平成24年6月3日再訪問

支倉常長 はせくら・つねなが

元亀2年(1571年)〜元和8年7月1日(1622年8月7日)

宮城県仙台市・仙台城でお会いしました。


父は山口常成。
伯父・支倉時正の養子。
慶長18年(1613年)スペインとの通商を望む仙台藩主・伊達政宗の命により、フランシスコ会宣教師ソテーロと共に陸奥国牡鹿郡月浦を出帆。
メキシコを経てマドリードに至り、スペイン国王フェリペ3世に謁見して、政宗の書状を呈したが、通商交渉は成功しなかった。
同地で受洗。
さらにローマに向かい、教皇パウロ5世に謁見して政宗の書状を呈し、ローマ市民権を与えられた。
元和6年(1620年)仙台に帰着したが、すでに仙台藩領でもキリシタン禁制が実施されており、不遇のうちに没したといわれる。


支倉常長像 平成21年11月9日

支倉常長像

支倉常長像
(宮城県仙台市・仙台城跡)

制作 佐藤忠良
題字 支倉常長顕彰会長・仙台市長 島野 武
施工 現代彫刻センター
建立 昭和47年11月13日


(平成21年11月9日)

碑文

支倉常長は藩祖伊達政宗の使節として、慶長18年 月ノ浦を出帆し太平洋・大西洋を横断 ローマに至り教皇パウロ5世に謁見した
この間8年の歳月を費し 幾多の苦難を乗り越え よくその使命を果たした
当時としては誠に国際的な偉業であった
昭和46年 常長の生誕400年を迎えこれを顕彰する為 ゆかり深いこの地に銅像を建立する

昭和47年11月13日
創刊75周年記念 河北新報社
生誕400年記念 支倉常長顕彰会




支倉常長像
(宮城県仙台市・仙台城跡)



(平成24年6月3日再訪問)

支倉常長の碑



支倉常長の碑
(宮城県仙台市・仙台市博物館)





(平成21年11月9日)

遣欧使節 支倉常長の碑

常長通称六右衛門・仙台藩祖伊達政宗卿使節として慶長18年(1613)9月15日仙台藩建造のサン・ファン・バプチスタ号に乗じ牡鹿郡月ノ浦を出帆。
メキシコ・イスパニヤを経て元和元年(1615)9月3日ローマに至り法王パオロ5世に謁し使命を遂げ。
同6年8月26日帰国。
同8年7月1日歿した。
年52。

(碑文より)

レリーフ レリーフ

碑文

1615年9月12日サン・ピエトロ宮ニ於テローマ法王パオロ5世ニ伊達政宗卿書状ヲ奉呈スル支倉常長
東洋文庫復刻アマチ著日本奥州国伊達政宗記並使節紀行挿図ニヨル
1961年5月例会100回記念
仙台ライオンズクラブ


サン・ピエトロ大聖堂



サン・ピエトロ大聖堂
(ローマ・ヴァチカン)





(平成18年12月9日)

【マニラの支倉常長】

仙台藩主・伊達政宗は、元マニラ在住の日本在留スペイン人宣教師、ルイス・ソテーロらの協力と徳川幕府の許しを得て、1613年(慶長18年)10月、メキシコ、スペイン、ローマに総勢180余名(150余名との説もあり)からなる日本初の大型使節団を送った。
伊達政宗はソテーロと家臣・支倉常長を使節に任じた。
常長は文禄の役の際、朝鮮に赴いて航海と異国滞在の経験をあわせもち、優れた交渉能力を有していた。

伊達政宗の命を受けた両名が率いる使節団一行は、サンファン・バウチスタ号(500トン)で月の浦港(宮城県石巻市東南約12キロ)を出発後、メキシコのアカプルコ経由でスペインに赴いた。
スペインに到着した一行はフィリップ三世の歓待を受けた後、ローマに赴いてローマ法王に謁見し、その後再びスペインに立ち寄り、メキシコ経由で帰国の途につく。

メキシコよりの帰国途次、支倉常長は伊達政宗がアカプルコに待機させていた日本船サンファン・バウチスタ号でフィリピンのルソン島に立ち寄り、1618年8月にルソン島中部のカビテに入港した。
このバウチスタ号は、日本人の手で初めて建造された500トンの巨大な洋式帆船であった。
ルソンの新総督に就任したドン・アロンソ・ファーハルドは、カビテよりマニラにスペイン兵士を輸送したいとして、バウチスタ号のマニラ立ち寄りを常長に要請し、常長の了承を得て、自分自身および兵士を同乗させてマニラに赴いた。
常長はマニラに立ち寄った時に、イントラムロスのフランシスカ寺院にその滞留地記念標を建立した。

ファーハルド総督はマニラ着任後、オランダ軍によるマニラ来襲が予想されたため、急遽、艦隊を編成すると共に、日本船バウチスタ号の性能のよさに着目し、損害を受けた場合の賠償を条件に常長より借り受けて艦隊に編入した。
ファーハルド総督は、その後、常長らの強い抵抗にもかかわらずバウチスタ号を買い取り、1619年9月のオランダ軍との戦争に投入した。

この戦争で敗北を喫したスペイン側は一時的に制海権をオランダに奪われ、日本への安全な航海が難しくなった。
加えて、6月〜7月の日本行きの追い風の季節が過ぎてしまったため、帰国を一日千秋の思いで待っていた常長は、さらに1年を待つこととなった。
当時、日本、ルソン間の交通は、10月末から3月の風を利用して日本人がマニラに赴き、6月から7月の南西風の時期に日本に帰っていたのである。
常長はマニラ滞在中はディオラ地区(「ディオラ」とはスペイン語で黄色の意)に居住したと思われるが、常長のマニラ滞在については確たる史料はない。
常長自身の手によるものは、ルソンから子息にあてた書簡1通のみである。

常長はマニラに2年間滞在の後、1620年8月にようやくマニラを経ち、長崎経由で月の浦港に帰って来た。
常長はスペインとの通商開始という当初の目的を果たせず、失意のうちに帰国したわけだが、『日本の太平洋横断のパイオニア』とされている。

(参考:佐藤虎男・著 『フィリピンと日本』 サイマル出版会 1994年9月初版)

(平成25年5月29日追記)




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