萩城 はぎじょう

(別称:指月城)

山口県萩市堀内


萩城跡 平成15年7月26日

萩築城の由来と構造

慶長5年、毛利氏は関ヶ原の戦いに敗れた結果中国地8か国の領地を削られ周防、長門(現在の山口県)2か国36万9千余石の領主に移封されました。
そこで輝元は居城として防府、山口、萩の3か所を候補地として徳川幕府の意向を伺い、萩指月山麓に築城することになりました。
慶長9年(1604)着工、同13年竣工。
これにより文久3年(1863)第13代藩主敬親が藩府を山口に移転するまでの260年間、政治の中心地でありました。
明治7年天守閣、居館を解体しました。
萩城は平山城の形式に属し阿武川デルタの根元を横断し外堀とし、その外を城下町とし内を城郭とした。
外堀の内に三の丸を置き、中堀を掘って二の丸を設け、二の丸の内側に内堀をめぐらして本丸を指月山麓に構えた。
さらに指月山頂には詰丸を設けている。

(入場券の説明文より)


国指定史跡萩城跡

所在地 萩市大字堀内字旧城
指定年月日 昭和26年6月9日

萩城は関ヶ原の役後毛利輝元が慶長9年(1604)築城に着手し4年後の同13年(1608)に至って完成したものである。
萩市内の西北隅、指月山(標高143メートル)の麓に位置し山名をとって指月城とも呼ばれた。
山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。
当時輝元は隠居していたがその子、初代藩主秀就が幼少のため、築城後も政務を執っていた。
以後代を重ねること、十三代敬親に至って幕末多端な国事を処理するに不便なため文久3年(1863)4月山口に移った。
ついで明治7年(1874)建物の全てが解体された。
本丸には高さ14、5メートルの五層の天守閣があったが、今はその台座のみ残っている。
周囲には石塁を築き内部には藩主の居館ならびに藩役所と附属建物があった。
この城は259年間防長両国政治の中心であり明治維新に大きな役割を果たした重要拠点でもあった。

萩市教育委員会

(説明板より)

天守閣跡



天守閣跡






(平成15年7月26日)
天守閣跡 天守閣跡

天守閣古写真 説明板より

萩城天守閣

萩城は、関ヶ原の役に敗れた毛利輝元が防長二州・36万石の居城として、慶長9年(1604年)工を起こし同13年(1608年)完工した。
桃山初期の形式を示す。
白亜五層の天守閣は高さ8間(14.4米)初層は東西11間(19.8米)南北9間(16.2米)、最上層は東西3間半(6.3米)南北3間(5.4米)である。
初層は、石垣前面にわたって半間を張り出し俯射装置になっていた。
明治7年(1874年)解体まで270年間毛利氏13代にわたり萩城の象徴として威容を誇っていた。
この写真は明治初期萩の小野為八が撮影したものといわれる。

(説明板より)


指月山の山道 詰丸跡に向かう指月山の登山道

前日までの雨のため道は少々ぬかるんでいました。
土は粘土質。滑りやすいので、ゆっくり歩いたら頂上まで40分もかかってしまったのであります。
萩城跡には行く人がいても、山頂まで行く人はなし。
急坂をテクテク一人で登りました。心細いこと・・・・
出迎えは蚊の大軍!守りは堅い(?)

(平成15年7月26日)
写真で見ると大した事ないように見えると思いますけど、実際はすごい急斜面です。
この山道の中で”手すり”があるのはここだけですが、この”てすり”がなかったら怖くて途中で引き返したかも・・・
指月山の山道

詰丸跡(国指定史跡萩城跡の一部)

萩城は、山の名をとって指月城とも呼ばれ、ふもとの平城とあわせ山頂に詰丸を設け、せまいながら本丸・二の丸を置いて陸と海とを監視するため、矢倉数箇所・天水溜二箇所などをもつ望楼であった。
昭和41年度に山口県の補助をうけ、市民の憩いの場として整備され、登山道約730メートル、所要時間約20分で詰丸跡に達します。

指月山(国指定天然記念物)

今から約300年前から、お城山と呼ばれていたこの指月山城は、犯しがたいものとして人手を加えられないままに、樹木は成長し現在ではうっそうと木木は茂り、美しい森林となっています。
シイ・タブノキなどの常緑かつ葉樹が最も多く、落葉樹もまざり、ふもとの海岸には黒松林があって、この附近ではめずらしい原生林であります。

指月山のミカドアゲハ(萩市指定文化財)

ミカドアゲハは南方産の蝶であって指月山では昭和32年にはじめて発見されました。
現在わが国における本種分布の北限地であります。
捕らえないように保護しましょう

萩市教育委員会

(登山道入口の説明板より)


詰丸の図 詰丸

萩城詰丸跡

ここ、指月山の山頂(標高143メートル)は当時まわりを石垣で囲み、その区域を詰丸つめまるまたは要害ようがいといい戦時に最後の籠城ろうじょうをするところであるが、平時は6・7名の要害番が泊りこみ陸と海を監視していた。
詰丸は、東側の本丸と西側の二の丸とに分かれており、間には石垣と塀があって、門で連絡をしていた。
本丸は、東西24間(43.2メートル)、南北20間(36メートル)で、藩主の初入国はつにゅうこくあるいは幕府の巡見使の登山時に使用する休憩用の茶屋があった。
二の丸は、東西19間(34.2メートル)南北20間(36メートル)で、監視所としての要害番所と要害番中間の居小屋があった。
周囲は、一丈(3.03メートル)以上の高さの石垣の上に、鉄砲狭間さまを施した白亜の土塀をめぐらし、要所に矢倉やぐら5か所、二階倉にかいぐら2か所を配置していた。
また詰丸には、井戸がなかったので、本丸の大岩の傍らに貯水池、二の丸に用水槽を設置し、水を確保したが現在もその遺構がみられる。

(説明板より)

門跡



詰丸の門跡





(平成15年7月26日)
二の丸跡から見た要害門櫓跡附近 要害門櫓跡
貯水池 貯水池
二の丸から本丸を見る 二の丸跡から見た本丸跡

萩城の模型 萩城の模型

旧厚狭毛利家屋敷長屋

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

(開館時間:午前9時〜午後5時)


ここに萩城の模型が展示されていました。



(平成15年7月26日)
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋きゅう・あさもうりけ・はぎやしきながや

厚狭毛利家は、毛利元就の五男元秋を始祖とする毛利氏の一門である。
総石高8371石余のうち、主として厚狭(現在、山口県厚狭郡山陽町)に知行地を持ち、ここに居館を構えていたので、厚狭毛利家と呼ばれた。

厚狭毛利家の萩の本屋敷は、萩城の大手門の南100メートルの要地にあり、面積1万5500平方メートル(約4700坪)の広大なものであった。
屋敷の中にあった主屋や庭園などは、明治維新前後に解体されてこの長屋のみが残った。

この長屋は昭和41年(1966)6月に国の重要文化財に指定され、翌42年7月から解体修理に着手し、43年11月に完成した。
解体修理の際に発見された棟札によると、10代元教(のち元美)の代、安政3年(1856)5月に建てられたものである。
用材はすべて領地の厚狭で調達され、切り込みを施したうえ記号と番号をつけて、海路萩まで送ってきたといわれる。

桁行51.5メートル、梁間5.0メートルの長大な構造で、現在萩市内に残っている武家屋敷長屋の中で最も大きい。
屋根は入母屋造り本瓦葺きで、出格子5か所、格子窓6か所を設けている。
内部は東の座敷(部屋数10)、中の座敷(部屋数6)、物置(土間、二階造り)、西の座敷(部屋数3)および板の間の5つのブロックに分かれている。
各座敷は、厚狭毛利家の家臣たちの詰所になっていたものと思われる。
また、西の端にある板の間は中間部屋で、昭和43年の解体修理の際に復元された。

萩市内には、武家屋敷の長屋や長屋門がいくつか残っているが、いずれも江戸時代末期のものである。
その中でも、この長屋は建築年代のはっきりした貴重なものである。

また入口の門は、修復に際して新しく作られたもので、当時は土塀が続いていたものと考えられる。

(パンフレットより)
萩史料館


萩史料館
(萩市堀内)

入館料:無料



(平成15年7月26日)
萩史料館内部

館内は撮影禁止ですが、特別に許可を頂いて館内の雰囲気を撮影させていただきました。
萩史料館内部

萩城の1/6の模型


萩城の1/6の模型

東萩駅前にあります。
(社)萩青年会議所が寄贈したものです。



(平成15年7月27日)

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