彦根城 ひこねじょう

(別称:金亀城)

彦根市金亀町1−1


上野国箕輪こうずけのくにみわ城主・井伊直政いいなおまさは慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで軍功を上げ、徳川家康から石田三成の近江の国の旧領を与えられて佐和山さわやま城に入った。
佐和山城に移った直政は、この城の不便さを痛感し、新しく城を築く場所を探していたが、、慶長7年、直政は合戦の時の鉄砲傷が原因で死没してしまった。
嫡男の直継なおつぐ(のちの直勝)が家督を継いだが、幼少であったため家老の木俣守勝きまたもりかつの進言により金亀山を最適地として選んだ。
慶長8年(1608年)、徳川家康の許可を得て金亀山に新城を築き始める。
工事は7ヶ国12大名手伝いを命じられ、公儀御奉行3名が指揮をとる天下普請であった。
天守は京極高次の大津城、西ノ丸三重櫓は浅井長政の小谷おだに城、天秤てんびん櫓は豊臣秀吉長浜城、太鼓門は石田三成の佐和山城から、それぞれ移築されたといわれている。
慶長11年(1606年)竣工。昭和32年から35年にかけて解体修理が行われた。


彦根城遠景 平成18年4月10日再訪問

彦根城

この彦根城は、慶長5年(1600年)井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601年)上野の国高崎城から佐和山城に移ってきた。
その後直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死し、慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志を受けて彦根城の築城に着手した。
時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ヶ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に20年の年月を要したもので、城地面積約0.25Km2 (75,800余坪)周囲約4q(1里)高さ約50メートルの彦根山に築城した平山城である。
昭和26年(1951年)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・三重櫓・佐和口多聞櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952年)には天守閣を国宝に、同31年(1956年)には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。
また、新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。

(説明板より)

彦根城天守閣





甲州流築城法による平山城
三層五階の天守(国宝)


(平成13年9月29日)

天守閣 (平成18年4月10日再訪問)

彦根城

元和8年(1622)に20年の歳月をかけて完成。
唐破風、千鳥破風、火灯窓をつけた華やかな天守は国宝に指定され、彦根の象徴ともなっている。
また、天守をめぐる石垣と内濠、中濠を持ち、城郭が往時のまま現存し、全国でも数少ない名城として名高い。

(観覧券の説明文より)

天守閣(国宝)

天守閣は、京極高次が築いた大津城の天守を移築したものといわれ、慶長11年(1606年)に完成した。
石垣は「ごぼう積み」といって外見粗雑に見えるが、頑丈な積み方で彦根城特有のものである。
また天守閣は規模こそ小さいが、巧みに組み合わされた屋根の配置が実に妙を得たものとなっている。

(説明板より)

天守閣内部



天守閣内部







(平成18年4月10日再訪問)
天守閣内部



天守閣内部







(平成18年4月10日再訪問)
本丸跡




本丸跡






(平成18年4月10日再訪問)

本丸跡

国宝天守を始め天守の東側に御広間・文庫二棟、また本丸東石垣に沿って東北に二階櫓・多門櫓がこの本丸に築かれてあったが、天守以外の建物は明治になって取り壊された。
御広間は、東西に長く南北10.8メートル(6間)に東西37メートル(15間)で、表御殿が山下に営まれるまで藩主の居館となっていた。

(説明板より)


石段



石段







(平成18年4月10日再訪問)

お城の石段

彦根城天守へ登る山道は4箇所ありますが、その石段は非常に登りづらいと言われています。
もともと城への石段は、万一敵が攻め入った場合、歩調が乱れ一息で登れないよう、意図的に不規則に造られているものです。
お寺の屋根のように、最初はゆるやかな登りが、登るにつれて斜度が急になり登りにくくなったり、踏み幅や踏み高を微妙に違わせ一定にせず、敵に対しては足元に注意を向けながら登らせ、上から攻撃しやすくしているのです。
観光客の皆さんには、大変登りづらいと思いますが、十分気をつけてご見学ください。

(説明板より)

天秤櫓




天秤櫓






(平成18年4月10日再訪問)
天秤櫓




天秤櫓






(平成18年4月10日再訪問)

天秤櫓てんびんやぐら(重要文化財)

この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれているもので、ちょうど天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれた。
この形式は、わが国城郭のうち彦根城ただ一つといわれている。
嘉永7年(1854年)に中央部から西方の石垣を足元から積み替えるほどの大修理があり、東半分の石垣がごぼう積みであるのに比べ西半分は落とし積みになっている。

(説明板より)

鐘の丸



かねの丸







(平成18年4月10日再訪問)

鐘の丸

築城当時時報鐘をここに置いていたためこのような名称となっている。
鐘の音が城下北隅に達しないので鐘を太鼓門櫓外(現在地)に移した。
この鐘の丸には、大広間御殿と御守殿の二つの建物があったが、大広間御殿は享保17年(1732年)江戸屋敷の広間として移され、御守殿は明治のはじめまでここにあった。

(説明板より)

時報鐘



時報鐘







(平成18年4月10日再訪問)

時報鐘じほうしょうと聴鐘庵ちょうしょうあん

この鐘は、12代藩主井伊直亮の弘化元年(1844年)に鋳造したもので、当初鐘の丸にあった鐘の音が城下の北の隅にとどかなかったので現在地に移した。
現在は午前6時、9時、正午、3時、6時と1日5回ついている。
大老井伊直弼は禅の精神と相通ずる茶道にひかれ自らも「宗観むねみ」と号し、修業を続けた。
大老の著「茶の湯一会集」に書かれている「一期一会」の茶道精神は有名である。
この精神をしのび、時報鐘の管理棟を改造した聴鐘庵で薄茶の接待をいたしております。

(説明板より)

太鼓門櫓



太鼓門櫓







(平成18年4月10日再訪問)

太鼓門櫓(重要文化財)

本丸の表口をかためる櫓門で、築城後、ここに太鼓をおいて城中に合図をしたところから、この名が付いた。
この櫓は、その昔、彦根山にあった彦根寺の桜門ではないかといわれ、門の両柱にある釘跡は、当時、巡礼が札をかけた釘穴跡だともいわれた。
しかし、昭和32年(1957年)の解体修理によって、この釘跡は移築前の建造物の痕跡であることが明らかになった。
現在、この建物の内部に全国各地の城の写真を展示している。

(説明板より)

月見櫓跡



着見台(月見櫓跡)







(平成18年4月10日再訪問)

着見台(月見櫓跡)

もとここに、9.8メートル(5間)に10.6メートル(6間)の二重櫓があって着見台(月見櫓)といい、佐和に出る月を見て観月雅会が催された。
また城門佐和口及び京橋口の看視に当たり、城門へ到着する早出、早馬、行列の先触などをいち早く発見して役人に連絡したのである。
明治初年には櫓はとりこわされ、いまは展望台としては眺望はよく、中秋の名月の夜のながめはすばらしいものがある。

(説明板より)

西の丸




西の丸






(平成18年4月10日再訪問)
西の丸三重櫓



西の丸三重櫓







(平成18年4月10日再訪問)
西の丸三重櫓



西の丸三重櫓







(平成18年4月10日再訪問)

西の丸三重櫓(重要文化財)

天守閣から西の方にある広場を西の丸という。
この西の丸のはずれの10メートルにもおよぶ石垣上にある三重櫓は、浅井長政の小谷城の天守を移築したものといわれ、万治年間(1658〜61年)に建てられたものである。

(説明板より)

重要文化財 彦根城西の丸三重櫓及び続櫓

この櫓の創建年代については明らかな記録がないが本丸に続く中心部であり、早期に完成したことが考えられ、井伊年譜によれば万治2年(1659)には実在していることがわかる。
三重三階の櫓を隅ににして二面に一重櫓を続け、L字形の平面をなしており、昭和35年に三重櫓の軸組を残して全部解体修理を行った。
この時の調査で嘉永5年(1853)には主要部材の8割近くまで取替えて建直し、形式工法等嘉永建築とみるのが妥当であることがわかった。

昭和53年10月
彦根市教育委員会

(説明板より)

観音台




観音台






(平成18年4月10日再訪問)

観音台と人質郭かく

ここを観音台といい、往時産土神が祭られていたと伝えられている。
藤原鎌足の子藤原不比等が近江の大守に任じられて淡海公と呼び、この土地に住まわれたこともあり、その子藤原房前が護持仏として所持していた黄金の亀の背に乗った高さが1寸8分の聖観音を本尊にして一寺を建立し金亀山彦根西寺観音と名付けた。
それは養老4年(720年)元正天皇の御代のことであった。
その時以来彦根山を金亀山ともいい後に出来た彦根城を金亀城とも呼ぶようになった。
なお、ここは旧藩時代に出郭があり、合戦の際に質子を入れるため人質郭と呼ばれていたが、今はこの郭も取り払われて残っていない。

(説明板より)

黒門




黒門






(平成18年4月10日再訪問)

黒門西側の高石垣

黒門を境に左右の石垣の高さが違います。
右の部分(西側)は当時、びわ湖の入湖に突き出ていたため、敵から直接船での攻撃に備え、城郭を堅固するため高石垣にしたものです。
公園部分は後に埋め立てられたものです。

(説明板より)

いろは松



いろは松
(彦根城・佐和口多聞櫓前)





(平成18年4月10日再訪問)

いろは松

昔は47本あったところから、いろは47文字の頭三文字をとって”いろは松”と呼ばれた。
この松は土佐松で地上に根を張り出さず人馬の往来の邪魔にならないので、わざわざ高知から移植されたものである。

(説明板より)

佐和口多聞櫓



二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)







(平成18年4月10日再訪問)

二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)

元和8年(1622年)井伊直孝の第二期築城工事の際に完成したものといわれている。
左側の建造物は、明和4年(1767年)火災に遭い、明和6〜8年に再建された。
右側の建造物は、明治初期陸軍省に取りこわされたが、開国の大偉業をなしとげた直弼が桜田門外にたおれた時(1860年)から数えて100年目(昭和35年)の時大老開国百年祭記念事業としてその跡地(石垣は、築城当時のもの)に再建されたものである。

(説明板より)


【彦根城】

佐和山城攻めの総指揮をとった井伊直政は、三成一族が滅びた後、関ヶ原戦の翌慶長6年(1601年)に禄高18万石で佐和山城に入った。
直政は領内を検分して歩くうちに、佐和山の近くの磯山のほうが城地として有利だと考えるようになった。
城の近世的機能という見地からすると、高い山頂に孤立する佐和山城は何かと不便だったのである。
そこで直政は、磯山に城を移すことを検討し始めた。

磯山は、又の名を彦根山という。
彦根山の地名はすこぶる古く、天照大神の子・活津彦根命いきつひこねのみことが鎮座したことによってその名が生じたという。
さらに奈良・平安時代にも金亀山彦根寺や彦根山西寺せいじなどが建立され、周辺の開拓が進んでいた。

しかし、直政は翌慶長7年2月、佐和山城内に没したため、磯山(彦根)築城の望みを果たすことはできなかった。
直政の宿願を実現に移したのは、子の直継(直勝)である。
直継は家康に彦根移転を願い出て許されると、慶長8年(1603年)に築城工事に取り掛かった。
家康は彦根築城を認めたばかりではなく、12家の大名に命じて工事を手伝わせている。

彦根山は高さ50メートル、周囲4キロほどの小丘で、その頂部に本丸を営み、麓を城下町として琵琶湖水運とつながる掘割を巡らせた。
工事は意外に手間取り、慶長11年、本丸と天守閣は完成したものの、全体の築城工事が終了したのは、元和8年(1622年)のことである。
その間に、藩主は直継から弟の直孝に替わり、禄高も25万石(のちに30万石)に増加した。

彦根城には、近江各地の城の遺構が活用されている。
たとえば、三重三階、唐破風からはふや華頭かとう窓を多用し、国宝に指定されている天守閣は、京極高次の築いた大津城天守閣を家康の指図によって移建したものである。
このほかにも、彦根城の諸施設には同様の来歴を持つものが多い。

(天秤櫓)
秀吉が創案して長浜城に設けたもので、用材は全てクスノキ。
(太鼓門)
伝説では、もとは彦根山西寺の楼門だったというが、解体修理の結果、おそらく佐和山城の城門ではなかったかとみられている。
(隅櫓)
小谷城の天守閣だったものを、秀吉が長浜城に移し、さらに彦根築城時、隅櫓として移建されたものという。
(表御殿)
藩政の中枢で、往時は御守殿、書院など多くの部屋があり、そのうちの大広間は、宇喜多秀家の伏見屋敷の書院を移したものと伝える。
いまの彦根城博物館で、昭和62年に復元された。

なお、彦根城は、これほどの要衝を占めながら、一度も戦火を浴びることなく明治維新を迎えた。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月11日 追記)


馬屋



馬屋(重要文化財)


普段は非公開で、特別公開時のみ見学できるようです。
私が訪れた時は4月1日〜4月20日まで特別公開していました。



(平成18年4月10日再訪問)

馬屋(重要文化財)

藩主の馬部屋で常時十数頭が何時でもご用に役立つよう大切に保護されていた建物で、現在残されているのは彦根城のみで他に類例のない珍しい建物である。
L字形をなしており、全長62.2メートル奥行5.9メートルある。

(説明板より)

馬屋内部




馬屋内部





(平成18年4月10日再訪問)

サラブレットより小さな江戸時代の馬

元禄時代に建てられたこの馬屋は、藩主の馬十数頭がつながれていました。
このような大きな馬屋としては、ここ彦根城だけに、今も残されており、非常に珍しい例とされています。
ここに、再現しました馬のように、当時のものは、現在、競走馬などで使われている「サラブレット種」等に比べ、一廻り小さな馬であったと伝えられています。
今日でも、一部に残る木曽馬などが、江戸時代に使われてたと言われています。

(説明板より)

馬屋の図 説明板より

馬屋

馬屋うまやは、二の丸佐和口多聞櫓のすぐ北側に位置するL字形をした建物で、北側に潜戸くぐりどをつけた門があり、内部には、21もの馬立場うまたてば・馬繋場うまつなぎばが設けられ、東端には馬を管理する小部屋が付けられています。
屋根は、柿葺こけらぶきで、壁は、上を大壁とし下を簓子下見板張ささらこしたみいたばりとなっています。
この馬屋には、常時藩主の馬十数頭がつながれていました。
建立年代は明らかではありませんが、元禄年代(1688〜1703)頃と考えられています。
この馬屋は、全国の近代城郭内に残る大規模なものとして、他に例がなく昭和38年7月1日に重要文化財に指定されています。

(説明板より)


楽々園



楽々園(槻御殿)







(平成18年4月10日)

楽々園

旧藩主の下屋敷で、槻御殿の名のほかに黒門外(前)屋敷とも称されたが、現在は楽々の間にちなんで楽々園と呼ばれている。
1677年四代藩主直興により造営が始まり、1679年に完成、その後数回にわたり増改築が行われ、往時には能舞台を備えた広大な建物であったが現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間等の一部が残っている。
戦後、松原内湖が埋め立てられて、全く景色が変わってしまったが、この屋敷からの内湖の眺めは伊吹山や佐和山、磯山等を望んで非常に美しかったので、楽山楽水の意かとも思われる。
また「民の楽を楽しむ」という藩主の心を表したものでもあろう。
庭は枯山水で、布石の妙を極めている。
開国の英傑井伊直弼も1815年10月29日に父直中の14男としてこの屋敷で生まれた。

(説明板より)

槻御殿けやきごてん

第4代藩主井伊直興が延宝5年(1677年)に着手し、同7年に完成したもので、下屋敷として築造され、木材はすべて槻(ケヤキ)でその華麗さは各大名も驚嘆したものである。
大老井伊直弼は、文化12年(1815年)10月29日ここで生まれた。
これらの建物は数棟の東屋(あずまや)よりなり、今日に至るまでしばしば修理が加えられたが、往時のおもかげをとどめている。
第12代藩主井伊直亮が文化年間(1804年〜1817年)楽々之間を増築して以来、槻御殿という正式の名よりはむしろ楽々園のほうが有名になった。
楽々園の名は「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」の意からとったといわれ、民の楽を楽しむという仁政の意をもっているともいわれている。

(説明板より)

御殿内部



御殿内部







(平成18年4月10日)
御殿内部



御殿内部







(平成18年4月10日)
地震の間



地震の間







(平成18年4月10日)

地震の間(御茶座敷)

江戸時代には、地震の時に逃げ込むための部屋を造った例はいくつかあったらしいが、現存のものはほとんどない。
この地震の間は、日常、御茶座敷として使用されていたが、構造の細部を総合的に見ると、最初から耐震構造の意図のもとに計画されたことは間違いないと思われる。
その根拠となる構造、手法の特色と仕手は、人工的な岩組みによって建築地盤を堅固にしており、柱が土台に固定されておらず、天井裏で対角線方向に綱が張ってある。
さらには、建物全体を軽快な数奇屋造とし、屋根を軽いこけら葺き、土壁も比較的少なくしている。
また、下部の床組に大材を用いて重心を低くし、地震力を小さくする、基本的な耐震建築の様式を採用している。

(説明板より)

古写真 槻御殿(楽々園)入り口古写真

楽々園正面入り口



楽々園正面入り口

現在整備中




(平成18年4月10日)
事業名 楽々園保存整備事業
場所 名勝玄宮楽々園(国指定日:昭和26年6月9日)
事業概要 楽々園は、彦根藩第4代藩主井伊直興なおおきにより延宝5年(1677)に造営が始まり、同7年に完成した彦根藩の下屋敷です。
かつては「槻御殿」の名のほか、「黒門外屋敷」、「黒門前屋敷」などとも称され、広大な玄宮園を南東にひかえて隠居した藩主やその一族が日常生活を送っていました。
現在は、12代藩主直亮なおあきが設けた「楽々の間」に因んで、「楽々園」と呼んでいます。
この下屋敷は、度々の増改築を繰り返しており、文化10年(1813)には11代藩主直中なおなかの隠居に伴い大規模な増築が行われ全盛期を迎えましたが、その後は縮小傾向に転じ、現在に至っています。
今回の事業は、現在残っている「玄関」や「御書院」等の歴史的な建造物が老朽化したため、平成17年度より、中長期的な計画のもと、各棟ごとに全解体修理等の抜本的な保存整備を行うものです。

整備イメージ図 整備イメージ


玄宮園 平成18年4月10日

玄宮園

大池泉回遊式の城郭庭園で延宝5年(1677年)第4代藩主井伊直興が造営した。
中国湖南省洞庭湖の瀟相八景にちなんで選ばれた近江八景や、竹生島・沖の白石になぞらえて築庭されたもので、中国唐時代の玄宗皇帝の離宮からその名をとった。
江戸時代初期の作庭を今に伝える名園で、昭和26年に国の名勝に指定されている。

(説明板より)

二季咲桜


二季咲桜
にきざきさくら

昭和47年4月に水戸市(友好都市)より寄贈されたもので冬(11月から1月)と春(4月から5月)の年2回開花します。
(説明板より)


(平成18年4月10日)


表御殿



表御殿(彦根城博物館)






(平成18年4月10日再訪問)

表御殿

ここは、彦根藩主の藩庁であったところで、ここで藩の政治がおこなわれ、また藩主が日常生活をおくりました。
この建物は、彦根城郭の主要な建物の一つであった表御殿を復元したもので、目の前に広がる大きな2棟の建物は、対面や儀式に使われた書院造りの建物である。
表御殿の中央を占める能舞台や藩守が日常生活をいとなんだ奥向は、当時の姿さながらに木造で復元しており、現在これらの建物は彦根城博物館として開館している。

(説明板より)

※ 説明板に書かれている「藩守」は「藩主」の誤記ではなかろうか?

彦根城博物館
彦根城博物館は、博物館であるとともに彦根城郭の主要な建物の一つであった表御殿を復元したものです。

入館料:一般500円 小・中学生250円    (平成13年現在)
告知板



彦根城築城400年祭・告知板

2007年3月21日〜11月25日の予定です。
私が訪問したのは開催345日前でした。



(平成18年4月10日)

彦根城の堀



彦根城の堀







(平成18年4月10日)

彦根城堀の歴史

慶長6年(1601)関ヶ原の合戦で落城した佐和山城に入った井伊直政は、荒廃していた佐和山城にかわる新たな築城地を求めていましたが、翌年関ヶ原で受けた鉄砲傷がもとで死亡しました。
直政のあとを継いだ直継は、慶長8年(1603)幕府の許可を得て、ここ彦根山にて城普請に着手しました。
その後、直孝に引き継がれた城普請は、元和8年(1622)、約20年の歳月を費やして、城郭や三重の堀のほぼ全容を現しました。
こうして巡らされた三重の堀により、天守を中心とする城郭施設を第一郭として、内堀と中堀の間を第二郭、中堀と外堀の間を第三郭として位置づけ、北進してくる外敵に対して、善利川(現芹川)を第一次防御線とした幾重にも渡る防御網を実現させました。
このように、城を防御するためにつくられた堀は、明治時代以降それまでとは違った形で利用されました。
明治39年(1906)、中堀の一部が借り入れられ、鯉の稚魚の飼育が試験的に行われました。
明治41年(1908)には、中堀は滋賀県水産試験場の管理する養魚場としてあらたに生まれ変わりました。
外堀については、その一部が明治維新後間もない時期に、畑として埋め立てられ、その後、昭和25年(1950)には残ってた外堀がマラリヤ撲滅のために埋め立てられました。
よって、現在、彦根城の外堀はほとんど姿を消しています。
築城以来約400年におよぶ歴史のもと、彦根城堀は、今日では彦根城域の一部として特別史跡に指定され、市民をはじめ数多くの人々に親しまれています。

(説明板より)

家老脇家屋敷跡


家老 脇家屋敷跡



脇家は代々井伊家の家老にして後裔に脇光三あり
明治36年4月10日蒙古にて死去行年25才
(碑文より)


(平成18年4月10日)
家老西郷屋敷跡



家老 西郷屋敷跡







(平成18年4月10日)

彦根市指定文化財
旧西郷屋敷長屋門 附袖塀 堀及び高麗門


昭和48年4月28日指定

内濠と中濠とに囲まれたこの附近一帯は、上級武士の屋敷があったところで、この位置は、江戸時代後期の天保7年(1836)に作成された彦根御城下惣絵図によれば、西郷伊豫(三千五百石老中)屋敷にあたります。
この長屋門は老朽化に伴い平成4年度から平成7年度にかけて大阪高等裁判所によって解体修理が実施されました。
修理中に発見された墨書により、この長屋門は寛保2年(1742)に西隣の庵原家で建てられたものを、明治16年(1883)に裁判所が整備されることに伴い、現在の場所である旧西郷屋敷地内に移築されたものであろうと考えられます。
これだけ大きな長屋門はほかに例が少なく、城と濠と長屋門、それに続く土塀から昔のおもかげを今も伝えています。

この長屋門の構造・形式
桁行43.9メートル、梁間5.0メートル
一重、入母屋造、背面庇附き、桟瓦葺

彦根市教育委員会

(説明板より)

旧鈴木屋敷長屋門



旧鈴木屋敷長屋門







(平成18年4月10日)

旧鈴木屋敷長屋門

旧鈴木屋敷長屋門ながやもんは、彦根城の中堀に面した第三郭かくに建っています。
かつて当地一帯は300石以上の中級武家屋敷が広がっていました。
天保7年(1836)に城下町を描いた『御城下惣絵図ごじょうかそうえず』によると、当地には鈴木家5代権十郎重用ごんじゅうろうしげもちの名があります。
重用の当時の知行ちぎょう(給与)は350石で、彦根藩の藩校弘道館こうどうかんの物主ものぬし(事務長)や書物奉行・中屋敷留守居役なかやしきるすいやくなどを職務としていました。
かつての屋敷地は、間口10間半(約21m)、奥行27間半(約55m)ありましたが、現在は主屋などすべてが取り壊され、長屋門のみ現存しています。
長屋門は、桁行けたゆき8間(約16m)、梁間はりま2間(約4m)の切妻きりつま造りで、正面右に偏して門が設けられ、門の右に1部屋、左に3部屋の小部屋が連なります。
これらは、中間ちゅうげん(武家奉公人)や女中の部屋のほか、馬屋や物置として利用されました。
建物上半を白漆喰壁しろしっくいかべ、腰より下を下見したみ板張りとし、要所には格子窓こうしまどを設けています。
棟束むなづかに文久2年(1862)の墨書があり、幕末の建物であることが判明しています。
彦根藩では分限ぶんげん(身分)に応じて長屋門の格式が定められていたようですが、こお建物は彦根藩の中級武家屋敷の典型をなす長屋門として貴重であり、昭和52年(1977)に彦根市指定文化財に指定いたしました。

(『彦根市指定文化財:解説シート』より)


井伊直弼・青春時代の館
埋木舎[うもれぎのや]
(国指定特別史蹟)

井伊直弼は文化12年(1815年)、十一代藩主井伊直中の十四男として誕生。
5歳で母を、17歳で父を失ったので藩の掟に従い300俵の捨扶持で彦根城佐和口門御門前の公館で、32歳までの15年間を暮らすことになる。
(埋木舎のパンフレットより)

入館料:大人300円 高校・大学生200円 小・中学生100円
休館日:毎週月曜日(祭日の場合は翌日)

(2001年現在)


井伊直弼の銅像





彦根城内の井伊直弼大老像



(平成18年4月10日)
井伊直政の銅像





JR彦根駅前の井伊直政



(平成18年4月10日)

Books

心のふるさとをもとめて日本発見(13) 名城
暁教育図書  昭和55年発行  1700円
復元イラストと古絵図で見る 日本の名城
全国城郭管理者協議会/監修  碧水社  1998年改訂第2刷発行 1,600円+税
埋木舎〜井伊直弼の青春〜(改訂版)
大久保治男 著  高文堂出版社  平成3年改訂版1刷発行  1,250円
(内容)
1.舟橋聖一「花の生涯」と埋木舎
2.井伊直弼の生涯と埋木舎
3.埋木舎の環境
4.埋木社の建物の概況
5.直弼の埋木舎における禅と武道の修行
6.直弼の埋木舎における茶道
7.埋木舎と湖東焼
8.直弼と長野主膳と埋木舎
9.直弼と和歌と埋木舎
10.大久保家と埋木舎
11.礼宮様御尊来、埋木舎全面解体修復完了、一般公開など埋木舎の大発展期

 (関連商品のご紹介)

彦根城  彦根藩



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