飛行第50戦隊

(比島作戦時の所属:陸軍第8飛行師団  通称名:誠9914部隊)


飛行第50戦隊慰霊碑 飛行第50戦隊 慰霊碑

愛知県幡豆郡の三ヶ根山にある”殉国七士の墓”の近くにあります。

戦誌碑

飛行第50戦隊は昭和15年9月台湾屏東に於いて飛行第8戦隊戦斗中隊を基幹として編成せらる 翌16年8月第3中隊新設せられ九七式戦斗機装備の態勢を整う 同年12月8日大東亜戦争の勃発するや勇躍比島に出撃 年明くるや昭和17年1月主力は泰国ビルマに進出す 同年5月一時内地に帰還一式戦斗機「隼」に機種改変戦力を増強爾後ビルマの第一線にありて航空撃滅戦 爆撃隊掩護 地上作戦協力 要地防空或いは船団掩護の務めに任ず 此の間乾雨季の変転を縫い遠くニューギニアに支援或いは東部印度チンスキヤ飛行場を襲い印支空輸路の遮断に又昆明を衝き 時に長駆カルカッタに進攻す
インパール作戦に当たりては再度チタゴンを襲い敵空挺部隊を攻撃し 敵将をして賛嘆せしめたる拉孟守備隊に空中補給を敢行し更にはミイトキーナ飛行場を奇襲す
我が戦隊も損耗を重ねビルマ平原の落暉の中に諸霊帰投を待ち侘しことも幾度なりしか 3年有余に亘り西陲の鎖■ビルマの護持に任じ鉄桶の鵬翼及ばざる所なし しかれどもビルマ作戦全般の挫折はその勇戦奮闘も その戦果も いかんとも致し難く大勢は既に移り20年5月航空作戦は其の終局を迎うるに至る これより先昭和19年9月サイゴンにて 四式戦斗機「疾風」に再び機種改変 南部佛印に転進し 更に昭和20年7月本土防衛のため地上勤務員主力とも訣別し台湾 台中 嘉義に展開中終戦を迎う
忽忙茲に40年 碧空と海波和して静かなれど相共に語るを得ず 唯諸英霊の赫々の武勲と英姿を偲ぶのみ
茲に飛行第50戦隊及び関係の諸英霊に感謝敬弔の誠を捧げ 其の偉業を顕彰せんがため慰霊碑を此の地に建立す

昭和61年4月5日
飛行第50戦隊戦友会
慰霊碑建立奉賛会(遺族・戦友 有志一同)

*■はパソコン上で表示不可能な漢字だったので、■で表示しました。


【飛行戦隊】

日華事変中の昭和13年8月、制度を改めて従来の飛行連隊や飛行大隊は飛行戦隊と改称し、陸軍航空兵力の基礎単位となった。
戦隊長は少佐である。
主として内容は同一機種である。
1個飛行戦隊は3個飛行中隊からなる。
爆撃機なら1個中隊(9機)×3=27機、戦闘機なら1個中隊(12機)×3=36機というわけだが、予備機や欠員も多く、必ずしも一概には言い切れない。
飛行戦隊は独立した飛行場大隊の世話になった。
飛行戦隊は時には兵力の3分の1=1個中隊を本隊と分離し、別の方面に貸与してやる場合も多い。
太平洋戦争終了までに100以上の飛行戦隊があった。

偵察機は少数機で忍者のように行動するから、飛行戦隊よりも独立飛行中隊(8〜12機)として行動したものが多い。
もちろん偵察機の飛行戦隊もあったし、偵察機と構造のよく似ている軽爆(あるいは地上襲撃機)の中隊とコンビを組んで1個飛行戦隊を編成するケースもあった。
同じ部品を使っていると整備が容易だからであろう。

(参考:木俣滋郎 著 『陸軍航空隊全史』 朝日ソノラマ 文庫版航空戦史シリーズ90 1994年7月 第6刷発行)

(平成31年1月4日 追記)


ハンプ(ヒマラヤ)航路迎撃

ハンプ(ヒマラヤ)航路はインドと中国を結ぶ航空補給ルート。
毎月7,000トンから1万トンの物資が中国へ輸送され、国民党政権の継戦能力の向上と中国の米第14航空軍の戦力を向上させていた。
これに対し、陸軍は第5飛行師団に対し、現地の地上部隊支援と共にハンプ航路の切断という任務を与えた。
昭和18年(1943年)秋から翌年にかけて、飛行第50戦隊・飛行第64戦隊の戦闘機によってハンプ航路の敵輸送機迎撃が行われた。
この航路に対する最初の攻撃は昭和18年10月13日。
飛行第50戦隊の一式戦闘機『隼』8機により行われ、輸送機3機を撃墜。
『辻斬り』と呼ばれたこの攻撃は翌年以降も繰り返し行われた。

(平成18年8月6日追記)



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