレーク・グラバー之像 (長崎市・グラバー園) (平成19年3月26日) |
碑文
英国人トーマス・ブレーク・グラバーは安政6年(1859)長崎に来て貿易業を営むかたわら近代的な造船・掘炭・製茶などの事業をおこしわが国産業の発展に貢献した。
その間特に薩長土肥の諸藩に協力して明治維新の大業に寄与した。
その偉功により勲二等旭日章を授けられ明治44年(1911)73歳で永眠した。
ここに胸像を建てその功績を永く顕彰する。
昭和36年10月
長崎市長 田川 務
グラバー | 日本・世界 | |
1859(安政6) | グラバー長崎に | 長崎・神奈川・函館開港 英仏、清国と戦争開始 |
1869(万延元) | 外国貿易会社に勤務 | 桜田門外の変 |
1861(文久元) | 外国商人K.R.マッケンジが現グラバー邸地を購入 | |
1862(文久2) | マッケンジーの後を継ぎ、グラバー商会を設立 日本茶を英国に輸出 薩摩・長州藩等西南諸藩の勤皇勢力を支持 |
英仏蘭連合艦隊、下関で長州と交戦 |
1864(元治元) | 居留地の15,500坪を所有、グラバー邸完成 | |
1865(慶応元) | 大浦海岸通りで蒸気機関車アイアン・デュークを試走 | |
1868(明治元) | 高島炭鉱経営、洋式採炭、 小菅修船場(ソロバンドック)経営 |
大政奉還 |
1869(明治2) | 小菅修船場、政府の長崎製鉄所(現三菱造船)に吸収 | 王政復古の大号令 |
1880(明治13) | 高島・居留地間に海底ケーブル、私設電話開設 | |
1881(明治14) | 高島炭鉱、三菱の所有に | |
1885(明治18) | ジャパン・ブルワリ・カンパニーの設立に尽力 | |
1888(明治21) | ジャパン・ブルワリ・カンパニー初めて「キリン・ビール」を発売 | |
1891(明治24) | ジャパン・ブルワリ・カンパニー社長 | 旧日本国憲法発布 |
1893(明治26) | 三菱の終身顧問に | |
1899(明治32) | 妻ツル死去 | |
1904(明治37) | 日清戦争はじまる | |
1908(明治41) | 勲二等旭日章に叙せられる | 日露戦争はじまる |
1911(明治44) | グラバー死去(73歳) | |
1939(昭和14) | 三菱、グラバー邸を買収 | |
1957(昭和32) | 三菱、グラバー邸を長崎市に寄贈 | |
1961(昭和36) | グラバー邸、国指定の重要文化財に |
(展示パネルより)
トーマス・ブレイク・グラバー (説明板より) (平成19年3月26日) |
グラバー氏の業績 |
グラバーと明治維新
グラバーは、坂本龍馬など倒幕の志士らとの交流を通して、幕末から明治維新の政治情勢に深く関わっていた。
1863年(文久3年)には、当時の禁を侵して伊藤博文や井上馨ら長州藩士5名をひそかに英国へ留学させる手助けを行なうなど、新生日本誕生にとって多大な貢献をしていたという事ができる。
グラバーと蒸気機関車
日本初の蒸気機関車「アイアン・デューク」(鉄の公爵)を上海で購入し、現在の市民病院前から、大浦川付近まで、約4百メートルに及ぶ線路を敷設し、国産の石炭を燃料に公開運転を行なった。
日本初といわれる新橋―横浜間が開通したのは、この7年後の1872年(明治5年)のことであった。
グラバーと小菅修船場こすげしゅうせんじょう
1867年(慶応3年)に、日本近代造船の夜明けといえる小菅修船場(通称 ソロバン・ドック)を薩摩藩の五代友厚ごだいともあつ、小松帯刀こまつたてわきらと共にグラバー住宅から南へ約1.5km行った現在の小菅町の入江に、当時としては大規模な近代設備を完備した修船場を完成させた。
1872年(明治5年)明治天皇の長崎行幸があった。
グラバーと高島炭鉱
1868年(明治元年)日本と外国との初めての共同事業である高島炭鉱が、グラバー商会と、佐賀藩との間で始められた。
高島炭鉱は、西洋の近代設備を導入した、日本初の炭鉱設備であり、当時、外国産の石炭とくらべても良質であるといわれた。
又、南山手から高島の事務所まで、日本で初めて私設電話をひいた。
グラバーと三菱
トーマス・グラバーが三菱の傘下にはいったのは、グラバー商会が倒産したのち1881年(明治14年)三菱商会が高島炭鉱を買い上げてからである。
「三菱高島鉱業所」の所長「三菱商事」の基礎をきずき、1885年(明治18年)三菱の常任顧問という地位を確立し、岩崎弥太郎、弥之助兄弟との、よき相談相手であった。
グラバーとキリンビール
トマス・グラバーの努力により1885年(明治18年)7月キリンビールの前身「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」として発足した。
発足から3年後の5月に日本で初めてのビールが世に出された。
トーマス・グラバーは、1887年(明治20年)〜1891年(明治24年)まで取締役を、更に1894年(明治27年)まで社長を務めた。
グラバー氏とその家族 |
トーマス・ブレイク・グラバーと息子 倉場富三郎、親子二代90年の足跡は、近代長崎のいしずえとなった、造船・漁業の歴史を語る時にかかすことが出来ない存在として、はかりしれない影響を与えている。
彼は、1861年(文久元年)長崎でグラバー商会を開設し 西南諸藩との 武器・艦船等の輸入 茶・絹 等の輸出をするなど商会での経営は順調であった。
又 幕末から明治維新にかけても倒幕の志士達と深くかかわりがあり、晩年 日清、日露戦争の功績により日本政府から 勲二等旭日重光章を外国人として初めて授与された。
トーマス・ブレイク・グラバーは、スコットランドのフレーザーバラで生まれ、初等教育をアバディーンで受けた。
1859年(安政6年)9月、21歳の若さで、上海から長崎に来航し、ジャディーン・マセソン商会に勤務した。
その後1861年(文久元年)この商会が中国に本拠地を移すと、その業務を引継ぎ、グラバー商会を長崎に設立した。
1866年(慶応2年)、薩摩藩士 五代友厚に大阪で造船業を営む 淡路屋の娘 ツルを紹介され結婚し 長崎の西小島の私邸で長女 ハナと長男 富三郎が生まれた。
富三郎は、1899年(明治32年)英国人商人ジェームズ・ウォルターと日本人女性、中野エイ夫妻の次女、中野ワカと結婚したが、二人の間には子供が出来なかった。
ハナは、後にウォルター・ベネットと結婚し、現在グラバー氏の子孫として、ベネット家がその血筋を現在に伝えている。
(解説文:『旧グラバー住宅』展示パネルより)
旧グラバー住宅 (長崎市・グラバー園) (平成19年3月26日) |
【政商グラバー】
記録によると、グラバーは1838年(天保9年)に、スコットランドの東海岸の港、アバディーンの近郊に生まれたとある。
父は海軍将官で、造船業を営んでいた。
海外雄飛に志を抱き、20歳のときには上海に渡航し、そこで商業に従事した。
それから2年後の安政2年(1859年)、長崎の開港と共に一旗あげるために長崎にやってきたと、伝記は来日までの事を記している。
以来、没するまでの半世紀を長崎、東京で送ったが、その間、1867年4月から数か月間、故郷のスコットランドに一時帰郷している。
1859年5月24日。
4日後の開港を控えて幕府は貿易上「外国貨幣の同種同量通用を戒告」した。
ところが、この戒告の裏に日本側にとっては、思わぬ不利益があることが理解できていなかった。
つまり、日本と海外との間に、金銀の価値の格差があるということを、幕府の官吏たちは知らなかったのである。
グラバーらは、そうした幕府の盲点をついて、開港のドサクサを利用して事業資金を捻出した。
当時、上海では金と銀との比価が1対15であった。
ところが、日本では1対5(公定)か6(闇)である。
そこで、グラバーら外国商人らが目を付けたのは、日本から金貨を上海に持ち出し、上海で金1を銀15と交換し、その割安の銀(洋銀)を日本に持ち込み、再び金に交換するという手口である。
このようにして日本から上海に、金貨を持って帰れば3倍ほどになった。
そして再び日本で銀を金に交換・・・・。
まったく濡れ手に粟である。
グラバーは、この開港直後のドサクサの中で、シナ海を行き来するだけで膨大な事業資金を得ていたのである。
しかし、違法なことをしていたわけではない。
当時、金銀貨の輸出は、条約上公然と認められていたのである。
グラバーのような商人たちだけではなく、長崎や横浜の居留地に住む多くの外国人たちも、金貨の持ち出しに狂奔した。
記録によると、開港直後の1859年(安政6年)6月から1860年(万延元年)1月までの半年間に流出した金貨は、30万両から40万両といわれている。
盲点に気づいた幕府は、その後、交換比率を改定したり、洋銀の時価通用の指令、外国人への銅販売を禁止するなど対応に苦慮した。
設立の資金を得たグラバーは、来日2年後の1861年にグラバー商会を設立する。
初期の頃は製茶輸出が主だった。
しかし、事業を急成長させたその裏には、1860年代中頃から後期にかけての「薩長に肩入れした武器商人」の顔があった。
特に、1866年(慶応2年)と翌年は、薩摩・長州・土佐藩連合と幕府軍との、いわゆる鳥羽・伏見の戦いを控えて、両陣営から武器・艦船の購入が相次いだ。
記録によれば、1867年(慶応3年)に、長崎港に輸入された小銃は6万5千挺余、艦船は24隻にも上る。
大砲も数十門は輸入されたものといわれる。
その中で、グラバー商会の長崎港での扱い高は、小銃の4割、大砲の8〜9割だった。
グラバーはその他、上海から蒸気機関車を輸入し、大浦海岸を走らせたり(1865年)、日本の近代造船工場の発祥の一つとなった長崎・小管ドックを造ったり(1868年完成)、大阪造幣局開設に尽くしたりと、いろいろな方面にも手を出した。
しかし、忘れてはならないのは、1868年(慶応4年)4月からの高島炭礦の開発である。
近代式採炭技術を取り入れた同炭礦は、グラバーの説く石炭国策論にのって、日本近代化の先駆けとなった。
それまでの高島炭礦は、人力による排水や採炭は女、子供が竹籠に入れて運び出すという原始的な方法に頼っていた。
これを蒸気ポンプによる方法に変えることで出炭能率を飛躍的に高めた。
グラバーは、事業としては神戸、大阪、横浜とっその商会経営を東に延ばして行ったが、長崎との関係は最後まで濃密だった。
(参考:松本逸也 著 『幕末漂流』 1993年4月初版発行 (株)人間と歴史社)
(令和元年10月19日 追記)
【グラバーと討幕派】
グラバーが晩年に旧毛利家臣に語った『史談速記』は、自身の生の声で、当時(維新前夜)の心境を語っている。
“馬鹿なグラバー、自分の歴史は一つもありません”
自分は由緒ある家柄ではなく、成金だ、と冒頭から少々、自嘲気味に始まったこの対談は、坂本龍馬のこと、木戸孝允を密かにかくまったことなどをトクトクと語った後、最後には、こんな言葉まで飛び出している。
“徳川政府の反逆人の中では、自分が最も大きな反逆人だと思った”
その言葉を裏付けるように、グラバーは、明治元年正月、最後の将軍・徳川慶喜の助命を嘆願している。
グラバーは、事業の面から日本の近代化に貢献しただけではなく、政治的な面でも相当大きな働きをしていた。
“自分が一番役に立ったことは、パークスと薩・長との間にあった壁をこわしたことで、これが自分の一番の手柄である”
と『史談速記』内で語っているように、英国公使ハリー・パークスが、時の政府である幕府に加担しようか、反政府側につこうかと悩んでいた時、強引にパークスを鹿児島に連れて行って、口説き落としたことを、自分にとって最大の功績であると言うのである。
(『パークス伝』にはグラバーのことにはまったく触れられていない)
グラバーは、薩摩藩士や長州藩士を英国に留学させ、それまで攘夷を叫んでいた武士たちの目を覚まさせるという、ただ金儲け主義の商人ではなかったことは認めてもいいようだ。
グラバーとは逆に戊辰戦争で、幕府側(奥羽列藩同盟)に加担して武器を売り、官軍側から朝敵とまで呼ばれたオランダ人商人スネル兄弟の存在は、ほとんど知られていない。
これは「勝てば官軍、負ければ賊軍」同様、外国の武器商人といえども敗者であることには変わらないからだ。
敗者の歴史は語られないものだ。
グラバーは、この『史談速記』で秘話を語った後の明治44年12月16日、東京・芝公園の自邸で息を引き取った。
ついでに言えば、この豪邸は、時の総理大臣・伊藤博文から贈られたもので、総ヒノキ造りで100坪の総二階建てだった。
73歳。病名は、慢性腎臓炎。
(参考:松本逸也 著 『幕末漂流』 1993年4月初版発行 (株)人間と歴史社)
(令和元年10月19日 追記)
グラバーの墓 (長崎県長崎市・坂本国際墓地) トーマス、ブレーキ、グラバ之墓 明治44年12月16日歿行年73歳 妻 ツル 明治32年3月23日歿行年49歳 (平成20年11月22日) |
グラバー家墓地 (長崎県長崎市・坂本国際墓地) (平成20年11月22日) |
市指定史跡 グラバー家墓地
指定年月日 平成16年6月3日
所在地 長崎市坂本町 坂本国際墓地
所有者 長崎市
トーマス・ブレイク・グラバーは、明治44年(1911)12月16日、東京麻布の自邸で死去した。
遺体は荼毘だびに付されたのち、長崎での葬儀が同年12月に行われた。
現在の墓碑が完成したのは翌年8月のことらしい。
ここにはグラバーの遺骨に加えて、明治32年(1899)に太平寺に葬られた妻ツルの分骨も合葬されている。
その隣には「倉場家之墓」と刻された墓碑が建っており、昭和18年(1943年)に死去した息子富三郎の妻ワカと、第二次世界大戦終結直後の昭和20年8月26日に自死した富三郎が埋葬されている。
グラバー父子の生涯は、日本の近代化と密接な関係を有している。
墓地の管理と保存は、長崎の地域史だけでなく幕末維新史、日本近代産業史からも意義あることである。
長崎市教育委員会(平成17年3月設置)
(説明板より)
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