平成23年2月7日

林市蔵 はやし・いちぞう

慶応3年11月28日(1867年12月23日)〜昭和27年(1952年)2月21日

熊本県熊本市・熊本城前でお会いしました。


熊本県出身。
内務官僚。
大阪府知事として方面委員・民生委員の創設に尽力。


【林市蔵】

熊本県出身。
1896年(明治29年)東京帝国大学法科大学卒業。
山口、広島、新潟の書記官を経て1908年(明治41年)7月に三重県知事。

(参考:大河内一雄 著 『幻の国策会社 東洋拓殖』 日本経済新聞社 昭和57年1版1刷)

(平成29年2月1日 追記)






「民生委員の父 林市蔵翁」像

(熊本県熊本市中央区花畑町)





(平成23年2月7日)

民生委員の父  林 市蔵

慶應3年(1867)11月28日横手町に生れる
5才で父を失い 母の手一つで育ち 「林家の雑巾ぞうきん」といわれたほどの貧しい暮しの中で 春日小学校を経て 済々黌 熊中 五高 東大法科に学び 明治29年法学士となる
北海道拓殖官に就職したが 母を失い2年間も喪に服した
その後 内務省に移り 山口 広島 新潟の各部長を経て三重県知事となる
ついで東洋拓殖株式会社理事として在朝鮮8年 再び山口県知事に転出
その後 大阪府知事となる
第一次欧州大戦後のインフレ時代にあい 社会福祉の急なるを悟り 方面委員制度の創設に力を注ぎ 現在の民生委員の父と仰がれるに至った
昭和27年2月21日没
84才
大阪淀屋橋畔にも銅像が建てられている

(説明石碑・碑文)

『民生委員制度創設七十周年記念』碑

碑文

「深則新」とは、民生委員制度の生みの親である林市蔵先生より与えられた活動教訓である。
即ちこの言葉は、一つの問題を深く掘り下げそこに困難な壁があれば新しい勇気をもって工夫と努力を重ね、粘り強く切り拓いてゆく活動こそ委員の体得できる最大な喜悦であるという意であり、先生の遺志を継ぐ民生委員は制度創設70周年を迎えるに当り先生がこの制度に傾注された真精神に思いを致しその使命の完遂に決意を新にしこの記念碑を建立するものである。


林市蔵像 平成20年6月17日

林市蔵像



林市蔵像
(大阪市中央区北浜4丁目・淀屋橋南詰)





(平成20年6月17日)

碑文

大正7年世界大戦の直後物價奔騰して民衆の苦難甚しく米騒動勃發して世相不安を極めた
時の大阪府知事林市蔵先生偶ここ淀屋橋畔の調髪所において鏡面に映る新聞賣母子の憐むべき姿と家庭の窮状に深く心を打たれこれが社會的対策の極めて緊切なるを痛感し府嘱託小河滋次郎博士の調査研究と愼重考慮の結果府下に方面委員を設置せられた
これ我國における民生委員制度の嚆矢であり爾来急速に發達して全國に普及され社會事業推進の中核をなすに到った
しかも此の間林先生には終始一貫熱誠を傾けて本制度の育成發達に努力せられたが昭和27年2月21日その偉業を遺して逝去せられた
我等府下5千名の民生委員は深く先生の高徳を慕いその功績を讃仰すると共に民生委員事業今後の發展に資すべくここに本制度發祥の地に先生の記念像を建設しこれを不朽に傳えんとする

大阪府知事赤間文三撰並びに書


北海道方面委員慰霊碑



北海道方面委員慰霊碑
(北海道札幌市・円山公園)




(平成22年5月26日)

【碑文】

北海偏陬ノ地ニ在リテ職ヲ方面委員ニ奉シ薄倖不遇ノ同胞ノ為メニ献身努力其誠ヲ致セシコト神人共ニ感動惜カサルトコロナリ
茲歳其制度勅令ノ公布ニヨリ盛業不朽ノ果ヲ結ヒシハ蓋シ偶然ニアラス在天ノ英霊亦以テ慰ムルニ足ランカ

昭和11年11月
林 市蔵撰弁書

北海道方面委員慰霊碑

昭和11年全道方面委員1,500人・一人2円以上拠出8,520円をもって建立
昭和12年6月12日除幕
昭和51年全道民生委員・児童委員8,445人・一人1,500円を60周年記念事業として拠出改修する

(碑文より)




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