土方稲嶺 ひじかた・とうれい

?〜文化4年3月24日(1807年5月1日)


土方稲嶺・稲琳の墓



土方稲嶺・稲琳の墓
(鳥取県鳥取市・景福寺)




(平成16年11月18日)

郷土の画家 土方稲嶺・稲琳とうりん 父子の墓

初名広邦、後広輔と改め、画号を稲嶺又は臥虎軒、虎睡軒とも称した。
江戸に出て沈南蘋の画風を学び宗紫石の伎を慕って師事す。
後京都に移って栗田宮家に仕えて画道に精進する事、十数年、寛政10年秋、鳥取に帰り、7代藩主、斉邦公に召されて藩の絵師となり、人物、山水、花鳥、虫魚等いづれも描いて写実の妙を極めた。
分けても鯉こいを写すに特別巧みで、遊泳跳躍の態真に逼るものがある。
応挙おうきょ・文晁ぶんちょうとも親交があった。
文化4年3月24日、67歳で病没し、当地に葬る。
戒名を稲嶺雄仙居士とうれいゆうせんこじと受く。
稲琳とうりんは稲嶺の子。
稲嶺の高弟に黒田稲皐くろだ・とうこうがある。

(説明板より)

景福寺



景福寺
(鳥取市新品治しんほんじ町)




(平成16年11月18日)

瑞松山景福寺(曹洞宗)

鳥取藩池田家家老「荒尾」家の菩提寺「景福寺」は、南北朝時代摂津国六ノ瀬村(兵庫県川辺郡)に通幻寂霊つうげんじゃくれい禅師を開山として創建されたのが始まりである。
慶長年間、姫路城主池田輝政の家老荒尾志摩守隆重は、景福寺11世大桂宗奕そうえき禅師に帰依し、同寺を姫路城下に移して再興し中興開基となり、以後、荒尾家代々の菩提寺として護持されてきたものである。
池田輝政の没後、備前岡山藩主となった忠雄に従い荒尾家と共に同寺も岡山へ移った。(元和2年)
寛永10年、景福寺14世角山宗虎禅師となり、忠雄の嫡男光仲の鳥取転封に伴って同寺も荒尾家と共に鳥取城下に移り、荒尾嵩就を開基とする鳥取景福寺が建立され今日に至っている。
このような経緯から摂津・姫路・岡山・鳥取と4箇所に景福寺がある。
鳥取景福寺には、鳥取藩関連の書画、墓跡等が残されている。

(※寺宝・境内墓に関する記述は略します=重兵衛)

平成6年2月
鳥取市教育委員会
景福寺

(説明板より)



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