(比島作戦時の所属:陸軍第8飛行師団 通称名:誠18969部隊)
「飛行第67戦隊 慰霊碑」 愛知県幡豆郡の三ヶ根山にある”殉国七士の墓”の近くにあります。 |
碑誌
飛行第67戦隊は 大東亜戦争にあたり 本土 千島 南西諸島 台湾 比島 ボルネオ シンガポールと転戦し レイテ ルソン ミンダナオ 沖縄等では激しい戦闘に参加した。
この間 168名の 戦友が 惨烈な戦局のもと 広範な戦域の空地において 非命に倒れた
ここに有志相寄り 碑を建て 万感をこめ 鎮魂の祈りを捧げる
昭和59年10月
飛行第67戦隊戦友有志
【飛行戦隊】
日華事変中の昭和13年8月、制度を改めて従来の飛行連隊や飛行大隊は飛行戦隊と改称し、陸軍航空兵力の基礎単位となった。
戦隊長は少佐である。
主として内容は同一機種である。
1個飛行戦隊は3個飛行中隊からなる。
爆撃機なら1個中隊(9機)×3=27機、戦闘機なら1個中隊(12機)×3=36機というわけだが、予備機や欠員も多く、必ずしも一概には言い切れない。
飛行戦隊は独立した飛行場大隊の世話になった。
飛行戦隊は時には兵力の3分の1=1個中隊を本隊と分離し、別の方面に貸与してやる場合も多い。
太平洋戦争終了までに100以上の飛行戦隊があった。
偵察機は少数機で忍者のように行動するから、飛行戦隊よりも独立飛行中隊(8〜12機)として行動したものが多い。
もちろん偵察機の飛行戦隊もあったし、偵察機と構造のよく似ている軽爆(あるいは地上襲撃機)の中隊とコンビを組んで1個飛行戦隊を編成するケースもあった。
同じ部品を使っていると整備が容易だからであろう。
(参考:木俣滋郎 著 『陸軍航空隊全史』 朝日ソノラマ 文庫版航空戦史シリーズ90 1994年7月 第6刷発行)
(平成31年1月4日 追記)
【飛行第67戦隊】
通称号:誠第18969
飛行分科:襲撃
編成時期:昭和18年2月25日
編成地:八戸(青森県)
使用機種:九九式襲撃機、二式複座戦闘機「屠龍」
終戦時の所在地:ザンボアンガ(フィリピン・ミンダナオ島南部)
昭和19年4月、千島(得撫島東雲、天寧)に移駐。
8月、沖縄に2ヶ月間だけ展開。
9月、フィリピン・ルソン島北部のアパリに展開。
10月24日、フィリピン・ネグロス島バコロドに展開してレイテ作戦に参加。
しかし、11月末には稼動機が1機となり、ザンボアンガに移動する。
(参考:『別冊歴史読本 零戦と日本航空戦史』 新人物往来社 1996年11月発行)
(令和元年11月25日 追記)
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