日野熊蔵像 平成20年2月21日

日野熊蔵 ひの・くまぞう

明治11年(1878年)6月9日〜昭和21年(1946年)1月15日

東京都渋谷区・代々木公園でお会いしました。


日野熊蔵の像




日野熊蔵之像
(東京都渋谷区・代々木公園)




(平成20年2月21日)

碑文

翁は熊本の産 豪放磊落 英仏独語に通じ 数理に秀で 選ばれて独逸に飛行機操縦を習得し 1910年12月19日 此地に於て発動機の不調を克服して グラーデ式を駆り 1分間1000米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである

昭和41年4月23日
松野 頼三

日本初飛行離陸の地




日本初飛行離陸の地

(東京都渋谷区・代々木公園)




(平成20年2月21日)
日本航空發始之地




日本航空發始之地
(東京都渋谷区・代々木公園)




(平成20年2月21日)

碑文

紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ
今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士■来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也

昭和15年12月
朝日新聞社

日本初飛行の地

1910年(明治43年)12月19日、当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単翼機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。
これが日本航空史上、最初の飛行である。

日本航空発始之地記念碑
建立 朝日新聞社
設計 今井兼次
彫刻 泉二勝麿

徳川好敏之像
建立 航空同人会
彫刻 市橋敏雄

日野熊蔵之像
建立 航空五〇会
彫刻 小金丸義久

東京都
昭和49年12月

(説明板より)

代々木練兵場跡



代々木練兵場跡
(東京都渋谷区・代々木公園)





(平成20年2月21日)

1910年(明治43年)4月、陸軍の日野熊蔵大尉(陸士第10期)と徳川好敏大尉(陸士第15期)、海軍から相原四郎大尉が、飛行機の購入とその操縦の習得のためにヨーロッパに派遣された。
海軍の相原大尉は不幸にもヨーロッパで事故死。
徳川大尉はフランスでアンリ・ファルマン複葉機とブレリオ単葉機を、日野大尉はドイツでグラーデ単葉機とライセンス生産のライト複葉機をそれぞれ購入して、その操縦技術を習得した。
2人の出張は最小限で、1910年10月下旬に帰国。
飛行場は所沢が完成していなかったので、代々木練兵場を整地して使うことになった。
1910年12月19日の朝、アンリ・フォルマン1910年型で、徳川大尉は代々木練兵場を一周飛行し、日本初の公式の飛行機による飛行を記録した。
ちなみに、この飛行機の単価は8363円である。(当時、少尉の月給は40円)

参考文献:伊澤保穂著『陸軍重爆隊』

(平成21年5月9日追記)


【日野式手製飛行機】

明治43年前後、日本に日野熊雄(※正しくは熊蔵)という歩兵大尉がいた。
歩兵大尉といえば、小銃を担いだ兵隊を引率して行軍し、射撃し、突撃する先頭の軍人であり、科学とは最も縁の遠い将校である。
その大尉は不思議と化学的な知識と才能のある天才であったから、「ブレゲー」の発動機の図面を見て、自身勤務していた東京砲兵工廠(今の後楽園の球場のある場所)の器具を駆使して、一種の日野式発動機を製作した。
当時、日野大尉は日野式拳銃というブローニングに対抗し得る立派な拳銃をも発明していた。

彼は日本の竹を主材として機体を製作、翼は木板と綿布、その脚は自転車の車輪を取りつけた。
かくて彼の飛行機は完成した。
彼は牛込区若松町の戸山学校で試験飛行をすることとなった。
戸山学校の裏庭は何万坪かある広い平坦な土地であった。
長さは800メートルもあったろうか。

戸山学校の裏庭の一隅に日野式手製飛行機がその偉躯を輝かしていた。
待つこと1時間、日野大尉が機上の人となった。
プロペラの音が轟々と天空に響いた。
飛行機は初めは緩く、終わりは速く滑走をし、第1回試験ではただ飛行機はプロペラの回転で進むものだということを私どもに示した。

第2回の試験では、飛行機が1、2尺(0.5メートルくらい)も空中に飛び上がったことを、認めた者もあり、認めない者もあったような実情であった。
越えて2週間目、日野が再び代々木練兵場で本格的試乗を行うと伝えられた。
前回の戸山学校は滑走距離が短いため、飛び上がれないというのである。
当時の飛行機は飛ばせてみてその性能を検査する以外に方法がなかったのである。
日野は勇を鼓して500メートル以上も滑走の後、上昇舵をとったところ、飛行機は50メートルも上昇した。
観覧中の千人程の人々は拍手喝采、これに応えた。
ところがわが日野機はたちまちにしてもんどり打って、代々木八幡に近い練兵場内の大木の梢に引っかかり、おかげで日野は死なずにすんだという始末であった。
いずれにしても、日本製飛行機が何秒か空中に留まったことは日本の航空歴史上重大記録ではないか。

(参考:樋口季一郎 著 『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』 昭和46年10月 第1刷発行 芙蓉書房)

(令和元年12月14日 追記)


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