飛行第19戦隊


慰霊碑



『飛行第19戦隊 慰霊之碑』

(京都市東山区・霊山観音)




(平成16年4月2日)

碑文

飛行第19戦隊は昭和18年12月北伊勢の地にて飛燕戦斗隊として誕生
19年6月、勇躍比島に前進、船団掩護に任じ、次いで反攻し来る米機動部隊艦載機群と熾烈な空中戦を展開、10月捷一号作戦下令、レイテの敵艦船を攻撃、多大な戦果と共に多くの戦友また散華す。
11月愛知県小牧で戦力回復、Bー29を邀撃、撃墜、20年1月再度鵬翼を南の空にのばし、ルソン島リンガエン湾の敵艦船を特攻攻撃、3月天号作戦下令、沖縄進攻の米機動艦隊に対し、台湾宜蘭飛行場より、誠特別攻撃隊となり相次いで沖縄の空に散華、護国の鬼となれり。
北部ルソン島残留の地上勤務者は、運命を陸軍部隊と共にせり。
8月、戦隊は台湾花蓮港にて終戦を迎う。
戦歿者四百余柱
謹んで戦隊史を記す。

昭和49年3月24日
飛行第19戦隊飛燕会


【飛行戦隊】

日華事変中の昭和13年8月、制度を改めて従来の飛行連隊や飛行大隊は飛行戦隊と改称し、陸軍航空兵力の基礎単位となった。
戦隊長は少佐である。
主として内容は同一機種である。
1個飛行戦隊は3個飛行中隊からなる。
爆撃機なら1個中隊(9機)×3=27機、戦闘機なら1個中隊(12機)×3=36機というわけだが、予備機や欠員も多く、必ずしも一概には言い切れない。
飛行戦隊は独立した飛行場大隊の世話になった。
飛行戦隊は時には兵力の3分の1=1個中隊を本隊と分離し、別の方面に貸与してやる場合も多い。
太平洋戦争終了までに100以上の飛行戦隊があった。

偵察機は少数機で忍者のように行動するから、飛行戦隊よりも独立飛行中隊(8〜12機)として行動したものが多い。
もちろん偵察機の飛行戦隊もあったし、偵察機と構造のよく似ている軽爆(あるいは地上襲撃機)の中隊とコンビを組んで1個飛行戦隊を編成するケースもあった。
同じ部品を使っていると整備が容易だからであろう。

(参考:木俣滋郎 著 『陸軍航空隊全史』 朝日ソノラマ 文庫版航空戦史シリーズ90 1994年7月 第6刷発行)

(平成31年1月4日 追記)


【飛行第19戦隊】

通称号:誠第15352
飛行分科:戦闘
編成時期:昭和19年2月11日
編成地:明野(三重県)
使用機種:三式戦「飛燕」
終戦時の所在地:花蓮港(台湾)

昭和19年6月にフィリピンのマニラに進出。
8月、アンヘレスに進出。
10月、フィリピン・ネグロス島ラカルロタへ移駐する。
10月24日、レイテ航空総攻撃の援護に出撃。
ここで戦力のほとんどが枯渇し、戦隊の将校操縦者はゼロとなった。
11月、本土に戻り小牧で戦力を回復。
主力は台湾・台中へ展開。
1個中隊はフィリピンへ赴き、昭和20年1月8日、リンガエン湾を埋め尽くした米上陸部隊輸送艦船に対する特攻部隊の掩護に3機が出動し、全機が未帰還となった。
その後、主力は台湾・花蓮港に展開。
沖縄攻撃の天号作戦では3次にわたって特攻隊を出撃させた。

(参考:『別冊歴史読本 零戦と日本航空戦史』 新人物往来社 1996年11月発行)

(令和元年11月25日 追記)



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