鳩山一郎 平成15年12月22日

鳩山一郎 はとやま・いちろう

明治16年(1883年)1月1日〜昭和34年(1959年)3月7日

東京都文京区大塚5丁目 護国寺でお会いしました。


一時、父(鳩山和夫)の法律事務所で弁護士の仕事をし、東京市会議員から衆議院議員と進みました。
立憲政友会で地歩を築き、田中義一内閣の書記官長、犬養毅つよし斎藤実まこと両内閣の文相などを歴任。
大東亜戦争(太平洋戦争)中は大政翼賛会に批判的な立場を堅持しました。
戦後は日本自由党創立の中心となりますが、GHQの公職追放によりしばらく政界の第一線から退きました。
昭和26年(1951年)、公職追放解除後、反吉田茂陣営の中心となり、昭和29年から日本民主党・自民党の総裁として内閣を組織しました。
日ソ交渉を手がけ、昭和31年日ソ共同宣言に調印、国交を回復させ、同年退陣しました。


鳩山一郎・董の銅像



「友愛」の像

董夫人とご一緒に護国寺境内に建っています。

(現在は撤去されています)(平成26年)


(平成15年12月22日)

碑文

鳩山一郎先生明治16年東京都に生る
明治40年東京帝國大學英法科を卒■直ちに辯護士となり先代和夫先生の法律事務所に入る
明治45年29歳の時父君の逝去による補欠選舉に出馬して東京市會議員に當選以来大正末期まで15年間を地方自治に盡し其間副議長議長となる
同時に大正4年衆議院議員に初當選爾来国會議員在職三十有七年當選15回を数えた
この間内閣書記官長文部大臣を歴任
昭和29年12月には内閣総理大臣となり三次にわたり内閣を組織して國政を擔當した先生の政治生活はそのまゝわが國政黨史であり政治史であるが先生は戦前戦後を通じ一貫して民主主義と自由主義をもって國政の大本とする信念のもとに議會政治の確立擁護のため奮闘した
殊に終戦後いち早く政黨政治再建に奔命し昭和20年11月同志とともに日本自由黨を結成その初代総裁となる
昭和21年4月の総選舉では一躍第一黨となりまさに組閣の大命を受けようとする寸前連合國の公職追放指令を受けた
爾来5年餘を晴耕雨讀に送ったが特にクーデンホフ、カレルギーの著書共鳴自ら「自由と人生」と題して譯出しまた青年有志に友愛精神を説き同志會の創設に力をそゝいだ
昭和26年6月病に倒れ同年8月病床中に追放解除さる
翌27年再び政黨に復歸した
昭和29年11月民主黨が誕生その総裁となる
同年12月吉田内閣総辞職のあとを受け第一次鳩山内閣を組織
総選舉の結果民主黨は第一黨となり第二次鳩山内閣を樹立した
30年11月自由、民主、両黨の合同を達成
第三次鳩山内閣を組織し翌31年4月初代自由民主黨総裁に選ばれた
同年10月ソビエト社會主義共和國連邦との國交正常化を目的とする交渉のため全権として病躯をおしてモスクワに赴き復交の大業を遂げた
同年12月18日わが國の國連加盟が承認されこれを見届けて同月23日桂冠した
内には保守の大合同を完成して議會政治の基礎を固め外には國連加盟を成就しわが國の國際地歩を高め政治家としての使命を果たして引退する
先生の心■は自ら明鏡止水といわれた
自ら友愛精神を説き悠々自適の生活は遂に34年3月7日終止符を打った
享年76
正二位大勲位菊花大綬章を授かる

昭和39年10月吉日
秋本平十郎撰

※■は判読不明だった文字です。


鳩山会館 鳩山会館

この洋館は鳩山一郎が建てました。
ここで、自由党(現・自由民主党)の創設が計られました。

政友会VS民政党(統帥権干犯問題)

昭和5年のロンドン海軍軍縮条約の際、海軍の艦隊派と政友会が結びついて「統帥権干犯問題」をぶち上げた。
ロンドン海軍軍縮条約とは英・米・日・仏・伊の5カ国によりロンドンで調印された軍縮条約。
日本全権は若槻礼次郎元首相・財部彪たからべたかし海軍大臣。
財政緊縮と国際協調の立場から軍縮を主張する浜口雄幸内閣(民政党)と海軍軍令部が対立したが、最終的に条約を調印した。
これに対し、野党の政友会の犬養毅、鳩山一郎が衆議院で「軍令部の反対意見を無視して条約を締結したのは統帥権干犯である」と、浜口雄幸内閣(民政党)を責め立てた。
彼らの言う「統帥権干犯」とは、海軍の兵力量や作戦を決めるのは軍令部であって、その海軍を統帥する権利は天皇にある。それなのに勝手に政府が決めてしまうというのは天皇の統帥権を犯すというもの。
しかし、正しくは、軍艦の整備は軍令部ではなく政府の一員である海軍省の権限。
海軍省が決定すれば、天皇の承認をもらって条約を結べばよく、ロンドン軍縮条約もその手順で締結されていたので問題はない。
しかし、政友会は党利党略のため純粋な軍事問題を利用し、海軍の強硬派と手を結んで倒閣運動を展開したが、この問題の仕掛け人は海軍軍令部次長の末次信正だったと言われている。
この政友会の動きは、軍令部の不満層や右翼を刺激。
加藤寛治軍令部長が「統帥権干犯」を批判して天皇に辞表を提出、後には浜口首相狙撃事件などにつながる。
これ以降、政党政治は弱体化し、軍部が暴走を始める。

鳩山一郎は大東亜戦争後、総理就任を目前にGHQから、この時のことを追及され、軍部に協力した軍国主義者ということで公職追放となった。

(参考:『文藝春秋2007年8月号』)

(平成19年8月20日追記)


樺太工業疑惑による文相辞任

昭和9年1月中旬から時事新報が連載を開始した、帝人株売買疑惑のキャーンペンがきっかけとなり、まず2月8日には株の売買にからんで名が出た商工相・中島久万吉が辞職に追い込まれた。
その勢いに引きずられるように文相・鳩山一郎も政友会の内紛から、国会で樺太工業をめぐる疑惑を暴露されて3月3日辞職した。
鳩山は衆院の調査委員会で、一応シロという結論になったが、教育界への影響を配慮しての辞任であった。

(参考:山本祐司著『東京地検特捜部〜日本最強の捜査機関・その光と影』現代評論社・1980年初版)

(平成21年1月23日追記)


日本自由党の資金源

昭和20年11月9日、日比谷公会堂で結成式を行った日本自由党は、鳩山一郎を総裁に河野一郎を幹事長に選出した。
その資金源について児玉誉士夫自身が評論家・大森実氏のインタビューで明らかにしている。
「当時のカネで7千万円、それにカマス一つ半くらいあったダイアと、ダンボール20箱くらいのプラチナをそれぞれ半分づつ。河野(一郎)さんが、これを売ってカネにした」

(参考:山本祐司著『東京地検特捜部〜日本最強の捜査機関・その光と影』現代評論社・1980年初版)

(平成21年1月23日追記)

終戦時点での「児玉機関」の財務試算表の総額は、447億1476万3517円42銭。
現在の価値にすると、兆の単位になるのではないだろうか。
児玉機関はそれほど巨額の金を動かし、大規模な軍需物資買い付け工作を行っていたのだ。
繰越金だけでも、15億1039万6421円42銭、とされている。
終戦時、児玉誉士夫は、中国大陸から「児玉機関」の全ての資産を持ち帰ることは出来なかった。
実際に児玉の手元にどれほどの資金が残されていたのかはわからないが、戦後の混乱期に並はずれた右翼資産家として登場したのは間違いのない事実である。

当時の政界の黒幕、辻嘉六が斡旋して、児玉誉士夫に鳩山一郎への資金援助を依頼した。
辻嘉六は戦前、台湾総督・児玉源太郎大将の私設秘書を振り出しに、政友会系の黒幕として隠然たる影響力を持った。
児玉が持ち帰った資産を辻の自宅庭に隠した、とも報じられた。
辻は、児玉が巣鴨プリズンを出る3日前に病死した。

辻の要請を受けた児玉誉士夫は「天皇制護持」を条件に政治資金を提供した。
こうして「児玉機関」の残存資金の一部は、鳩山の自由党結成の際に使われた。
その額は5000万円とも7000万円とも言われた。

(参考:春名幹男著 『秘密のファイル(上) CIAの対日工作』 共同通信社 2000年発行)

(平成23年6月27日追記)


【政治プロデューサー・児玉誉士夫】

児玉誉士夫はプロパガンディスト、インテリジェンス工作員から政治プロデューサーへの脱皮を図った。
その手始めが鳩山一郎の「培養」だった。
児玉は自ら日本国民党を作るかたわら、実業家で政商の辻嘉六を通じて、鳩山一郎に自由党創設のための資金を与えている。
彼を総理大臣にすることによって、日本の政治をプロデュースし、自ら望むことを実現しようと考えたのだ。

児玉誉士夫は国際検察局のウォードルフの取調べの答え(1947年4月21日付)で、児玉機関の資産の総額は当時の日本円に換算して7000万円だったという。
そして、この資産の三分の一を児玉自身がとり、残りは側近の吉田彦太郎に与えた、と述べている。
1953年7月2日付CIA文書によれば、鳩山一郎が自由党を作るときに児玉が与えた政治資金は1000万円でしかなかったという。
児玉は、自分の取り分の半分にあたる1000万円を、鳩山一郎に自由党設立資金として与え、さらに、児玉は自分を引き立ててくれた大西瀧治郎中将の遺族をはじめとして、実によく海軍関係者の金の面倒を見ている。
これで残りの1000万円のかなりの部分が消えただろうから、これまでの伝説とはまったく正反対で、終戦直後の児玉の懐はかなり不如意だったと考えられる。

ちなみに、歴史学者の松尾尊~たかよしは、『本倉』所収「児玉ルート断片」のなかで、児玉が鳩山に渡した巨額の政治資金の一部は、鳩山が提携しようと考えていた西尾末広に流れ、社会党の創設資金の一部になった、という疑惑を指摘している。
そうだとすれば、児玉は社会党幹部まで「培養」していたことになる。
松尾はこれを京都府警察部長青木貞雄から内務大臣山崎巌と近畿地方総監安井英二に宛てて出された秘密報告書を引用しつつ述べているので、信憑性は高い。
この西尾は、のちに社会党書記長になる。

(参考:有馬哲夫 著 『児玉誉志夫 巨魁の昭和史』 文春新書 2013年2月 第1刷発行)

(令和2年5月1日 追記)


【滝川事件】

時の文部大臣、鳩山一郎による京都帝大総長の小西重直こにししげなおに対する法学部教授、滝川幸辰たきがわゆきときの罷免を求める勧告から始まった。
ことの発端は前年の昭和7年(1932年)に、滝川が中央大学法学部で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」という演題の内容にあった。
文部省や司法省内に、滝川の講演があまりに無政府主義的であるとの批判が起きた。
これを機に、帝大法学部の「赤化教授」追放の声がにわかに高まった。
直接的には、滝川の『刑法講義』『刑法読本』の発禁処分をきっかけに、台頭しつつあった右翼勢力が火をつけていた。

文部大臣は世論の反応に敏感な党人派の鳩山一郎である。
特権的な大学教授の追放を支持する世相を利用したのである。

小西総長も教授会もこぞって拒否したが、文部省は5月になって文官高等分限委員会を開くと、強引に滝川の休職処分を決定してしまった。
休職処分が発令されると、これに反発する京大法学部の教授全員が辞表を提出する騒ぎとなった。
その上で「学問の自由と大学自治を侵すもの」との声明を出した。
ところが、京大は、法学部こそ抗議の抵抗を示したが、他の学部は類焼が及ぶことを恐れて同調しなかった。
小西総長は辞任に追い込まれ、7月には後任に松井元興もとおきが就任して事件は急速に収束に向かった。
松井新総長は辞表を提出した佐々木惣一そういち、宮本英雄、末川博ら6人の教授を免官にした。
他の教授、助教授、講師らは残留組と辞職組に分裂した。

(参考:湯浅博 著 『全体主義と闘った男 河合栄治郎』 産経NF文庫 2019年4月 第1刷発行)

(令和2年5月4日 追記)


鳩山追放

1946年(昭和21年)4月10日、戦後初の総選挙の結果、過半数を制した政党はなく、進歩党の幣原喜重郎首相は多数派工作に失敗して、4月22日、内閣総辞職した。
これに代わって、第一党、自由党の鳩山一郎総裁が有力な次期首班として浮上したが、5月4日朝、GHQは日本政府に対して「鳩山追放」を通達したのである。
GHQ覚書は言う。
※総選挙後、鳩山一郎の公職適格性が疑問とされるに至ったので、終戦連絡事務局に、再審査を通告した。
※日本政府は自らの責任において何らの処置を取り得なかったので、GHQは事実確認の上、鳩山は追放令G項1節および3節に照らし、好ましくない人物であると認めた。
※鳩山は1927〜29年まで田中義一内閣書記官長として治安維持法の改正を制定公布した責任を負う。
※1931〜34年まで文部大臣として「左翼的傾向」や「危険思想」の疑いある教師の大量追放と逮捕によって学校における言論の自由を抑圧した責任を持つ。
※彼は全体主義に賛同、ヒトラーの労働階級抑圧計画を日本に移植するのはよいことであろうとすすめた。
※一貫して日本の侵略行為を支持した。鳩山は悪名高き田中(義一)の世界征服政策と一体の関係にある。
鳩山はこのため、追放解除後の1954年(昭和29年)末に首相の座に就くまで、8年半を棒に振った。

(参考:春名幹男 著 『秘密のファイル(下)−CIAの対日工作』 2000年第1刷 共同通信社)

(平成27年6月29日・追記)


【追放の理由】

鳩山追放の理由は、田中義一内閣の書記官長として治安維持法改正にかかわったことが一つ。
昭和8年に文相として京大教授の滝川幸辰を「危険思想」として休職処分に追い込んだ滝川事件の責任者であったことがもう一つの理由だった。
恐らく真相は、反鳩山勢力の策動と彼の反米的な言辞が、鳩山を「好ましからざる人物」にさせたのであろう。
民主主義のルールによって選挙に勝ち抜いた人物までをも逃さない、不合理な決定であった。

市井の人、山田風太郎は憤慨していた。
山田にとって鳩山一郎は、ただの「戦争傍観者」と映っていたにすぎない。
それでも、開票の結果を占領軍が自由に操るのなら、「マッカーサーの思い通りに決めたらよかろうに」(『戦中派焼け跡日記』)という思いだぅた。
国民に選ばれた政治家の首相就任が、GHQの一言でひっくり返ったのだから、山田ならずともモノを蹴飛ばしたくなる気分であったろう。
国民は日本には超法規的な存在があることを思い知らされた。

彼の後継は、鳩山の一言で吉田首班指名が浮上した。
しかし、吉田茂は固辞し続ける。
最後は松野鶴平の執拗な説得で、ついに吉田首相誕生にこぎ着ける。

(参考:湯浅博 著 『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』 文春文庫 2013年7月 第1刷)

(令和2年5月3日 追記)


日本民主党の旗あげ

昭和29年、吉田茂が総辞職する2週間前の11月24日に、鳩山一郎を総裁とする日本民主党が旗上げした。
幹事長は岸信介であり、河野一郎、三木武吉、松村謙三、石橋湛山ら政党人の実力者たちが、その周囲にあって目を光らせていた。
衆院だけでも改進党67名、吉田の率いる自由党から鳩山ら37名の脱藩者、それに小会派や無所属からの参加者も含めて、代議士120名を擁する大政党が出現したのである。

(参考:山本祐司著『東京地検特捜部〜日本最強の捜査機関・その光と影』現代評論社・1980年初版)

(平成21年1月23日追記)


【鳩山総理大臣の「自主防衛」演説】

吉田内閣総辞職をうけた1954年12月10日、首班指名選挙の勝者は、民主党総裁の鳩山一郎だった。
鳩山は年明けの1955年1月22日、衆議院と参議院の本会議において次のような「自主防衛」という考え方を明らかにした。

「防衛問題に関する政府の基本方針は、国力相応の自衛力を充実整備して、すみやかに自主防衛態勢を確立することによって駐留軍の早期撤退を期するにあります。わが国の自主独立の達成のためには、占領下において制定された諸法令、諸制度につきましても、それぞれ所要の再検討を加えて、わが国の国情に即した改善をいたしたいと考えるのであります。」

(参考:有馬哲夫 著 『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』 文春新書 2013年2月 第1刷発行)

(令和2年5月1日 追記)


アメリカの鳩山評価

1955年(昭和30年)2月27日、予定通り、総選挙が行なわれた。
民主党185、自由党112、左派社会党89、右派社会党67という結果となった。
革新勢力が憲法改正を阻止するのに必要な3分の1の議席を確保した。
3月4日、ウィリアム・シーボルト国務次官補代行(極東問題担当)はハーバート・フーバー国務次官に在日大使館の分析結果を報告した。
「次期鳩山内閣は少数与党で、自由、社会両党の支持を必要とする。困難な決定は先送りし、実施を迫られる施策は耳に入りやすいものとするだろう。鳩山民主党は党内対立に悩まされ、彼の政治生命は短いと予想される。鳩山は感情的で、国際問題で幼稚だ。国民の喝采を好む。しかし、何人かの極めて能力が高く、政治的に責任感の強い顧問が抑制効果を持つだろう。吉田(茂)と違って、鳩山は『親米』とも『反動』ともみられない」
アメリカ政府の鳩山評価はこれほど低く、警戒の対象とされていた。

(参考:春名幹男 著 『秘密のファイル(下)−CIAの対日工作』 2000年第1刷 共同通信社)

(平成27年6月29日・追記)


保守合同(自由民主党結成)

日本民主、自由党の両党は、昭和30年11月15日、自由民主党結成という保守合同をなし遂げる。
衆参両院で416名という大勢力で、初代総裁に鳩山一郎、幹事長に岸信介が選ばれた。
保守合同は、その1か月前の左右社会党統一(初代委員長・鈴木茂三郎)に触発された形をとっているが、実は、財界の強い要望によるものである。

(参考:山本祐司著『東京地検特捜部〜日本最強の捜査機関・その光と影』現代評論社・1980年初版)

(平成21年1月23日追記)

1955年(昭和30年)11月15日、東京・神田の中央大学講堂で自由民主党の結成大会が開かれた。
前日解党したばかりの民主党の鳩山一郎前総裁、自由党の緒方竹虎前総裁らが一同に会して、万歳を三唱した。
しかし、新しい自民党は、総裁人事で決着がつかず、旧民主党から鳩山、三木武吉前総務会長、旧自由党から緒方竹虎前総裁、大野伴睦前幹事長の4人が当面、総裁代行委員として新党を運営することになった。
幹事長には岸信介が選ばれた。
約1ヶ月前の10月13日には、左派と右派の両社会党が統一。
新しい社会党の委員長に鈴木茂三郎、書記長に浅沼稲次郎を選出していた。
財界からも、「保守合同」への要望が強まり、9月には日本商工会議所が総会で保守合同の促進を決議していた。
自民党はこうした外部からの圧力を受けて、寄り合い世帯でとりあえず発足した。
これにより、自民党と社会党の保守・革新二大政党による、いわゆる「55年体制」が成立した。
この体制は、1993年に自民党が下野するまで38年間続き、冷戦時代の日本の政治体制として定着した。
翌1956年4月、自民党は臨時党大会を開き、その場で、鳩山一郎が初代総裁に選出された。
その舞台裏で、最も強力に保守合同を後押ししていたのはアメリカである。
アメリカ政府は、対日戦略の一環として、衆参両院で絶対多数を握る、安定した保守政権の形成を背後から推進し、強く働きかけてきた。
実際に保守合同に向けて秘密工作が展開された可能性があるが、その証拠はまだ見つかっていない。
ただ、アメリカが支持する自由党の緒方、民主党の岸が保守合同で大きな役割を果たしたのは事実である。

(参考:春名幹男 著 『秘密のファイル(下)−CIAの対日工作』 2000年第1刷 共同通信社)

(平成27年7月4日・追記)


【鳩山の変節】

鳩山政権成立後まもなく、鳩山はあらぬ方向へ進み始めた。
反共産主義レジームを確立し、憲法を改正して再軍備を進めるどころか、「自主防衛論」をなおざりにして、ソ連との国交回復を政治目標に掲げたのだ。
当時、日本の仮想敵国ナンバーワンはソ連だから、この国と友好的関係を結ぶことを目指せば、再軍備の勢いが殺がれることになる。
鳩山政権成立のため尽くしてきた児玉誉士夫もこれには憤慨して、二人の間にはしばらく険悪な空気が流れた。

なるほど政権に就く前から鳩山は、辻政信や土居明夫など旧軍人の期待を集めていた。
彼は吉田茂との違いを明らかにする立場からも、再軍備を唱えていた。
実際、服部卓四郎、土居、辻を軍事顧問として案を練らせ、来日したジョン・フォスター・ダレスにその案を披露して、自分が再軍備にいかに積極的かをアピールしている。
しかし、鳩山の立場は変わった。
180人もの国会議員を従え、国政のかじ取りをするとなると、重光葵や児玉誉士夫など再軍備派の言うことだけを聞くわけにはいかない。
その他の声にも耳を傾け、全体のバランスをとって政権運営をしなければならない。
その結果が、ソ連との関係改善を「自主防衛」に優先させる路線となったのだ。

友愛を家訓とする鳩山だけに、まずはソ連と国交交渉を皮切りに関係改善を図り、なによりシベリア抑留者(約60万人)という人道問題を解決したのちに、国力の十分な回復を待って軍備を強化してソ連に備える、という融和路線に後退したとしてもおかしくはない。

(参考:有馬哲夫 著 『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』 文春新書 2013年2月 第1刷発行)

(令和2年5月1日 追記)


日ソ共同宣言

日本の首相として北方領土返還を前提とした平和条約締結の口火を切ったのは、鳩山一郎であった。
結果として、こと志と違って「日ソ共同宣言」に署名したのみで、平和条約締結とはならず国交正常化のみに終わったまま、今日に至っている。
「日ソ共同宣言」がなされたのはサンフランシスコ条約から5年後で(昭和31年)、日本側鳩山一郎、河野一郎、松本俊一、ソ連側N・A・ブルガーニン、N・S・フルシチョフらが出席して両国の首脳が署名した。

そもそも、鳩山一郎はソ連との平和条約締結に絶大な熱意を持っていた。
全権大使として実務を担った衆議院議員松本俊一によれば、昭和29年(1954年)12月、吉田内閣のあとを受けて鳩山内閣が成立した時に、組閣後の記者会見で鳩山首相は「(第3次世界大戦を防ぐには)自由主義諸国家がソ連・中共を敵として、交際や貿易をしないことの方が、再び世界戦争を誘発することになると思う」と述べて、共産圏への寛大な姿勢をみせたという。

(参考:上坂冬子 著『「北方領土」上陸記』 文春文庫・2005年第1刷)

(平成22年8月27日追記)

鳩山は昭和31年(1956年)10月7日、河野一郎農相とともにソ連に向けて出発した。
ブルガーニン首相との首脳会談で交渉が妥結、同19日、「日ソ国交回復に関する共同宣言」などに調印した。
結局、領土問題では、歯舞、色丹両島は平和条約の締結時に返還する、という内容が盛り込まれた。
しかし、国後、択捉両島のことはまったく触れられなかった。
日ソ国交回復の結果、この年の国連総会で日本の加盟が認められた。
鳩山は、これで政治エネルギーを燃焼し尽した。
調印から2ヵ月後の12月20日、鳩山内閣は総辞職。
鳩山自身も1959年に死去した。

(参考:春名幹男 著 『秘密のファイル(下)−CIAの対日工作』 2000年第1刷 共同通信社)

(平成27年7月4日・追記)


【鳩山一郎】

政界に出たのは明治44年、父。和夫が他界してからで、最初は東京市会議員。
大正4年、32歳で代議士となった。
戦後の昭和20年11月、「日本自由党」を結成して総裁になり、翌年の選挙では第一党となった。
だが、首班指名の直前にGHQからの公職追放を受け、後を吉田茂に譲って、無念の涙をのんだことは有名な話。
やがて追放解除になろうという寸前(昭和26年6月)、今度は卒中で倒れた。
再起不能といわれながらも不死鳥のように甦り、27年の総選挙で政界に復帰した。
即座に鳩山派をまとめなおし、政敵・吉田茂と闘い、29年暮れにやっと総理大臣となった。
71歳だった。
実績としては「日ソ復交」が高く評価されている。
一郎は、戦前の政友会総裁を目前にして敗れたことや、戦後の首班指名直前の追放、半身不随など、巷では「悲劇の宰相」といわれたが、善良で開放的な人柄が誰からも愛され、圧倒的人気のあった総理だった。

“内助の功”の見本といわれた薫と“悲劇の宰相”一郎との間には、一男四女が生まれる。
上から百合子、玲子、威一郎、恵子、信子である。
長女・百合子は元輸銀総裁の古沢潤一のもとに嫁いだ。
結婚当時、古沢は日銀の理事だったのが、その後輸銀総裁になったため、大蔵省内では「閨閥人事」という批判があった。
二女・玲子の夫は従兄弟にあたる鳩山道夫。
道夫の父は、一郎の弟にあたにあたる秀夫で、この人は一高3年のとき「平均91.6点」をとり、開校以来の秀才といわれた人物。
東大教授(法学博士)を務めた。
道夫は、その血をひき工学博士である。
戦前は理研に入り、海軍技師となり、戦後は通産省工業技術院に転じ、昭和36年、ソニーの取締役になっている。
三女・恵子の夫は元石炭協会の山中繁。
四女・信子は、著名な音楽家でオーケストラ指揮者の渡辺暁雄に嫁いでいる。

長男・威一郎は、府立高(現・都立大)から東大に入り、東大法学部を卒業するときは全優の“銀時計組”であった。
昭和16年、一番で大蔵省に入り、海軍経理学校へ転出したときも一番の成績だったという。
翌年、“日本の大富豪”として有名なブリヂストンタイヤの創業者・石橋正二郎の長女・安子と結婚。
終戦を海軍主計大尉で迎え、すぐさま大蔵省へ戻ったが、そこでの昇進も経済企画庁官房長、大蔵省理財局長、主計局長と“次官コース”をまっすぐ駆け上がって、46年大蔵官僚のトップである次官に就いた。
昭和49年7月、時の田中角栄総理の誘いで参議院全国区から立候補して当選。
しかも3年目の51年2月の福田赳夫内閣では、当選1回目で外務大臣に抜擢された。

(参考:神一行 著 『閨閥 新特権階級の系譜』 1993年第1刷発行 講談社文庫)

(平成26年7月20日 追記)


【フリーメイソン】

戦後の日本占領を指揮した連合軍最高司令官のマッカーサーはフリーメイソンです。
それで鳩山一郎さんは、日本自由党総裁として首相指名を受ける直前に公職追放されたりしたものだから、マッカーサーの歓心を買うためにフリーメイソンに入った。
ワシントン郊外に「コリングウッド」という有名な建物がある。
現在はフリーメイソンの博物館として使われています。
そこにフリーメイソン日本支部に関する資料があり、その中に占領時代の日米両国の指導者たちの名前が並んでいます。
幣原喜重郎や星島二郎などの政治家とともに、ちゃんと鳩山一郎の名前があります。

(参考:菅沼光弘 著 『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』 2012年・第1刷 徳間書店)

(平成27年6月26日・追記)

フリーメーソンは1950年から日本人の参加を認めた。
第一号は佐藤尚武参議院議長、植原悦二郎元国務相ら5人の国会議員。
1月6日に行なわれた入会式に、マッカーサーが出席して日本人の加入を祝した。
マッカーサー元帥はフリーメーソンの主要なメンバーだった。
鳩山はアメリカと太いパイプを持つ吉田茂に対抗するため、フリーメーソンに入ったともみられる。
鳩山には「公職追放」の苦い経験があった。
当時、一部日本人の間で、「フリーメーソンに入れば、公職追放処分を逃れられる」といった噂さえ広がってた。
戦後、各界の名士が多数加入した背景にはそんな事情もあったようだ。

(参考:春名幹男 著 『秘密のファイル(下)−CIAの対日工作』 2000年第1刷 共同通信社)

(平成27年6月29日・追記)


鳩山一郎と妻・薫の墓



鳩山一郎と妻・薫の墓
(東京都台東区谷中・谷中霊園)





(平成19年12月28日)

碑文

鳩山一郎先生
明治16年1月1日東京都に生る
明治40年東京帝國大学英法科を卒え 直ちに辯護士となり 先代和夫先生の法律事務所に入る
45年29歳の時 父君の逝去による補欠選擧に出馬して東京市會議員に當選
以来大正末期まで15年間を地方自治に盡し其間副議長 議長となる
同時に大正4年衆議院議員に初當選
爾来國會議員在職三十有七年 當選15回を数えた
この間 内閣書記官長 文部大臣を歴任
昭和29年12月には内閣総理大臣となり 三次にわたり内閣を組織して國政を檐當した
先生の政治生活はそのまゝわが國の政黨史であり政治史であるが 先生は戦前戦後を通じ 一貫して民主々義を自由主義をもって國政の大本とする信念のもとに議會政治の確立擁護のため奮闘した
ことに終戦後 いち早く政黨政治再建に奔命し 昭和20年11月同志とともに日本自由黨を結成 その初代総裁となる
同21年4月の総選擧では一躍第一黨となり まさに組閣の大命を受けようとする寸前 連合國の公職追放指令を受けた
爾来5年餘を晴耕雨讀に送ったが 特にクーデンホフ カレルギーの著書に共鳴 自ら「自由と人生」と題して譯出しまた青年有志に友愛精神を説き同志會の創設に力をそゝいだ
26年6月 病に倒れ 同年8月 病床に追放解除さる
翌27年9月再び政界に復帰した
29年11月 民主党が誕生 その総裁となる
同年12月吉田内閣総辞職のあとを受け第一次鳩山内閣を組織 総選擧の結果 民主党は第一党となり 第二次鳩山内閣を樹立した
30年11月 自由 民主 兩党の合同を達成第三次鳩山内閣を組織し 翌31年4月 初代自由民主党総裁に選ばれた
同年10月 ソビエト社會主義共和國連邦との國交正常化を目的とする交渉のため全権として病躯をおしてモスクワに赴き復交の大業を遂げた
同年12月18日 わが國の國連加盟が承認され これを見届けて同月23日 桂冠した
内には保守の大合同を完成して議會政治の基礎を固め 外には國連加盟を成就し わが國の國際地歩を高め 政治家としての使命を果たして引退する先生の心境は自ら明鏡止水といわれた
友愛精神を説き悠々自適の生活は遂に34年3月7日終止符を打った
享年76
正二位 大勲位菊花大綬章を授かる

昭和35年3月7日建之
林謙治
大野伴睦


英才の家系〜鳩山一郎と鳩山家の人々〜
豊田穣 著 講談社文庫 1996年第1刷発行 定価960円

(内容)
第1章:英才の家系の祖・鳩山和夫
第2章:良妻賢母・鳩山春子
第3章:青年政治家・鳩山一郎の誕生
第4章:大正デモクラシーと鳩山
第5章:政党政治の終熄
第6章:太平洋戦争と鳩山の冬の時代
第7章:終戦、そして追放の日々
第8章:怨みぞ深し、吉田内閣
第9章:ワンマンとの戦い
第10章:ついに総理の座に
第11章:宿願の日ソ国交回復

若き血の清く燃えて〜鳩山一郎から董へのラブレター〜
鳩山一郎 著 川手正一郎 編・監修 講談社 1996年第1刷発行 定価1,500円

(内容)
第1章:この出逢いは清らかな愛
第2章:清き愛の絆で結ばれて
第3章:理想の光をたどりつつ
第4章:二人して静かな天地を友として
第5章:誰も二人の間を裂くことはできない


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