浜野弥四郎像 平成21年11月8日

浜野弥四郎 はまの・やしろう

明治2年9月9日(1869年10月13日)〜昭和7年(1932年)12月30日

岩手県奥州市水沢区・後藤新平記念館でお会いしました。


浜野弥四郎像



浜野弥四郎像
(岩手県奥州市水沢区・後藤新平記念館)





(平成21年11月8日)

技師 浜野弥四郎 (明治2年生 昭和7年歿)

浜野弥四郎は千葉縣佐倉人である。
明治29年7月、帝国大学工科大学土木工学科を卒業すると共に恩師バルトンに従い台湾に渡り、総督府に奉職した。
爾来、大正8年4月に辞職するまでの23載を通じ、都市の醫師として、同地の衛生施設の計畫と建設に尽力した。
就中、台南水道の策計は最も心血を注いだ事業で、十一星霜の歳月を経て完成された。
ここに至って瘴癘の地は楽土と化し、台湾の近代化はその礎が築かれたのである。
台南が事業発祥の地である奇美文化基金会は、技師の偉業を称え、創業者許文龍自らの手によって、創作された粘土原型から鋳造した銅像を贈呈し、併せて技師の偉業を誌す。

奇美文化基金会
2008年6月吉日

(説明板より)

後藤新平記念館



後藤新平記念館
(岩手県奥州市水沢区大手町4−1)





(平成21年11月8日)

浜野弥四郎略年表
1869(明治 2)年 9月9日、成田市寺台村(現・成田市寺台)で生まれる
1876(明治 9)年 成田小学校入学
1882(明治15)年 2月、千葉中学校入学
1886(明治19)年 2月15日、千葉中学初等科卒業
8月、コレラに罹り、浜野病院の院長・浜野昇と出会う
1888(明治21)年 11月13日、浜野昇の養子入籍
浜野弥四郎となる
1890(明治23)年 7月、第一高等中学校の予科を卒業
本科1年に進む
1893(明治26)年 9月、東京帝国大学工科大学の土木工学科に入学
1895(明治28)年 11月11日、浜野昇の打診により台湾へ渡ることを決める
1896(明治29)年 正月、久米(浜野昇の妻、澄の妹)と婚約
3月下旬、内務省衛生局にて後藤新平と出会う
7月10日、工科大学土木工学科を卒業
8月1日、バルトンと共に台湾へ出発
8月5日、台湾到着
(水道敷設のために台北、台中、基隆を調査)
9月3日、高等官六等、民政局技師に任官
9月4日、バルトンと共に調査報告書を提出
9月5日、基隆を後に日本に向かう
10月末頃、久米と共に台北に戻る
1897(明治30)年 2月頃、バルトンと共にシンガポールへ向かう
3月、台北に戻る
7月、バルトンと共に南部諸都市の調査行に出発
1899(明治32)年 8月5日、恩師バルトンが亡くなる
1907(明治40)年 春、欧米の水道視察を命じられ、世界一周の旅に出る
1908(明治41)年 第5回上水協議会総会で協議会機関誌の発行を主張
1909(明治42)年 第6回総会にて機関誌発行の代案として
大日本私立衛生会雑誌に上水コーナーを設けてもらう提案を行う
1911(明治44)年 第8回総会にて水道鉄管に関する英国人の講演の通訳を行う
1918(大正 7)年 自ら生涯をかけた台湾の水道事業誌を
総会に間に合うように発行することを決意
1919(大正 8)年 台湾を去り、神戸市の技師長に就任
1932(昭和 7)年 12月30日 他界
1940(昭和15)年 11月、日本水道協会の物故功労者に
バルトンと共に選ばれる(全15人のうち)

(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年1月 第1刷発行)

【浜野弥四郎とバルトン】

浜野とバルトンの課題は、この都市(台北)に住む人々に水という側面で、健康にして安全かる快適な生活を提供する計画を提示することである。
堤防もなく、汚物は至る所に野積みされている。
もし洪水が起これば、汚物は移動し拡散し、あらゆる場所を汚染する。
飲料用井戸も例外ではない。
二人が、まず最初に直面した問題は、人口等の統計資料も測量図も降雨記録も河川の流量や水位も洪水の記録も、ともかくあらゆる基礎資料が全く無いか、あるいは極めて不完全だという現実であった。
バルトンと弥四郎は、台北市街を隅々まで歩き回り、昔から住んでいる住民に水の使い方、使う量、河の水位、大雨の時の水位がどこまで上がってくるのか、と様々な事実を聞き取り、建物にかすかに残された洪水の痕跡を調べた。
さらには、主要地点を測量し、水量を計測し、河の水位を確かめたのである。
計画を立てるにあたって、実現可能性と経済性、地域性を尊重し、極めて現実的な判断を行っている。
例えば、台湾の首都台北市に於いてさえ、高圧式のいわゆる近代水道の採用を適当とは認めていないのである。
適当としたのは、従来から使用されていた鑽井さんせいの拡充とその合理化である。

調査を進める過程で多量の水が無駄に放流されていることが実感として分かってきた。
特に夜間流されている水を貯水し必要な時に使えるようにすること、鑽井の数を増やし配置をなるべく等間隔にすること、市内各所に共用給水栓を設けることなどによって台北は当分の間、水に困ることはないという結論が次第に見えてきた。
二人は必要な鑽井の数、貯水槽の規模と構造、水道管の直径、水槽の維持管理、鉄材の購入の可能性、経費の見積もりまで事細かに試算した。

こうして給水設計にある程度の目処がつくと、休む間もなく排水計画の調査に入った。
城内は周囲を堅固な城壁で囲まれ、淡水河が氾濫しても城門を堅く閉ざせば城の中に絶対に洪水が入らなかった。
逆に城の内側の雨水が問題で、城壁の内側に深い掘を設け、その中に雨水を溜める計画があった。
この計画は二人の渡台前に立てられたものであった。
二人は、この計画に対し、堀がマラリアの巣窟となると反対し、むしろポンプを用いて溜まった雨水を城外に排水すべきだとして、城内に対するポンプの採用と排水用半円形管の使用を提案した。
半円形の管の採用は、汚濁物を流し去る能力が矩形等よりも高いためである。
二人は衛生の観点から雨水を見るという視点が徹底していた。

弥四郎とバルトンは、その後、台中や基隆にも調査に出かけた。
これまでの調査報告書を提出すると、二人は日本に一時帰国した。
台北を本拠地として暮らすため、弥四郎は妻の久米、バルトンは妻の満津と娘の多満お迎えに行ったのである。
そのころ、台北ではペスト患者が出て、人々の不安をあおる騒動が起きている。
家族を連れて台北へ戻ると、二人は再び調査に没頭した。
熱帯・亜熱帯に適した衛生工事とはいかなるものかを考えようと、シンガポールや清国沿岸の居留地を視察したりもした。

明治30年(1897年)7月、二人は、台南、安平、鳳山ほうざん、旧城、打狗ターカウ(高雄)、嘉義かぎ、澎湖島ほうことうの馬公まこうなどの南部諸都市を調査した。

明治32年2月26日、児玉源太郎が第4代台湾総督になると、後藤新平が民政局長に就任して台湾にやってきた。
親交のあった後藤がやってきたのをバルトンは喜んだ。
後藤の大風呂敷は有名だが、台湾でも遺憾なくその気風は発揮された。
後藤は二人の意見に対してさらに積極策を講じようとしたので、この積極方針を知った二人は本格的な近代水道の設計に入る決意を固めた。

明治32年3月、台湾でのバルトンの仕事は基礎段階としては区切りがついたので、バルトンは後藤に帰国の意を伝えた。
バルトンは帰国準備のため妻子と共に日本に向かう。
7月下旬、バルトン一家は台湾を後にしたが、苛酷な調査はバルトンの体を蝕んでいたようで、8月5日にこの世を去った。

弥四郎はバルトン亡き後、台湾の上下水道事業の責任を担った。
主要都市の上下水道、特に上水道はほとんど全て、浜野弥四郎の手によって完成した。
しかし、弥四郎という人は、あくまで謙虚で、師であるバルトンの功績は語り伝えようとしたが、自分の手柄は声高に言うようなことはなかった。

弥四郎は、バルトンの没後、バルトンと共に第一歩を印した時から通算すると、23年間、台湾に踏みとどまった。
そして台南の上水道の完成を見て台湾を去り、先輩の佐藤藤次郎の計らいで神戸市の技師長に就任した。

弥四郎の指導を受けた人物として忘れることができないのは、八田與一と高橋甚也じんやである。
弥四郎は二人に大きな影響を与えた。

【台北の上水道】

台北の本格的な上水道は、明治36年になってバルトンの水源選定案を踏襲して、設計が進められた。
日露戦争の勃発で一時中断の憂き目にあい、ようやく明治40年になって着手し、明治42年7月に竣工した。
ここにバルトンの努力は、見事に結実したのである。

【妻・久米と家族】

在台23年の弥四郎と久米の苦労、特に久米の苦労は筆舌に尽くしがたいものであった。
二人は三男三女をもうけたが、長女は幼くして井戸にはまり溺死した。
長男もまた脳膜炎の侵すところとなり、幸薄い生涯を送った。
久米は次々に訪れる不幸にじっと耐えて弥四郎を支え続けた。
明治40年の春、弥四郎は欧米の水道視察を命じられ、世界一周の旅に出た。
久米は、およそ1年の間、子どもたちと共に家を守り、ひたすら弥四郎の帰国を待ち続けた。

弥四郎は昭和7年12月20日に没した。
彼こそ衛生工学を生涯の仕事とした最初の都市の“医師”であったが、その生涯は忍耐と努力の道であった。
弥四郎が亡くなって8年後の昭和15年に、水道協会は水道条例50周年を記念して物故功労者慰霊祭を挙行した。
この時、物故功労者の遺族の一人として弥四郎の次男である浜野秀雄を招き、生前の功績に報いた。
その5年後、昭和20年3月10日の東京大空襲は、浜野秀雄氏を除く弥四郎の遺族をすべてこの世から奪った。
平成元年3月、浜野秀雄氏は85歳で逝去された。

(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年1月 第1刷発行)

(令和元年7月13日 追記)




 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送