人間魚雷「回天」・光基地


回天の碑
(山口県光市光井9-18-2)

碑文

太平洋戦争末期の昭和19年11月25日 人間魚雷「回天」光基地が 光市のこの地に開設された。
「回天」とは海中を潜り敵艦に体当たりする一人乗りの人間魚雷のことである
祖国日本を守るため 潜水艦に搭載されて 南太平洋に出撃した
「回天」に搭乗した若者は 再び生きて この地に還ることはなかった

    わたしたちは祈る
  あなたがたの御魂が
  ふるさと光に安らぐことを
    わたしたちは誓う
  未来の子どもたちへ
  平和の志を、確かに伝えることを

光基地戦没者
岡山 至  金井行雄  河合不死男 
市川尊継  斎藤達雄  堀田耕之祐 
田中二郎  田辺 晋  新野守夫 
浦佐登一  岩崎静也  田中金之助 
熊田孝一  釜野義則  猪熊房蔵 
菅原今朝松  梅下政男  赤近忠三 
亀田武雄  坂本 茂  伊東祐之 
森 正夫  高沢喜一郎  吉田 洸 
荒木七五三一  藤原 昇  樽井辰雄 
寺西 亨  池淵信夫  横尾喜三郎 
八木悌二  久家 稔  富永一喜 
安部英雄  柳谷秀正  河田直好 
海老原清三郎  水知創一  島田 昌 
松田光雄  北村十二郎  矢崎美仁 
柿崎 實  阿部福平  三好 守 
古川七郎  恵美須忠吉  阪本宣道 
山口重雄  成瀬謙治  和田 稔 
前田 肇  上西徳英  八木 寛 
小林富三雄  佐野 元  仁科関夫 

伊号第370潜水艦 藤川 進以下 79名
伊号第361潜水艦 松浦正治以下 76名
伊号第165潜水艦 大野保四以下 104名
第18号輸送艦 白竜隊 114名
          大槻 勝以下 148名

(側碑・碑文より)





慰霊碑

(山口県光市光井・武田薬品光工場)


昭和35年8月 光市 建立


(平成24年4月18日)

【碑文】

この碑は、昭和20年8月14日の空襲によって殉難した、旧海軍工廠職員、動員学徒738人ならびに人間魚雷回天特別攻撃隊員の、尊い犠牲を追悼して建立した。

昭和20年7月24日、光市沖における対空戦により、惜しくも祖国に殉じた旧海軍駆逐艦「樺」及び「萩」の乗員38人の御霊を追悼し、ここに合祀した。

光市民は、この地に永眠したこれら殉難者の霊やすかれと祈るとともに、世界の恒久平和を願うものである。

光市

(側碑・碑文より)


【光基地】

昭和19年(1944年)11月25日、光海軍工廠の隣りに光「回天」基地が設置され、第1特別基地隊第4部隊が開隊。
基地には光海軍工廠の南東に建つ工員養成所が充てられた。
2階建ての庁舎には本部が置かれ、事務室、教室、講堂、士官居室、医務室などを配置。
兵員居住区は、養成工員が使用していた木造2階建ての宿舎が充てられた。
居室の定員は1室8人で、部屋の両側に2段ベッドが2つずつあった。
庁舎の南側、練兵場を隔てて魚雷調整場と魚雷発射場があった。
12月1日、訓練を開始。
昭和20年(1945年)3月1日、部隊は改編され、光基地は第2特攻戦隊光突撃隊となる。

(参考:『人間魚雷回天~命の尊さを語りかける、南溟の海に散った若者たちの真実~』 ザメデシアジョン 2006年第3刷発行)


【光基地を出撃した回天特別攻撃隊】

出撃年月日 隊名 搭載潜水艦 「回天」数 戦没搭乗員数 記事
昭20.2.21 千早隊 伊370 硫黄島方面(未帰還)
昭20.3. 1 神武隊 伊58 作戦変更により帰投
昭20.3.29 多々良隊 伊47 損傷により帰投
昭20.3.31 多々良隊 伊58 敵の警戒厳重
回天発進不能・帰投
昭20.4.20 天武隊 伊47 沖縄海域
昭20.4.22 天武隊 伊36 沖縄海域
昭20.5.24 轟隊 伊361 沖縄方面(未帰還)
昭20.5.28 轟隊 伊363 敵の警戒厳重
回天発進不能・帰投
昭20.6. 4 轟隊 伊36 マリアナ
昭20.6.15 轟隊 伊165 マリアナ(未帰還)
昭20.7.19 多聞隊 伊47 敵の警戒厳重
回天発進不能・帰投
昭20.8. 1 多聞隊 伊366 西太平洋上
昭20.8. 8 多聞隊 伊363 沖縄東方海面

千早隊・伊370 (20年2月21日出撃)
昭和20年2月19日の米軍の硫黄島への上陸開始を受けて、急きょ、伊368、370.44の3隻による「千早隊」が編成された。
伊370(光基地より出撃)に搭乗した隊員は以下の5名。
岡山至(少尉)=宮崎出身・海軍機関学校54期・20歳・没後大尉
市川尊継(少尉)=新潟出身・予備学生4期(早稲田大)・23歳・没後大尉
田中二郎(少尉)=兵庫出身・予備学生4期(慶応大)・24歳・没後大尉
浦佐登一(ニ飛曹)=群馬出身・甲飛予科練13期・20歳・没後少尉
熊田孝一(ニ飛曹)=福島出身・甲飛予科練13期・17歳・没後少尉
昭和20年2月21日に光基地を出撃したが、攻撃決行期日を過ぎても連絡なし。
3月6日、攻撃中止・帰還を命じたが、伊368と共に帰還しなかった。

神武隊・伊58 (20年3月1日出撃)
千早隊が思うような戦果をあげられなかったため、第6艦隊は伊号第36、58潜水艦による回天特別攻撃隊「神武隊」を編成し、硫黄島方面への出撃を命じた。
光基地から出撃した伊58の「回天」搭乗員は以下の4名。
池淵信夫(中尉)
園田一郎(少尉)
入江雷太(ニ飛曹)
柳谷秀正(ニ飛曹)
攻撃発進地点に到着し、いよいよ出撃という時に中止命令を受信。
連合艦隊は3月6日、硫黄島方面の潜水艦作戦は困難と判断し、次の作戦に備えるため中止を決定、第6艦隊は各潜水艦に帰投命令を発信したのである。
伊58は、その直後、緊急指令を受け、2基の「回天」を放棄して沖ノ鳥島西方海面に進出。
航空特攻「第二次丹作戦(梓あずさ特攻隊)」の電波誘導艦を命じられる。
任務を終え、3月16日に光基地に帰還した。

多々良隊・伊47 (20年3月29日出撃)
昭和20年3月23日、沖縄戦の火ぶたが切られ、これに伴い、伊47、56、44、58の4隻で「多々良隊」が編成された。
光基地からは伊号第47潜水艦(折田善次艦長)が先陣を切って出撃。
「回天」搭乗員は以下の6名。
柿崎実(中尉)
前田肇(中尉)
古川七郎(上曹)
山口重雄(一曹)
新海菊雄(ニ飛曹)
横田寛(ニ飛曹)
3月30日早朝、豊後水道を出たばかりのところで、米機動部隊の前衛駆逐艦のレーダーに捕らえられ爆雷攻撃を受ける。
危機は脱したが、潜望鏡漏水、燃料タンク破損等により作戦続行を断念し光基地に帰投。

多々良隊・伊58 (20年3月31日出撃)
伊58(艦長:橋本以行少佐)は沖縄本島西方海域を目指して光基地を出撃。
「回天」搭乗員は、「神武隊」と同じ顔触れの4名。
池淵信夫(中尉)
園田一郎(少尉)
入江雷太(ニ飛曹)
柳谷秀正(ニ飛曹)
橋本艦長は戦艦「大和」出撃の知らせを聞き、同艦隊の後に続いて一緒に突入すれば沖縄にたどりつけると考え艦隊の到着を待ったが、「大和」は徳之島沖で撃沈され、作戦は中止となる。
その後、悪天候と米軍の厳重な警戒のため作戦の続行を断念し、4月29日に光基地に帰還した。

天武隊・伊47 (20年4月20日出撃)
米軍の艦船停泊地では、「回天」突入に対する警戒が強化されたため、回天戦の戦法は停泊艦船攻撃から航行中の輸送船団攻撃に転換。
その先駆けとして、伊36、47の2隻による「天武隊」が編成された。
「多々良隊」で受けた損傷の修理を終えた伊号第47潜水艦(折田善次艦長)は、4月20日、光基地を出撃して沖縄とマリアナ群島を結ぶ中間海域に向かった。
「回天」搭乗員は「多々良隊」と同じ顔ぶれの以下の6名である。
柿崎実(中尉)=山形出身・海軍兵学校72期・22歳・没後少佐
前田肇(中尉)=福岡出身・予備学生3期(福岡第2師範)・21歳・没後少佐
古川七郎(上曹)=岐阜出身・海軍水雷学校・27歳・没後少尉
山口重雄(一曹)=佐賀出身・海軍水雷学校・23歳・没後少尉
新海菊雄(ニ飛曹)=故障のため発進せず。
横田寛(ニ飛曹)=故障のため発進せず。
5月1日夜、レーダーにより敵輸送船らしき艦船を発見、魚雷戦により1隻目に2本、2隻目に1本、魚雷を命中させる。
5月2日午前9時過ぎ、敵艦船の音源を捉え柿崎と山口の2艇が出撃。
柿崎中尉は訓練中に殉職した三好守大尉の遺骨を抱いての出撃で、2艇とも命中。
続いて敵大型駆逐艦2隻を発見。
2号艇の古川が出撃し命中。
5月7日朝、レーダにより敵軽巡洋艦を発見。
5号艇の前田が出撃して命中。
3号艇と5号艇は連絡電話の感度不良のため、両艇の搭乗員(新海、横田)は艦内に復帰、その後、出撃できぬまま光基地に帰還。

天武隊・伊36 (20年4月22日出撃)
伊号第36潜水艦(艦長:菅昌徹昭少佐)は20年4月22日、光基地を出撃。
「回天」搭乗員は以下の6名。
八木悌二(中尉)=熊本出身・海軍機関学校54期・19歳・没後少佐
安部英雄(ニ飛曹)=北海道出身・甲飛予科練13期(小樽商業)・18歳・没後少尉
松田光雄(ニ飛曹)=茨城出身・甲飛予科練13期(県立古河商業)・20歳・没後少尉
海老原清三郎(ニ飛曹)=東京出身・甲飛予科練13期(府立実科工業)・18歳・没後少尉
久家稔(少尉)=故障のため発進せず。
野村栄造(ニ飛曹)=故障のため発進せず。
4月27日朝、沖縄に向かう約30隻の船団に遭遇。
八木、安部、松田、海老原の4人の「回天」が船団に突入し、体当たりに成功。
久家、野村の2艇は故障のため発進できず、伊36と共に光基地に帰還。

轟隊・伊361 (20年5月24日出撃)
昭和20年5月末、沖縄の米軍補給ルート遮断を目的に 回天特別攻撃隊「轟隊」が編成された。
大型潜水艦の伊36、旧式の中型潜水艦伊165、輸送潜水艦を改造した伊361、363の4隻である。
伊361(艦長:松浦正治少佐)は、5月23日に大津島基地から出撃予定だったが、B-29による大津島周辺への機雷投下を懸念して光基地に移動。
5月24日に光基地から出撃した。
「回天」の搭乗員は以下の5名。
小林富三雄(中尉)=三重出身・海軍機関学校54期・21歳・没後少佐
金井行雄(一飛曹)=群馬出身・甲飛予科練13期・21歳・没後少尉
田辺晋(一飛曹)=千葉出身・甲飛予科練13期・19歳・没後少尉
岩崎静也(一飛曹)=北海道出身・甲飛予科練13期・17歳・没後少尉
斎藤達雄(一飛曹)=茨城出身・甲飛予科練13期(中央航空研究所)・17歳・没後少尉
その後、消息不明。
米海軍の戦闘報告で5月31日に交戦したということが判明している。

轟隊・伊363 (20年5月28日出撃)
伊363(艦長:木原栄少佐)は5月28日午前9時、回天5基を搭載して光基地を出撃し、沖縄南東500カイリを目指した。
「回天」搭乗員は以下の5名。
上山春平(中尉)
和田稔(少尉)
石橋輝好(一飛曹)
小林重幸(一飛曹)
久保吉輝(一飛曹)
6月15日午後10時、浮上航行中、水平線上に灯火を発見。
急速潜航し、午後10時50分、魚雷2発を発射し命中させる。
6月16日、帰投命令を受け、6月28日に平生基地に帰還し、「回天」5基を陸揚げする。

轟隊・伊36 (20年6月4日出撃)
伊36(艦長:菅昌徹昭少佐)は光基地で訓練用「回天」を搭載し、大津島沖合で訓練を重ねていた。
「回天」の編成は6基。
「振武隊」「多々良隊」で出撃して生還した池淵信夫中尉、園田一郎少尉、入江雷太一飛曹、柳谷秀正一飛曹の4人と、「金剛隊」「天武隊」として出撃して生還した久家稔少尉、これに新たに加わった野村栄造一飛曹の6名。
この訓練中に目標艦に衝突沈没して入江一飛曹と同乗の坂本豊治一飛曹が共に殉職。
そこで、「多々良隊」の生還者・横田寛一飛曹が加わった。
最終編成の6名は以下の通り。
池淵信夫(中尉)=兵庫出身・予備学生3期(大阪日本大)・24歳・没後少佐
園田一郎(少尉)=故障により発進せず。
入江雷太(ニ飛曹)=故障により発進せず。
柳谷秀正(ニ飛曹)=北海道出身・甲飛予科練13期(小樽水産)・20歳・没後少尉
久家稔(少尉)=大阪出身・予備学生4期(大阪商大)・22歳・没後大尉
横田寛(一飛曹)=故障により発進せず。
昭和20年6月4日午前9時に大津島基地を出撃。
6月17日、マリアナ諸島東方海域に到着。
6月20日午後5時20分、米大型輸送船1隻を発見し急速潜航。
6月21日、この輸送船の前方に先回りして待ち構えていたところに大型タンカーが出現、急きょ目標を転換。
「回天」戦を発令したが、久家(5号艇)、野村(6号艇)は期間発動不能のため攻撃中止となる。
配備地点から一時退去し故障の復旧に努めたが、1、2、5号艇は修復できたが他の3基は使用不能のまま。
6月26日深夜、ブラウン島と硫黄島を結ぶ配備地点へ向かう。
6月28日午前11時20分、単独航行中の大型輸送船を発見。
1号艇(池淵)が発進。(戦果不明)
池淵中尉は、回天搭乗員の中で2人いた妻帯者の中の1人、わずか1週間程度の結婚生活だったという。
その後、敵駆逐艦の爆雷攻撃を受け、5号艇(久家)、2号艇(柳谷)の2基に発進用意を命じたが、2艇とも故障。
両艇とも電話不通、5号艇に至っては電動縦舵機の故障のため使用不能。
やむをえず2基の発進を中止。
更に執拗な敵の爆雷攻撃に対し、久家少尉が故障艇での突入を懇願。
2号艇、5号艇が発進し、大爆発音と共に駆逐艦1隻の音源が消えたが、もう1艇の戦果は不明。
7月2日、帰投命令が下されたため伊36は戦場を離脱し、7月6日に大津島基地に帰還、同9日に光基地に入港し「回天」を陸揚げした。

轟隊・伊165 (20年6月15日出撃)
伊165(艦長:大野保四少佐)は「回天」2基を搭載して光基地を出撃しマリアナ諸島の東方海域へ向かった。
「回天」搭乗員は以下の2名。
水知創一(少尉)=兵庫出身・予備学生4期(早稲田大)・21歳・没後大尉
北村十二郎(一飛曹)=長野出身・甲飛予科練13期(台湾新竹中)・21歳・没後少尉
北村は訓練中に殉職した矢崎美仁上飛曹の遺骨を抱いての乗艦。
伊165は出撃後消息不明。
第6艦隊司令部は伊165は7月29日に喪失と認定した。

多聞隊・伊47 (20年7月19日出撃)
伊47(艦長:鈴木正吉少佐)は7月19日午後、光基地を出撃。
「回天」搭乗員は以下の6名。
加藤正(中尉)
桐沢鬼子衛(少尉)
石渡昭三(一飛曹)
河村哲(一飛曹)
新海菊雄(一飛曹)
久本晋作(一飛曹)
7月23日、沖縄とパラオ島を結ぶ洋上に到着し、哨戒を開始したが艦船との遭遇なし。
7月29日、第6艦隊司令部からの指示によりフィリピン北東方面へ移動。
7月30日、浮上航行中に台風の暴風圏に突入してしまい、荒波のため航走充電が出来なくなり潜航。
翌日も荒天で浮上できず放電量が限界となる。
8月1日夜になってやっと充電ができたが、この荒天のため「回天」1号艇(加藤中尉)が流失し、他の「回天」も多くが浸水した。
8月4日、第6艦隊からの指示で再び哨区を変更。
8月6日に帰投命令を受け、8月13日に光基地に帰還した。

多聞隊・伊366 (20年8月1日出撃)
伊366(時岡隆美艦長)は5基の「回天」を搭載して光基地を出撃し、沖縄東南方面へ向かった。
「回天」搭乗員は以下の5名。
成瀬謙治(中尉)=愛知出身・海軍兵学校73期・21歳・没後少佐
鈴木大三郎(少尉)=故障のため発進せず。
上西徳英(一飛曹)=福岡出身・甲飛予科練13期(県立築上中)・18歳・没後少尉
佐野元(一飛曹)=京都出身・甲飛予科練13期(園部中)・18歳・没後少尉
岩井忠重(一飛曹)=故障のため発進せず。
8月11日、パラオ島北方500カイリ、沖縄とウルシーを結ぶ洋上で大輸送船団と遭遇。
成瀬、上西、佐野の3艇が出撃し体当たりに成功。
残りの2基は故障のため発進不能。
その後、敵艦と出会えぬまま洋上で敗戦を迎え帰還した。

多聞隊・伊363 (20年8月8日出撃)
伊363(艦長:木原栄少佐)は8月8日、光基地を出撃し沖縄東方海域を目指した。
「回天」搭乗員は航行訓練中に殉職した和田稔中尉に代わって、3度も出撃し生還していた園田一郎少尉を加えた以下の5名。
上山春平(中尉)
石橋輝好(一飛曹)
小林重幸(一飛曹)
久保吉輝(一飛曹)
園田一郎(少尉)
8月12日、鹿児島沖を南進中に8月9日のソ連参戦を受け、日本海に配備が変更された。
8月14日正午過ぎ、五島列島東方海上を浮上して北進中に米戦闘機に襲われ敵の機銃掃射により船体損傷。
2人が戦死、2人が負傷。
さらに浸水により調整能力を失い、深さ90mの海底に沈む。
約3時間後、メインタンクの排水が功を奏し浮上。
その後、「回天」発進の機会を得ぬまま、損傷修理のため佐世保海軍工廠に入港した。
翌15日敗戦。
8月20日、光基地に帰投。

(参考:『人間魚雷回天~命の尊さを語りかける、南溟の海に散った若者たちの真実~』 ザメデシアジョン 2006年第3刷発行)




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