平成18年3月21日
明治36年(1903年)12月31日〜昭和26年(1951年)6月28日
広島県尾道市・JR尾道駅前の商店街入り口でお会いしました。
本名はフミコ。
山口県出身。
私生児として生まれ、幼少期から行商の旅で各地を渡り歩き貧窮の中に育つ。
上京して職を転々とし、アナーキストの詩人達と知り合い影響を受ける。
昭和4年(1929年)詩集『蒼馬を見たり』を出版。
翌年には自伝的日記体小説『放浪記』が刊行されベストセラーになる。
その後、『風琴と魚の町』『牡蠣』『稲妻』『晩菊』『浮雲』など数多くの作品を発表する。
林扶美子像 (広島県尾道市・駅前商店街入り口) (平成18年3月21日) |
林扶美子
1903年〜1951年
女流作家 故林扶美子は、大正5年5月、尾道に両親とともに降り立った。
爾来、小学校(現土堂小学校)・県立高女(現尾道東高等学校)を卒業するなど、夢多き青春時代をこの地にすごした。
上京後、幾多の辛酸をなめ、詩情豊かな作風をつらぬき、「放浪記」や「うず潮」「晩菊」「浮雲」など、芸術的香り高い名作を数多く残し、齢48歳を一期に他界した。
けだし、扶美子にとって尾道は、少女期の感じ易き魂に、文学の眼を開かしめた唯一の揺籃の地であり、かつまた、わすれがたい故郷の街でもあった。
小林正雄 誌す
建立者 尾道市商店街連合会
会長 中田貞雄
制作 高橋秀幸
建立年月日 1984年7月22日
(碑文より)
副碑
「林芙美子生誕地」碑 (山口県下関市・五穀神社) 昭和十一年二月 田中町自治会 (平成23年9月15日) |
五穀神社 (山口県下関市田中町1番) (平成23年9月15日) |
文学碑 (広島県尾道市・千光寺公園文学のこみち) (平成18年3月21日) |
林扶美子
海が見えた。
海が見える。
五年振りに見る尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。
赤い千光寺の塔が見える。
山は爽やかな若葉だ、緑色の海向こうにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。
私は涙があふれていた。
(放浪記より)
下関の人、大正5年尾道に移り住んで尾道第二尋常小学校(現土堂小学校)尾道高等女学院(現東高等学校)を卒業後、上京して、苦をしのいで精進し、昭和4年に出世作「放浪記」を出し、新進作家として大成した。この碑の筆者小林正雄氏は小学校当時の恩師である。
(説明板より)
記念碑 (愛媛県西条市・JR壬生川駅) (平成19年11月11日) |
娘から父へ
この記念碑は、作家として日本文学史にその名を残す林芙美子が、東予市新町出身の父、宮田麻太郎氏に大正13年12月に書かれた手紙の一文節であります。
この手紙については、二人の関係を研究されていた竹本千万吉先生の著書「人間・林芙美子」で紹介はされていましたが、今回、父と娘の関係を多くの人々に知っていただくために記念碑として設置いたします。
残念ながら麻太郎氏の生家は、取り壊されていますが、新町の新福寺にて宮田家の墓地にしのぶことができます。
手紙の全文は次のような内容です。
この手紙を読み親子の絆を感じていただくきっかけになればとおもいます。
大変ご無沙汰しました。私もあさってでもう廿三にならふとしております。
長い事会ひませんが御変わりありませんか、只今東京の方におります。色々な苦労をなめ、それでも私は元気よく生活しております。
母はやはり父の方におります。私は一人でこちらにゐるのです。随分長いこと音信もなく、現在血を分けた父のありかも知らないでゐる私でした。先日下関の方にかすかな記憶をたどって出してみたところ、わかりましたので手紙をかく事が出来ました。
何か商売してゐらっしゃいますか。貴方はいつも元気ですから安心してゐます。
私も只今は小説だの子供の童話なぞかいて、まあ、私一人位はすごしております。
東京の方にお出の節はお立寄り下さいませ。寒さの折から、御体を大切に祈ります。
一月か二月に詩集を出したいと思ひますが、何分貧乏で仕方がありません。きっと偉くなりますからみてゐて下さい。
ほんとうに力強く闘って行きます。今こそ野中にたった一本の身ノ上なんです。人間と云ふものゝあまりたよりにならい(※ ならない)世に、私は私自身を資本に勝負をしなければならないのです。
体だけは元気です。御安心下さいませ。何もかも忘れ、この不幸な私を、父上は愛して下さるでせう。―御自愛を祈ります。
御一家様によろしく、さよなら
卅日
芙美子
父上様
東予市
(説明板より)
JR壬生川にゅうがわ駅 (愛媛県西条市) (平成19年11月11日) |
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