日野俊基 ひの・としもと

?〜元弘2年(1332年)


後醍醐天皇の近臣。
元亨3年(1323年)後醍醐天皇に抜擢されて蔵人頭くろうどのとうとなり、後醍醐天皇の倒幕計画に参画。
正中元年(1324年)謀議が幕府に漏れて捕らえられ鎌倉に送られたが、許された。(正中の変)
元弘元年(1331年)再び後醍醐天皇の倒幕計画に参加して露見。
捕らえられて鎌倉に送られ(元弘の乱)、翌年殺された。


日野俊基の墓



日野俊基の墓
(神奈川県鎌倉市・葛原ヶ岡公園)





(平成18年9月23日)

国指定史跡
日野俊基墓

指定 昭和2年4月8日

日野俊基は鎌倉時代末期の朝臣
後醍醐天皇につかえ倒幕計画に参加した。
正中の変(1324)に捕らえられ許されたが、元弘の乱(1331)の時再び捕らえられ、鎌倉に送られて、翌年ここ葛原岡で処刑された。

平成3年7月15日
鎌倉市教育委員会

(説明板より)

俊基朝臣墓所



俊基朝臣あそん墓所
(神奈川県鎌倉市・葛原ヶ岡公園)





(平成18年9月23日)

碑文

藤原俊基朝臣ノ朝權ノ恢復ヲ圖リテ成ラズ 元弘2年6月3日北條高時ノ害ニ遭ヒ秋を待たで葛原岡に消ゆる身の露の恨や世に殘るらんト永キ恨ヲ留メタルハ此ノ処ナリ

大正6年3月建之
鎌倉町青年會

葛原岡神社



葛原岡神社

(神奈川県鎌倉市山ノ内東瓜が谷1153)

御祭神:日野俊基卿



(平成18年9月23日)

葛原神社由緒

御祭神「日野俊基卿」は、後醍醐天皇の側近として鎌倉時代末期に活躍され、建武中興の成功を見ずして、この葛原が岡で露と消えられたお方です。
日野家は代々文章博士の家柄で俊基卿の父種範も大学頭として花園天皇に仕えていましたが、特に学問に優れていた俊基卿は、後醍醐天皇の信任を受け文章博士・大内記・従五位下蔵人・右中辨従四位下という位を授かるなど、側近として寵愛されました。
俊基卿がご活躍された鎌倉時代末期には鎌倉幕府の荒廃に不満を抱く武将も多く、俊基卿は日野資朝卿と共に後醍醐天皇を中心とした倒幕計画を進めますが、幕府方の監視も厳しく思うように事が進まないので、比叡山延暦寺からの訴状を読み上げる際に「楞巌院(りょうごんいん)」と読むべき所を故意に「慢巌院(まんごんいん)」と読み誤り、多くの失笑を受けた俊基卿は病と称して、以来公式の場から身を隠され、修験者に身を代え紀伊国へ進み楠木正成ら有力な勤皇武士を集めることに専念されました。
しかし、この倒幕計画は密告により幕府方に漏れてしまい、正中元年(1324)俊基卿は首謀者として資朝卿と共に六波羅に捕らわれ(正中の変)一時鎌倉に護送されましたが、幕府方は資朝卿を佐渡に流すことで俊基卿を釈放しました。
俊基卿は後醍醐天皇の下で再び北條氏討滅計画を進めますが、これもまた幕府の知るところとなり、元弘元年(1331)僧文観・円観と共に幕府に捕らわれ(元弘の変)俊基卿は鎌倉に護送され、翌年後醍醐天皇も隠岐へ流されてしまいます。
そしてこの年の6月3日俊基卿は当時刑場であった葛原が岡において

秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらむ
古来一句 無死無生 万里雲尽 長江水清

の辞世の句を残しこの地で悲しい最期を遂げられます。
俊基卿の功績は明治維新後に認められ、明治13年全国に葛原岡神社創建同志人を募集、翌年には鎌倉宮行在所において歿後550年祭を執行、翌15年社殿創建の許可を得、鎌倉仏教会により墓前祭を執行、同年には神社創建に当たり宮内省より金5拾圓を下賜、同17年従三位を追贈、同20年には終焉の地である現在地で鎮座祭が執り行われ神社の創建となりました。

(パンフレットより抜粋)




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