橋本左内 はしもと・さない

天保5年3月11日(1834年4月19日)〜安政6年10月7日(1859年11月1日)


福井藩医の長男。
名は綱紀、通称は左内。
大坂の適々斎塾で医学を修得。
藩命による江戸遊学中、西郷隆盛藤田東湖らと交わる。
福井藩藩政改革の中心として横井小楠しょうなんを招き、開国貿易・殖産興業・軍備強化などを目指した改革を行なった。
将軍徳川家定の継嗣問題では、藩主松平慶永よしながの意を受けて一橋慶喜擁立のため活動した。
そのため安政の大獄で慶永が処罰されると、共に謹慎処分を受け、安政6年(1859年)江戸で斬首された。
享年26歳。


橋本左内寓居跡



橋本左内寓居跡
(京都市中京区堀川通二条城前・京都国際ホテル)





(平成19年3月17日)

橋本左内寓居跡

橋本左内さないは福井藩士で幕末の志士。
安政5年(1858)2月から4月まで、この地にあった福井藩邸に居住して、活躍した。
左内の号は景岳けいがく
福井城下に生まれ、大坂、江戸では洋学、医学を学び、藩主松平慶永よしながに認められて藩学明道館の幹事となった。
1857年の藩政改革には由利公正らと手腕を振るった。
折から幕府の将軍継嗣けいし問題が起こり、藩主を先頭に、一橋慶喜ひとつばしよしのぶを立てる運動を展開。
左内は藩命を帯びて江戸より京都に来て、桃井亮太郎又は桃井伊織の変名の下に、ここを根拠にして盛んに活躍した。
しかし、井伊大老の就任によってこの運動は失敗し、それのみか、左内は牢舎に入れられ、1859年安政の大獄によって死刑に処せられた。
時に年26才。

京都市

(説明板より)




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