平成25年3月2日

八田與一 はった・よいち

明治19年(1886年)2月21日~昭和17年(1942年)5月8日

中華民国・台湾の烏山頭ダムでお会いしました。


嘉南圳設計者 八田與一氏像

後ろにあるのが八田與一と妻・外代樹の墓
(台湾・烏山頭ダム)

八田與一の銅像

八田技師がダムと嘉南平原を建設した偉大な貢献を讃えるため、働いたパートナーと現地の農民と共に出資して銅像を鋳造した。
銅像の姿は作業服を着て、一手に頭を支え、一手に足の上に置いて、どのようなダムを造るかをまじめに考えた八田技師の姿をイメージした。
銅像の後ろに八田與一ご夫妻の墓地である。
銅像を置いた場所は、ダムの一番高いところで、ここから、一生をかけて成し遂げたダムのきれいな景色を眺めることができる。

(日本語リーフレットより)

烏山頭ダム

(平成25年3月2日)

烏山頭ダムの歴史

嘉南平野の灌漑用水の問題を解決するため、台湾総督府は嘉南大圳と烏山頭ダムを旧台南州の官田・六甲・大内・東山の4つの地域に跨って設けました。
もともとここには利用できる水源はありませんでしたが、八田與一氏が楠西に水閘門を、烏山嶺に導水路をを設け、曽文渓の水を引き込みました。
そのほか、烏山頭地区に水をせき止めるための堤防を築き、嘉南大圳の「官田渓貯水池」を完成させました。
これが烏山頭ダムの前身です。
烏山頭ダムは1920年1月に着工されました。
「セミ・ハイドロリックフィル工法」という施工法を採用し、10年あまりの歳月を費やして完成しました。
1930年5月から貯水が始まりました。

水門の歴史

南幹線は幅4.5メートル、水深2メートルで、最大流量毎秒20.5トン、総延長10キロ、3つの水路橋と6本の給水支線、46本の分線、35本の排水路があります。
四方には防潮堤があり、8ヶ所に自動排水門が設けられています。

烏山頭ダムの堰堤の紹介

標高66.66m、長さ1273m、高さ56m、堰堤上の幅は9m、底の幅は303mです。
「八田ダム」と学術的に呼ばれているという。
専門的には「セミハイドロリックフィル工法」と呼び、この工法のダムはアジアでは今もここだけですので、国宝の美称が与えられています。

(説明板より)


【嘉南平原】

嘉南かなん平原は、台湾南西部に位置し、「嘉南」の「嘉」は嘉義かぎ、「南」は台南を意味している。
南北90キロ、東西30キロの範囲で、台湾最大の農業地帯として知られている。
もともと台湾の南部は温暖な気候に恵まれ、降水量も多い土地である。
確かに年間降水量のデータを見ると、この地は水に恵まれているように見えるが、降雨は夏季に偏っており、冬場にはほとんど雨が降らない。
しかも、城内には台湾最長の河川である濁水だくすい渓をはじめ、急水きゅうすい渓、曽文そぶん渓、塩水えんすい渓といった河川が流れているものの、流水量に偏りが大きいため、灌漑に用いることはできない。
さらに沿岸部においては塩害も激しかった。
日本統治時代が始まる以前、台湾には「看天田こわてぃーつぁん」という言葉があった。
これは天気を見ながら農耕を進めるというもので、運任せの農業で、農法は原始的で生産性も低く、人々は苦しい生活を強いられていた。

こういった状況を一変させたのが八田與一である。
前例を見ない巨大なダムを設計し、網の目のような灌漑用水路を設ける。
そして、農法の改善や田畑の管理を徹底することで、台湾南部を一大農業地帯に変えた。

【八田與一の計画】

台湾総督府は、明治28年(1895年)に創設されて以来、治安の安定や衛生事情の改善、教育制度の整備、そして農業の発展をいかに進めていくかを重視していた。
八田が描いた計画は官田かんでん渓という河川を堰き止め、烏山頭うざんとうダムを建設。
さらに、曽文渓の流水を地下水道によって引き込み、より多くの水量を確保する。
こうして得た水を嘉南大圳たいしゅうと呼ばれる灌漑用水路を設けて大地を潤すというものだった。
完成までには10年を要するという大事業であった。

【珊瑚潭】

烏山頭ダムを俯瞰すると、珊瑚のように見える。
このため、貯水池は「珊瑚潭さんごたん」という美称で呼ばれていた。
これは時の台湾総督府総務長官であり、歌人でもあった下村宏の命名による。

(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年1月 第1刷発行)


【銅像について】

烏山頭ダムの工事に参加していた技師や工員は「烏山頭交友会」という組織をつくっていた。
その目的は八田技師の功績を讃えるだけではなく、八田技師が抱いてきた技術者の精神を後世に伝えることを目的にしていたという。

烏山頭ダムの竣工式が終わり、嘉南大圳の通水も終えた後、八田は嘉南大圳組合を解職となり、8月には台北に戻ることになっていた。
交友会が八田に銅像を造ることを伝えたのは、この頃だったと言われている。
発起人からの知らせを受けた際、八田はとても感激したと伝えられるが、自分は技術者であり、背広を着込んで仕事をするわけではなかったし、威厳を強調した姿はふさわしくないと語ったという。
そして、できることなら、珊瑚潭を見下ろせる場所に銅像を置いてほしいと希望したという。
そういった要望もあって、銅像は仕事をしている時の姿をモチーフにしたものとなった。

彫像は八田と同郷の彫刻家・都賀田勇馬つがたゆうまに依頼された。
都賀田は朝倉文夫に師事した彫刻家で、粗削りな作風で知られていた。
昭和6年(1931年)7月8日に烏山頭に到着、同月31日に除幕式が行われた。
当初、この銅像には台座がなく、1本の鉄棒で地面に直接固定していた。
これは当時としては珍しいもので、銅像を遠目に見ると、生身の八田技師が地面に腰をおろして考え事をしているかのようだったという。

戦時中、悪化する戦況に伴い、金属供出が実施され、この銅像も供出を強いられた。
しかし、それを察知した人々は、銅像をこっそりと運び出し、人目につかない場所に隠してしまった。
昭和20年(1945年)8月15日、終戦を迎え、台湾は日本の統治から離れ、入れ替わりに中華民国国民党政府が統治者として君臨するようになった。
国民党政府は日本の残影が台湾に残ることを忌み嫌い、日本にまつわる「功績」のすべてを払拭しようとした。
石碑は倒され、碑文は改竄された。
この銅像もまた、どのような運命を歩むのか、非常に危ういものがあった。
銅像は終戦後、番子田(戦後に隆田と改称)駅の倉庫に隠されていることが分かっていたが、それを表に出すことはできず、暗闇の中で30年あまりも眠ることとなった。
この銅像が日の目を見たのは昭和56年(1981年)の元旦。
当時は国民党独裁の戒厳令の時代で、この銅像がどのように扱われるかわからない状態だった。
実際、事前に設置認可の申請をだしたところ、日本人の銅像という理由で、一度は却下されている。
そして、二度目の申請の時には返事が来なかった。
わずかでも日本に好意的な意志を表現することはできないという事情がったのであろうと、人々はこれを「黙認」と捉え、銅像を戻すことにしたという。

(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年1月 第1刷発行)

 平成25年3月2日

中華民国・台湾・「八田技師記念室」でお会いしました。







八田與一像
(台湾・「八田技師記念室」)





(平成25年3月2日)




八田技師記念室
(台湾・台南市・烏山頭水庫風景区)




(平成25年3月2日)
烏山頭ダム余水吐工事 烏山頭ダム進水塔工事
軌道式大型スチームショベル
(大内庄砂利積込作業)
嘉南大圳建設当時の事務所
嘉南大圳建設者 八田與一
八田與一年譜
年代 八田與一・嘉南大圳の年譜
明治19年(1886) 石川県河北郡今町村(現・金沢市今町)にて、四郎兵衛・サトの五男として2月21日に出生
   25年(1892) 花園村立花園尋常小学校(4年制)入学
   29年(1896) 森本尋常高等小学校(3年制)入学
   32年(1899) 石川県立第一中学校(5年制)入学
   37年(1904) 第四高等学校大学予科二部工科(3年制)入学
   40年(1907) 東京帝大工科大学土木科(3年制)入学
   43年(1910) 台湾総督府土木部技手を拝命工務課勤務(24歳)
   44年(1911) 台湾総督府技手土木局土木課勤務(25歳)
明治45年(1912)
大正元年
台湾島内を調査旅行
大正 3年(1914) 台湾総督府技師を拝命、土木局土木課衛生工事係勤務
浜野弥四郎のもとで衛生工事に従事
    6年(1917) 米村外代樹(16歳)と結婚(31歳)
発電用ダム建設地点と急水渓の調査実施
    7年(1918) 嘉南平原の調査活動を精力的実施
嘉南平原への灌漑事業計画を積極的に推進
    8年(1919) 嘉南平原の測量調査を80名の部下と共に開始
総督府土木局設計係兼工事係拝命(33歳)
公共埤圳官田渓埤圳組合事務嘱託
嘉南平原の工事設計案・予算案完成
    9年(1920)
民国9年
「公共埤圳官田渓埤圳組合」認定される
官田埤圳事業着工
総督府技師を辞任、官田埤圳組合技師拝命
長男晃夫誕生
   10年(1921) 官田渓埤圳組合本部嘉義市に完成
「公共埤圳嘉南大圳組合」に改称
嘉南大圳組合監督課長兼工事課長(35歳)
   11年(1922) 烏山頭出張所長拝命、烏山頭に転居
烏山嶺隧道起工
烏山嶺隧道ガス爆発事故発生・死傷者50余名
   13年(1924) 嘉南大圳の工事再開
烏山頭堰堤排水用隧道竣工
濁水渓導水路、給水路完成、灌漑開始
大正15年(1926)
昭和元年
烏山頭堰堤の本工事開始
    3年(1928) 烏山嶺隧道貫通式実施
    4年(1929) 烏山嶺隧道竣工
    5年(1930)
民国19年
烏山頭堰堤竣工
組合技師を解職、組合技術顧問となる
嘉南大圳竣工式実施
総督府内務局土木課水利係長拝命
     高等官三等一級(44歳)
「交友会」会長になり「殉工碑」建立
台湾水利協会設立
    6年(1931) 嘉南大圳組合本部台南市に移転
交友会、都賀田勇馬制作の銅像除幕式実施
   13年(1938) 勲五等瑞宝章授与される(52歳)
   14年(1939) 勅任官技師となる(53歳)
勲四等瑞宝章授与される
   17年(1942) 陸軍省より「南方開発派遣要員」としてフィリピン派遣の内命下る
3人の部下と共に、大洋丸に乗船し宇品港出航
5月8日、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、大洋丸沈没
東シナ海にて死亡  享年56歳
   20年(1945) 外代樹、烏山頭ダムの放水路に投身自殺 享年45歳
與一の銅像発見される
   21年(1946)
民国35年
嘉南大圳水利組合、中華民国に接収される
組合によって八田夫妻の墓が、烏山頭に建立される

(展示パネルより)

1935年8月8日八田技師全家福攝於台北幸町館前庭

(説明文より)

夫婦揃って撮った最後の写真

昭和17年(1942年)4月
南方開発派遣要員としてフィリピン派遣の命を受け、
日本への出発する前に総督府官服の姿で二人で揃って自宅の庭で撮った写真。
一ヶ月ご、台北にいた外代樹夫人は悲報に接した。


(説明文より)

在りし日の“大洋丸”の勇姿

昭和17年(1942年)午後7時33分
アメリカ海軍の潜水艦グラナディア号が発射した魚雷によって沈没
乗船していた1360人のうち、八田技師ら817人が帰らぬ人となった


(説明文より)

八田技師の葬儀

これは八田家が行ったものだが、そのご総督府葬、嘉南大圳葬が引き続いて営まれた
昭和17年(1942年)7月 台北の東本願寺別院にて

(説明文より)


【台湾各地の工事に参画】

八田の台湾暮らしは島内の調査行に始まっている。
当初は衛生方面の工事に関わっており、嘉義、台南、高雄などの上下水道施設の整備を担っていた。
その後は発電所や交通施設、灌漑用設備なども手掛けていくようになる。
具体的には、日月潭じつげったんに設けられた水力発電所の調査や高雄港の築港、台湾南部の山上やまがみに設けられた台南水源地などが挙げられる。

そうした中で、八田が最初に手掛けたのが桃園とうえん大圳であった。
桃園台地に設けられた灌漑施設である。
八田は当時、28歳と若かったが、工事を一任され完成に導いた。
施工は大正5年(1916年)に始まり、大正13年(1924年)に完成し、翌年の5月22日に通水式を行っている。
この灌漑用水路は現在もこの台地を潤しており、また、水路のみならず、日本の讃岐平野にヒントを得たという「ため池」も数多く設けられた。

【烏脚病うきゃくびょう

八田は大正7年(1918年)から、台湾南部の嘉南平原の調査を始めている。
この時、八田は初めて「烏脚病」の患者を見たと伝えられる。
烏脚病は井戸に混入したヒ素によるもので、多くは足の皮膚が黒くなり、壊疽えそを起こすという。
人々は汚染された井戸水を飲用することで、慢性的なヒ素中毒になっていたのである。
これは台湾でも南部に多く見られる風土病として恐れられていた。
八田は、開墾や増産はもちろんだが、何よりもまず、人々の暮らしを向上させねばならないと決意を新たにしたと伝えられている。

【烏山頭ダム】

嘉南平原全体の可耕地は15万ヘクタールとされている。
八田は、これを全て灌漑するための方法を考え続けたが、ここまでの規模の大きい灌漑計画は例がなく、経費も莫大なものになってしまう。
そもそもそれだけの水を確保できないという厳然たる事実も横たわっていた。
そこで、八田は台湾中部を流れる濁水渓から水を引くことを考えた。
これによって斗六とろく、西螺せいら、虎尾こび、北港ほっこうなどの地域、5万ヘクタールを灌漑する。
残りについては、官田渓の上流に位置する烏山頭にダムを設け、さらに曽文渓から約3122メートルの地下水道を設けてダムに1億5000万立方メートルの貯水を行うことを考えた。
この水源は大内おおうち、東山とうざん、六甲ろっこう、官田かんでんなどの地域を潤す。

しかし、経費面での問題は依然として残った。
当時は産業都市・高雄の発展と、そこで用いられる電力の安定供給が優先されていたこともあって、計画は頓挫しかけていた。
時の民政長官(後に総務長官と改称)の下村宏は大蔵省に出向いた際、台湾の食糧生産率を高め、農業基地として発展させることを熱心に説いたと伝えられている。
この頃は、ちょうど米騒動が頻発しており、政府もその対応に苦しめられていた。
また、順調に発展を遂げていた台湾にかける期待も大きく、これらが後押しする形となり、下村の尽力もあって予算面の折り合いがついた。

【一大工事の現場監督】

烏山頭ダム工事は、施工者、運営者ともに民間業者の形を採った。
台南州に官田渓埤圳ひしゅう組合(のちの嘉南大圳組合)が設立され、これが施工者となった。
八田もまた台湾総督府を一旦辞職し、この組合の技師となり、烏山頭出張所の所長として工事に携った。
この時、八田は弱冠34歳。
烏山頭ダムは堰提せきてい長が1273メートル、高さが56メートルという大きさで、嘉南大圳の水路は給水路が約1万キロ、排水路が約6000キロという大工事だったが、八田は監督、工務の両課長を兼任して現場の指揮に当たった。

【セミ・ハイドロリックフィル】

ダムには大きくコンクリートダムとフィルダムがある。
フィルダムとは、天然石や礫を用いて盛りたてたダムのことで、造営費用は安いものの、手間がかかる。
中でも「半水成」式と呼ばれるセミ・ハイドロリックフィル工法は、とりわけ手間のかかるもので、現在はほとんど採用されていない。

この工法は玉石や粘土、礫、石塊などを主に用い、コンクリートは堰提の中央部にわずかに用いるだけである。
これはダム内に土砂が堆積しにくいという利点があり、地震にも強いという特徴があった。
この一帯には複数の断層が存在しているため、耐震性を考慮しなければならない。
八田はその部分を考慮した
粘土を用いて堰提の中に芯を造り、浸透水を遮断して堰提の決壊を防ぐ。
そのためには300万トンという大量の土砂のほか、微細な粘土を必要とする。
作業工程としては非常に大掛かりだが、八田は敢えてこの工法を選んだ。

ここまでの規模は日本初の試みであり、アメリカでも大規模な工事においては、わずかな採用例しかなかった。
そのため、この工法を採用するに当たり、徹底的な調査・研究ばかりでなく、アメリカへの視察も行われている。

【日本で最初に重機を用いる】

烏山頭ダム工事は、日本で最初に「重機」を用いたものだった。
大型工作機械の導入そのものが、当時としては型破りなものだった。
八田はアメリカからスチームショベルを購入したが、金額は400万円にも達するものであり、堰提の造営と烏山頭隧道ずいどうの工費の25%にあたる高価なものだった。
当初は過剰投資ではないかという意見が数多く出たという。
また、この機械を操作できる者は当時台湾にはいなかったため、組合や請負業者からも反対意見があがっていた。

しかし、八田はこれだけの大工事を人力に頼っていては、完成まで何年かかるかわからないと考えていた。
完成が遅れるということは、土地が不毛のままで放置されることを意味し、たとえ高価な機械であっても、工期を短くできれば、それだけ早く効果を生むことが出来る。
そのため、八田はこの投資に意義があると強く主張した。

このスチームショベルは、1回あたり2立方メートルの土砂をすくい上げることができたという。
これは人力に頼った場合の半日分の作業だったと言われている。
そして、この機械は烏山頭ダム工事が終了した後、基隆キールン港の建設など、別の場所においてもその威力を発揮した。

【水路の完成】

昭和4年(1929年)、烏山頭隧道の工事が終了した。
直径9メートルという送水用のトンネルは日本では例のないものだった。
完成までに9年の歳月を要し、その翌年、烏山頭ダムは完成を見た。
途中、関東大震災により、台湾総督府が工事予算を半減することを決定し、八田も工員の人員削減を強いられた。
工事も縮小を強いられたが、その後、台湾総督府はこういった状況を打破するべく、工期を当初の6年から10年に延長し、工費の増額も実施している。
竣工時、このダムは東洋随一の規模と謳われていた。
実際に、3月に完成したダムが満水の状態になるまでに2ヵ月を要した。
言うまでもなく、台湾最大の貯水池であった。

この水路の総延長は1万キロにも達している。
そして、沿岸部においては塩害が起きていたため、塩分を洗い流すための6000キロにも及ぶ排水路も設けられた。
合わせて1万6000キロという一大水利事業で、全ての水路に水が伝わるまで3日間を要したという。
また、灌漑設備に付随する水路橋や排水門といった施設は4000ヶ所を超えており、多くが現在も使用されている。

【三年輪作制】

嘉南大圳の完成後、これをいかに用いて農業の生産性を上げるかという大きな課題があった。
嘉南大圳は組合員によって運営されており、また、負担金を供出させられた農民たちに対しても、しっかりと「成果」を見せなければならない。
しかし、嘉南大圳の給水量には限界があった。
15万ヘクタールという広大な土地に対し、全地域に同時に給水することは、烏山頭ダムがいかに大きなものでも不可能だった。
しかし、八田はあくまでも農民にあまねく水の恩恵を与えるべきと考え、地域全体の生産性を上げ、生活水準を向上させることを目指していた。

そこで考え出されたのが、給水面積を縮小するのではなく、輪作を応用した新しい方法であった。
これは三年輪作制と呼ばれる。
当時、台湾南部で栽培されていた作物は、大きく、米、甘藷、そして芋・雑穀に分れていた。
八田は地域内の土地を50ヘクタールごとに区画し、150ヘクタールをまとめて一区画とした。
ここに水稲、甘藷、雑穀を3年周期で輪作させていく。
大量の水を必要とする稲作を行う地域には完全給水、甘藷を栽培している地域には種植期だけに限って給水、そして、残りの地域には給水しない。
このように、年ごとに栽培作物を変え、それに合わせて給水量を決めるというものだった。
これは限りある水量を効果的に用いるだけでなく、地力を保ち、長期にわたる農耕を実現させられる方法でもあった。

また、農民への技術指導も連日、組合員の手によって実施された。
その効果は大きく、3年後にはすでに成果が顕著になっていたという。
昭和12年度(1937年度)の統計では、この地域の米の生産高は嘉南大圳の竣工前に比べて約11倍となっている。
長らく洪水と干ばつ、塩害という三重苦に苛まれていた嘉南平原は、三年輪作制によって生産効率は上がり、栽培技術も飛躍的に向上した。

(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年1月 第1刷発行)


【八田與一の死】

八田與一は、昭和17年(1942年)に陸軍省の要請を受け、南方開発派遣要員としてフィリピンに向かうことになった。
フィリピンを占領下に置いた日本は、ここを物資の供給基地にしようと試みた。
当時、フィリピンにはサトウキビのプランテーションが広がっていたが、その輸出先のアメリカは敵国になってしまっている。
そこで、ここを綿花畑に変えるべく計画が進められた。
綿花を栽培するにしても、やはり必須となるのは灌漑施設である。
八田は軍部に請われ、灌漑計画立案の調査を行うこととなった。

船は宇品港から出るが、八田は、一度、事前調査のために東京へ向かい、それから広島の宇品港へ向かったという。
この南方開発派遣団は、第1回目の派遣で、各界の技術者や専門家の精鋭ばかり集められていたという。
しかし、5月8日、乗船していた大洋丸が長崎県五島列島沖でアメリカ潜水艦グレナディア号の魚雷を受けて沈没。
この時、八田は死を遂げた。享年56歳。
この時、八田技師は優秀な自らの部下3名を伴っていたという。
烏山頭ダム建設時からの付き合いとなっていた湯本政夫技師、台湾総督府内務局土木課技師で、八田と同郷の宮地末彦、同じく台湾総督府内務局土木課技手の市川松太郎だった。
そのうちの一人、宮地末彦は奇跡的に助かり、生還を果たしている。

八田の遺体は長らく見つからなかったというが、6月10日になって、山口県の萩で発見された。
漁船の網に遺体が引っ掛かり、内ポケットかの財布と名刺入れから八田技師であると判断された。
そして、6月21日に遺骨が台湾に戻り、台北市西門町の東本願寺で八田家による葬儀が行われ、22年間暮らした烏山頭でも盛大な葬儀が行われた。

(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年1月 第1刷発行)


【外代樹夫人の死】

與一が亡くなって3年の歳月が過ぎ、日本は終戦を迎えた。
日本に代わって台湾を支配するようになった中華民国政府は、日本人が台湾に残ることを許さず、一部の留用人員を除き、内地人と呼ばれた台湾在住の本土出身者とその子孫は引き揚げを強要された。

八田技師の妻である外代樹は、與一との結婚後、すぐに台湾での生活を始めている。
当初、疫病の蔓延する台湾の片田舎で暮らすことに家族は反対したというが、外代樹は台湾・烏山頭を選んだ。
烏山頭ダムの工事が終わった後は台北市に移っていたが、戦局の悪化で、昭和20年(1945年)4月から慣れ親しんだ烏山頭に疎開していたので、終戦の知らせもこの地で聞いた。

9月1日、ちょうど25年前のこの日に、嘉南大圳の大工事が始まっている。
この日に外代樹は八田家の家紋の入った和服を着て家を出たという。
そして、烏山頭ダムの放水口に身を投げてしまう。享年45歳。
外代樹の遺体は約6キロも離れた地点で発見された。
この外代樹の死については、終戦直後の混乱期ということもあって謎が多い。
責任感が強く、気丈な女性として知られていた外代樹が8人の子供達を残してなぜ自らの命を投げ出してしまったのか。
しかし、家には簡単な遺書が残されていたため、自殺ということで処理された。

人々は外代樹の遺体を火葬し、一部を日本に持ち帰り、一部を烏山頭の地で八田與一と合葬した。

(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年1月 第1刷発行)

旧送水口

昭和20年9月1日、外代樹夫人がここで投身自殺を遂げた

旧送水口

ダム放流の際、非常に激しい勢いで水が噴き出すことから、珊瑚飛瀑とも呼ばれています。
このダムの現場責任者八田與一技師は、太平洋戦争の最中、1942年徴用されてフィリピンに向かう途中、アメリカの潜水艦に撃沈されこの世を去り、その妻の外代樹(とよき)は、1945年9月1日に、夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口に身を投げて後を追いました。
享年45歳でした。
その日はダム工事が開始25周年の記念日でした。
1997年には、新送水口の施設が完成されました。

(日本語リーフレットより)





八田宅(復元)

(台湾・台南市・烏山頭水庫風景区・八田與一紀念園區(八田記念公園))




(平成25年3月2日)

八田宅

本建築物は独立棟型で、当時は八田與一技師の住居でした。
間取りは「赤堀宅」とほとんど同じですが、昇進に合わせて西側に洋間が増築されて八田技師の書斎とした点が唯一の違いです。
八田技師は帰宅後に北側の庭で工事の計画や進行について思いをめぐらせる習慣があり、ここにある台湾本島をかたどった池に八田技師の台湾に対する思い入れと関心の深さが表れています。
現在の庭園内にある石灯篭は当時からのものです。
この八田宅は、復元前は基礎しか残されておらず、企画チームの中冶公司は日本まで八田技師の遺族を訪ねて当時の写真や手書きのスケッチを入手し、また歴史的な資料や周辺の建物などを参考に、「八田與一故居」の復元設計を進めました。

(説明板より)


【八田與一紀念園区(記念公園)】

この記念公園は2011年5月8日に完成し、式典には馬英九総統(国民党)をはじめ、石川県出身の森喜朗元首相なども参加した。
現在は嘉南農田水利会が管理を行っている。
この公園の面積は約5万平方メートルだが、約200棟あったという官舎のうち4棟が当時の姿に復元されている。

八田技師が暮らしていたという家屋はわずかに土台だけが残り、廃墟とすら呼べない」状態だったが、この場所を整備するにあたり、設計士たちは日本まで赴いて当時の写真を入手し、聞き取り調査を繰り返したという。
そして、考証を重ねた末、旧居を再現した。
現在、設計図がかつての書斎に置かれている。

八田技師が暮らした住居は、日本統治時代によく見られた木造官舎だが、西側に洋間が増築されている。
ここは書斎として使用された部屋であった。
また、この家屋の北側には、台湾島の形をした珍しい形の池が設けられていた。
八田は帰宅後、ここで水利工程について思索することが多かったと言われる。
畔に置かれた石灯籠は古写真をもとに、忠実に再現されたものである。

(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年1月 第1刷発行)




 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu