長谷川泰 はせがわ・たい

天保13年6月(1842年7月)〜明治45年(1912年)3月11日


越後国生まれ。
佐倉の順天堂に入り、のち松本良順に従って医学所に学んだ。
明治2年(1869年)大学東校の少助教となる。
明治9年(1876年)東京本郷に医術開業試験受験生のために済生学舎を開校し、明治36年(1903年)に廃校となるまでに、当時の西洋医の半数の9,000人を育成し医学教育に貢献した。


済生学舎発祥の地



済生学舎発祥の地
(東京都文京区本郷2−7−8)





(平成20年6月13日)

済生学舎発祥之地

明治9年(1876)4月9日、この地に、医学者・長谷川泰たい(1842〜1912)によって、「済生学舎」が開校した。
済生=“広く民衆の病苦を済すくう”この願いを込めて、医術開業試験(当時)の予備教育を目ざして創立された学舎に、西洋医学を志す優れた学徒が多数集まった。
明治12年冬、火災により校舎を失い、学舎長の自宅(現本郷2−7−8)とその隣地に移転、明治15年、現在の湯島2丁目(ガーデンパレスの地)に、本格的校舎を建設し、附属蘇門そもん病院及び薬学部を付設して、「東京医学専門学校済生学舎」と称した。
かくして、学舎は隆盛の一途をたどったが、事情あって、明治36年(1903)8月31日、創設者・長谷川泰みずから廃校を布告して、28年間の歴史を閉じた。
その間、2万1千余の男女学生が学び、9千6百余の医師を輩出し、わが国黎明期の医学振興、地域医療に果たした役割は極めて大きい。
「済生学舎」の廃校直後から、これを惜しむ教師・学生達によって、いくつかの医学講習会が設けられたが、その一つを母体にして明治37年4月、「私立日本医学校」が設立され、現在の「日本医科大学」(千駄木1丁目)へと発展し、済生学舎教育の精神は受け継がれていった。
また、学舎ゆかりの「東京女子医科大学」、「東京医科大学」も、それぞれの道を歩み発展していった。

東京都文京区教育委員会
昭和63年3月

(説明板より)


長谷川泰

新潟県生まれ。
21歳の時に千葉県佐倉で、順天堂大学の創始者であり、我が国の医学界で重要な役割を果たした佐藤尚中に学んだ。
更に25歳の時、江戸に出て、幕府の西洋医学所で将軍家奥医師の法眼・松本良順に学んで、明治新政府誕生後、医学所改め医学校の学校長となった。
明治7年(1874年)には、長崎医学校長となる。
ところが、長崎医学校長に就任したその年の10月にその医学校は政府の方針で突然、廃校となってしまった。
明治新政府の開国後の医学行政は、佐藤尚中や松本良順など旧幕府時代の医学界の重鎮の声を聞く一方、ドイツ人やオランダ人の医師の声も聞き、そこへ生臭い学閥の利害も絡むといった具合に複雑そのものであった。
廃校で医学校長の職が消えるやいなや、その2ヶ月後に上京して、さっさと西洋医学養成学校をつくってしまった。
彼が済生学舎を創立したのは、1875年12月17日のことである。
明治人の行動は素早い。
もたもたしていない。
痛快なのは、長崎医学校が廃校になった時、無断で貴重な医薬品、図書等を私立の東京医学校に持ち帰って渡すなどの手早い対応。
「廃校したところに放っておくのは非常に無駄なこと」と判断しての行動である。

済生学舎

済生学舎は東京・本郷の長谷川の私邸の敷地内に新築した。
住所は本郷元町1丁目6番で、元本郷貯水場あたりにあった。
この校舎は後に火災で焼失してしまい、湯島に移転した。
済生学舎は、長谷川が明治政府の打ち出した新医学制度のもとにおける欠点、すなわち正規の医学教育を受けたのでは長い年月と多くの費用がかかるという欠点に加えて、西洋医の極度に足りないという現状に対してもっとも効果的に、いいかえるならば、促成栽培方式の西洋医生産策で、医者を手っ取り早く補うために、入学試験もなし、資格も問わず、ただただ医師開業試験の予備校としての性格に徹した西洋医学養成校として創立された。
明らかに明治政府の新医学制度に不満をあらわにした医学校の創立であった。
済生学舎の創立も意図も激烈なものだけに、講義の内容もまた目をむくものがある。
講義は朝5時から始まり、夜の9時まで随時行なわれた。
在籍の努力家は、3学年分を1年で修学し、開業試験を受けて通るものもあった。

長谷川泰 VS 森鴎外
破天荒ともいえる、今流コンビニエンス方式の西洋医養成学校は、自由・放任主義の学風を見事にあらわしており、こうした姿勢が済生学舎を繁盛させた。
当然の如く、こうした済生学舎の西洋医養成に対して反発、批判するところがでた。
その最強硬派が東京帝大で、同大学を中心とする大学派に強い攻撃を受けた。
その先頭に立って攻撃を加えたのが、後に内科学の大家となり東京帝大医学部教授、そして伝染病研究所長を務め癌研究会を設立した青山胤通であり、もう一人は、ドイツ・ベルリン大学医学部に留学し、陸軍軍医として最高位の陸軍軍医監、そして陸軍省医務局長にまでのぼりつめ、また著名な作家としても名を馳せた森鴎外であった。
青山、森らは、彼等が編集する医学雑誌の『医事新論』(第4号、明治23年3月)に掲載した「日本医育論」で、済生学舎の教育の欠点を突いた。
済生学舎のありとあらゆること、つまり済生学舎の今ある姿はことごとく悪い状態であり、これをただちに改めよ、月謝にしろ、掛け持ち講師の問題にしても、お粗末すぎると指摘し、その悪習・悪弊をただちに改めよと警告。
それができなければ野蛮人として滅ぼしてしまうぞと恫喝した。
西洋医学の主流、それも国策に沿っての医学教育でもって、日本の医学・医療の世界を造り上げようとしていた森鴎外の目には、幕府医師団の流れを汲んで来たような長谷川泰の存在が煩わしかったのではないか。
長谷川が旧権威派の枠からはみ出し、現実の動きを敏感に掴んで西洋医学の普及に燃えるのに対して、森は国策にどっかと腰を据えて時代の先に目を向け西洋医学を身につけ、それを普及しようとしていた。
いうなれば、陰極と陽極が同じ目的でもって正面衝突したといえる。
森鴎外この時、38歳である。

森、青山らの批判、攻撃に対して、長谷川は抵抗し続け、促成栽培的に西洋医の大量生産を続けた。
また文部省も済生学舎への」攻撃・批判を強めていった。
済生学舎は文部省が出した医学校通則、不完全な教育をする府県立の医学校の廃校、その他、大日本医会が提出した医師法案を巡る大学派との抗争、およびやがてくる医術開業試験の廃止等々の問題に直面した。
校長である長谷川泰にまさにこれでもかといった具合に大学派と文部省の波状攻撃が続いた。
かくて彼は、1902年8月31日、突然、済生学舎を閉鎖してしまった。
突然の廃校に在籍者、関係者は、八方手をつくして長谷川に廃校を思い留まるよう説き伏せたが、頑として聞かず、これを限りに済生学舎はそれこそ忽然と消えた。
彼は、「政府の出方が気に食わない」との一存で、一晩のうちに廃校の方針を決め、実行したのである。
勝海舟に慕われた幕末の武断派・行動派といわれる傑物・松本良順に学んだ長谷川らしい素早い決断、断固たる決断である。

済生学舎の開校から廃校までの間の在籍者、試験合格者、医師になったものの数は明確ではない。
しかし、「入学者2万1400名、うち医師になったもの9600名といわれている」と、日本医大80周年記念誌に記載されている。
いずれにしても膨大な数の医師を送りだしている。
明治39年(1906年)、医師法が制定されて、任意設立の医師会が各地に出来た時、幹部の大多数に済生学舎出身者があったということで、「こうした多数の医師を世に送った功績は大きい」と同記念誌は結んでいる。

(参考:舘澤貢次著 『大戦秘史・リーツェンの桜』 ぱる出版 1999年2刷発行)

(平成22年9月22日追記)




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