比企能員 ひき・よしかず

?〜建仁3年9月2日(1203年10月8日)


武蔵国比企郡の豪族。
上野・信濃両国の守護。
藤四郎と称す。
源頼朝の乳母・比企尼の姉妹の子で、比企氏を継ぐ。
将軍家との縁が深く、妻や義妹らは源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家のの妻となる。
文治5年(1189)の奥州合戦では北陸道大将軍、翌年の大河兼任かねとうの乱では東山道大将軍、頼朝の死後は将軍・頼家の外戚として勢威をふるった。
建仁3年(1203年)頼家が危篤となると、若狭局の生んだ長子・一幡いちまんの擁立をはかり、弟・千幡(実朝)を推す北条氏と対立。
同年9月、北条時政の名越亭で謀殺された。


比企能員邸跡



比企能員邸跡
(神奈川県鎌倉市・妙本寺総門附近)





(平成18年9月24日)

比企能員邸址

能員ハ頼朝ノ乳母比企襌尼ノ養子ナルガ襌尼ト共ニ此ノ地ニ住セリ
此ノ地比企ヶ谷ノ名アルモ之ニ基ク能員ノ女頼家ノ寵ヲ受ケ若狭局ト稱シ子一幡ヲ生ム
建仁3年頼家疾ムヤ母政子關西ノ地頭職ヲ分チテ頼家ノ第2幡ニ授ケントス
能員之ヲ憤リ密ニ北條氏ヲ除カント謀ル
謀泄レテソク郤ツテ北條氏ノ為一族此ノ地ニ於テ滅サル

大正12年3月
鎌倉町青年團建

比企能員公一族の墓



比企能員公一族之墓

(神奈川県鎌倉市・妙本寺)





(平成18年9月24日)
妙本寺


妙本寺・二天門

(神奈川県鎌倉市大町1−15−1)

比企一族の中で一人生き残った比企能本よしもとが創建。



(平成18年9月24日)

【比企一族の滅亡】

丹後内侍の母、比企尼には男子がいなかった。
そこで親族から養子を取って家を継がせた。
比企能員である。
なにしろ源頼朝の大恩人、比企尼の「息子」だから出世は早い。
頼朝の長男、頼家に能員の娘が嫁ぎ男子を産んだ。
その子が成長して将軍になれば比企一族は栄華を極めることになる。

ところがそれを許さなかったのが、頼朝の正妻、北条政子とその一族だった。
なんと、政子は自分の腹を痛めた頼家を将軍の座から追放し(のちに暗殺)、北条一族は兵を送って比企一族を比企の娘が産んだ頼家の子供もろとも滅ぼしてしまった。
そして、次の将軍には母、政子に絶対逆らわない次男の実朝を立てた。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月11日 追記)




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