平田靱負像 平成19年3月30日

平田靱負 ひらた・ゆきえ

宝永元年(1704年)〜宝暦5年5月25日(1755年7月4日)

鹿児島県鹿児島市・平田公園でお会いしました。


平田靱負像



平田靱負像
(鹿児島市・平田公園)





(平成19年3月30日)

美濃、伊勢、尾張300ヶ村の救世主

〜語りつがれた世紀の大工事、木曽川治水〜

住みなれし里も今さら名残にて、立ちぞわずらふ美濃の大牧―という辞世を残して切腹した平田靱負は、木曽川治水工事の総奉行として世紀の大工事を指揮しました。
1704年(宝永元年)平之町に生れた平田靱負は、初め宗武むねたけ、後に正輔まさすけ、通称も平蔵へいぞうから兵十郎、掃部かもん、靱負と改め、31歳で父正房の跡を継ぎ、しばらく江戸薩摩藩邸に勤めた後、伊作や大口の地頭、大目付を経て、最後は家老の職にありました。
1753年(宝暦3)島津家第24代重年しげとしは、幕府から木曽、長良ながら、揖斐いび3河川の川普請手伝役かわぶしんてつだいやくを命じられ、1,000人の大部隊を現地に差しむけたのです。
幕府役人の圧迫と妨害、工事中の洪水、流行病の発生、人手や資金の不足等々想像を絶する難工事が待っていました。
苦難の末、見事工事を完成させた平田総奉行は、多大の犠牲への償つぐないと予算超過の責任を取り、1755年(宝暦5)美濃国大牧の本小屋で自刃しました。
享年51歳、遺骨は京都伏見の大黒寺に葬られています。

薩摩藩の木曽川治水工事年表
1753(宝暦3) 5. 幕府の代官吉田久左衛門、木曽・長良・揖斐三川の調査
  8.13 濃尾地方代洪水
12.6 幕府勘定奉行一色政、老中堀田正亮に治水工事の設計書、絵図面を提出
12.25 幕府、木曽川治水工事のお手伝いを薩摩藩主島津重年に命ずる
1754(宝暦4) 1.16 家老平田靱負が工事総奉行に、大目付伊集院十蔵が副奉行に任命される
  1.29 平田靱負、薩摩藩士の一隊を率いて鹿児島を出発
2.27 鍬入れ式が行われ、春の工事開始
閏2.9 平田靱負、工事費7万両を工面して美濃大牧に着く
4.14 永吉惣兵衛、音方貞淵切腹し、薩摩方の最初の犠牲者が出る
5.22 春の工事終了
6.11 濃尾地方大洪水、薩摩方復旧工事を命ぜらる
7.5 藩主重年、世子重豪をともない参勤の途中、一之手の工事場を巡視
7.22 濃尾地方大洪水、薩摩方復旧工事を命ぜらる
8. 薩摩方に病人続出、幕府から石集めの厳しい督促を受ける
9.24 秋の工事開始、油島堤防の下埋め工事開始
12.8 二之手工事完成 このころ、大榑川洗堰工事開始
1755(宝暦5) 3.27 一之手、四之手工事完成
  3.28 三之手工事完成
5.22 全ての出来ばえ検分終了
5.24 平田靱負、国もとへ工事完成を報告
5.25 平田靱負、美濃大牧の本小屋で切腹
6.13 幕府、藩主重年の功を賞す
6.16 藩主重年死去
9.5 幕府、伊集院十蔵ら薩摩藩士の功を賞す

(説明板より)

宝暦薩摩義士の碑

宝暦3年12月徳川幕府は薩藩に木曽長良揖斐三川の治水工事を命じた
当時薩藩は財政困難を極めていたが幕府の命には背きがたく翌4年2月家老平田靱負が総奉行となり士卒千余名を率いてこの大工事を開始した
しかしかかる大規模な治水工事には経験が浅く日に日につのる幕府の不当な圧迫とたたかい又資材の入手難に加えて累次の洪水のため工事半ばにして堤防が流されるなどまことに惨憺たる艱難辛苦を重ねたが藩のためよく耐え忍び専心努力を続けた結果1年後にこの難工事の完成を見たのである
しかしながら工事途上不幸にして病にたおれる者又自決する者など80数名を数え更に莫大な藩債を残したため完成後平田靱負は全責任を負い従容として自らの命を絶ったのである
ここにこの工事完成二百年を迎えたので同志あいより昭和29年5月25日に平田靱負以下の二百年祭を執行し且つここ平田靱負の誕生地に銅像を建設して義士名を刻みその義烈の精神と高徳を広く世に伝えんとするものである

昭和30年5月25日
平田靱負以下薩摩義士二百年祭記念事業協賛会
会長 勝目 清

(碑文より)

薩摩義士
平田靱負 永吉惣兵衛 音堅貞淵 江夏次左衛門 藤崎伊右衛門 野村八郎右衛門
濱島喜左衛門 本田甚五兵衛 崎元才右衛門 四本平兵衛 川上島右衛門 家村源左衛門
家村長助 山元八兵衛 鬼塚喜兵衛 茂木源助 井出上渡右衛門 永田伴右衛門
恒吉軍太郎 前田兵右衛門 園田新兵衛 堤岩智全居士 永山孫市 瀧聞平八
上村金左衛門 永山嘉右衛門 徳田助右衛門 松崎仲右衛門 森権四郎 尾上平兵衛
田中喜兵衛 田中六左衛門 和田善助 萩原勘助 石塚仁助 鮫島甚五左衛門
横山治左衛門 稲冨市兵衛 吐田軍七 貴島助右衛門 藤井彦八 関右衛門
関角助 関八内 空山道鉄信士 八郎兵衛 新右衛門 万治郎
六平 新右衛門 利右衛門 八木七郎左衛門 川合瀬兵衛 川合権右衛門
川合喜右衛門 川合長左衛門 川合惣右衛門 川合岩七 深見勘助 深見六左衛門
深見長八 深見三四郎 太田喜左衛門 太田仁八 太田助四郎 大窪十左衛門
大橋七郎右衛門 大橋與八 大橋覚右衛門 山口清作 松下新七 松下市右衛門
松下仁助 永山市左衛門 永田杢右衛門 濱島紋右衛門 籾木稲右衛門 郷田喜八
郷田八郎左衛門 黒田唯右衛門 瀬戸山石助 平山牧右衛門 大山市兵衛 大山甚八
竹中傅六 内藤十左衛門        

(銘板より)

平田靱負屋敷跡



平田靱負屋敷跡
(鹿児島市平之町・平田公園)





(平成19年3月30日)

薩摩義士の碑



薩摩義士の碑

(愛知県犬山市・犬山城・登城口)



(平成22年4月6日)

碑文

尾濃ノニ州田野廣衍ニシテ地味豊沃ナルハ木曽長良揖斐ノ三大川ノ貫流スルヲ以テナリ然レトモ一利アル處ニハ一害アリ時ニ霖雨増水往〃汎濫シテ田畝人家ヲ潰流セシメ流域ノ人民之ニ苦シムコト亦久シ寶暦年中幕府薩摩藩ニ命シテ之ヲ修治セシムルヤ時ノ藩主島津重年公ハ其ノ家老平田靱負大目付伊集院十藏等以下藩士凡ソ六百人ヲ遣シテ寶暦四年二月起工シ翌年五月漸ヤク竣成ス抑〃此ノ工事ハ日本治水史上ニモ特筆大書サルヘキ難工事ニシテ犬山城下ヲ起點トシテ涎〃十有余里伊勢灣ニ至リテ盡ク而シテ藩弊費ヤスコト實ニ三十萬両豫算ヲ超ユルコト尠カラス為メニ平田靱負以下藩士其ノ責ヲ負イテ自刃スルモノ數十名以テ此ノ工事ノ如何ニ艱難ナリシカハ想見スルニ難カラス爾来今日ニ至ル?全ク水害ヲ免レ平安ヲ得タルハ一ニ之等幾多義士ノ犠牲ノ賜ナリ故大藪嘉一偶〃コノ史實ヲ知ルヤ深ク義士ノ心事ニ感激シコ〃カ頌徳ノ碑ヲ犬山ノ地ニ建テンコトヲ■■遺言シテ逝ケリ我等兄弟其ノ遺志ニ従ヒ以テ一ハ薩南義士ノ徳ヲ彰ハシ一ハ以テ故人ノ冥福ヲ祈ルモノナリ
維時大正十三年三月二十九日  建碑發願人 大藪嘉一兄弟一同


【宝暦治水】

江戸時代中期までは徳川将軍家と薩摩藩島津家の仲は決して良好とは言えなかった。
徳川家にとって島津家は油断のならない仮想敵国であり、その国力をできるだけ弱めておくことは、徳川家にとって良いことだという思いがあったからである。
一番良いのは「お手伝い」、つまり公共工事をやらせることである。
その藩とは何の関係もない場所で、本来なら幕府が行うべき工事を、藩に請け負わせ、工事費も負担させる。
各藩は、こうした公共事業を押しつけられないために、有能な家臣を留守居役として江戸屋敷に置き、幕府の役人に接待攻勢をかけた。

ところが、宝暦3年(1753年)、薩摩藩に恐るべき難工事の担当命令が下った。
木曾三川さんせん改修工事である。
尾張国(愛知県西部)は徳川御三家の一つ、尾張大納言の領地であった。
ここには木曾川、長良川ながらがわ、揖斐いび川という有名な「暴れ川」があり、少しでも雨が降り続くと、たちまち洪水を起こして流域の村々に大損害を与えていた。
そこで、そのようなことが二度と起きないように、堤防を築き、川を鎮めろというのである。

当時、薩摩藩は幕府の参勤交代政策などの対応で借金を重ね、約65万両の借金があったといわれている。
そのうえ何十万両かかるかわからない工事など引き受けられないと、この際、公儀と一戦を交えるべきだという強硬論もあったが、薩摩藩家老・平田靱負は涙をのんで幕府の指示に従い、その指導監督のもとで治水工事を始めた。
ところが幕府は薩摩藩を消耗させるのが目的だから、薩摩藩士をことあるごとに侮辱し、完成しかけた堤防を夜のうちに崩してしまうなどの妨害工作すらした。
犯人は誰か薩摩側は察したが、幕府の役人を斬るわけにはいかない。
憤激のあまり切腹して抗議した藩士の数は50人を超えたという。

それでも薩摩藩士は工事を投げ出さず、完璧に仕上げて幕府側に引き渡した。
この時完成した堤防は、あの有名な伊勢湾台風にも決壊しなかった。
しかし、幕府側の妨害工作によって当初の予算をはるかにオーバーさせてしまった平田は、責任を取り切腹して果てた。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月13日 追記)


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