長谷川利行 はせがわ・としゆき

明治24年(1891年)7月9日~昭和15年(1940年)10月12日


大正・昭和前期の洋画家。
京都市出身。
独学で絵を制作。
昭和2年(1927年)二科展で『麦酒室』が樗牛賞を受賞。
小説・詩・短歌もよくする。
放浪癖と無頼性から最後は行路病者として施設で死去した。






利行碑

東京都台東区上野公園・不忍池弁天島)




(平成23年3月10日)

長谷川利行
放浪の画家・日本のゴッホ

1891年(明治24)  7月9日 京都に生まれる。
1921年(大正10)  上京・博文館にて生田蝶介を知り小説を発表。岩田専太郎、矢野文夫を知る。
1923年(大正12)  関東大震災起こる。震災を歌った歌集「火岸」を発行、京都に帰る。
1926年(大正15)  再び上京、日暮里の寺に住む。第7回帝展に「廃道」入選。
  第13回二科展に「田畑変電所」初入選。
1927年(昭和 2)  第14回二科展に「酒売場」「麦酒室」「鉄管のある工場」入選、樗牛賞を受賞。
1928年(昭和 3)  里見勝蔵・藤川栄子・靉光・井上長三郎・麻生三郎・吉井忠・寺田政明等後の自由美術家協会の画家達を知る。
1932年(昭和 7)  浅草今戸に仮住まい。浅草・千住・三河島・荒川放水路界隈を放浪す。天城俊彦(高崎正男)を知る。
1936年(昭和11)  新宿・天城画廊で個展5回開催する。
1937年(昭和12)  伊豆大島に遊ぶ。天城画廊で個展10回、喫茶店「エルテル」等で数回開催。二科展を去る。
1939年(昭和14)  胃潰瘍に苦しむ。千葉県太海・勝浦に写生旅行。
1940年(昭和15)  三河島救世軍宿泊所に住む。
  5月17日、三河島駅付近の路上で倒れ、行路病者として東京市立養育院板橋本院に収容される。
  10月12日胃癌で死去、満49歳。遺品箱(絵も含む)すべて焼却される。
1969年(昭和44)  熊谷守一先生・洋画家揮毫の「長谷川利行碑」、有島生馬先生・洋画家揮毫の歌碑が台東区不忍池弁天島に建立さる。
  10月15日羽黒洞主催の除幕式行われる。
  正像院利行日描居士   羽黒洞主催遺作展数回開催

「養育院第五病室ニ胃ノ手術デ居リマス。午前中ニ一度ミニ来テ下サイ。詩集一冊下サイ。午後三時頃デモ何時デモヨロシイノデス。(至急来テクレナイト死亡スル、動ケナイノデス)。市電板橋終点ヨリ二丁ホドノ処デス。何カ見学ニナルデシヤウ。氷サトウ、ゴマ塩一ケ忘レズニ持ッテ来テ下サイ。オ願ヒシマス。何カ甘イ菓子一折リ下サイ。死別トシテ。」

   矢野文夫宛
                      長谷川利行  出

昭和15年10月12日 満49才没

    人知れず 朽ちも果つべき身一つの
  いまがいとほし 涙拭わず
    己が身の影もとどめず 水すまし
  河の流れを 光てすべる

        利行短歌

(説明板より)





弁天堂

(東京都台東区上野公園2-50・不忍池弁天島)




(平成23年3月10日)

弁天堂

台東区上野公園2番

寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。
不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島ちくぶじまに因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷みずのや勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺ほうごんじの大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。
当初、弁天島へは小舟で渡っていたが、寛文年間(1661~72)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。
弁天堂は、昭和20年の空襲で焼失し、昭和33年9月に再建された。
弁天堂本尊は、慈覚大師と伝えられる八臂はっぴの大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。
本堂天井には、児玉希望こだまきぼう画伯による「金竜」の図が描かれている。
また、本堂前、手水鉢の天井に、天保3年(1832)と銘のある谷文晁による「水墨の竜」を見ることができる。
大祭は、9月の巳の日で巳成金みなるがねという。

平成10年3月
台東区教育委員会

(説明板より)




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