平塚城 ひらつかじょう

東京都北区上中里1−47−1


平塚神社 平成22年2月9日

平塚城伝承地

平塚神社

平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙ぐんがのあった場所だと推定されていますが、平塚明神并ならびに別当城官寺じょうかんじ縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流しょりゅう豊島太郎近義ちかよしという人物が平塚城という城館じょうかんをつくります。
平塚城は源義家が御三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地とうりゅうちで、義家は近義の心からの饗応きょうおうに深く感謝し、使っていた鎧よろいと守り本尊の十一面観音を下賜かししました。
近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社やしろを建てて安置したと伝えられます。
これが本殿裏側の甲冑かっちゅう塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。
鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城きょじょうとなりましたが、文明10年(1478)1月、泰経やすつねの時代に太田道灌によって落城してしまいます。
江戸時代、上中里村出身の針医しんいで当道座検校とうどうざけんぎょうでもあった山川城官貞久やまかわじょうかんさだひさは、3代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。
感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。
貞久の忠誠心を暫しばらくして知った家光は感激し、250石の知行地を与え、この内の50石を朱印地として平塚明神に寄進させました。

平成4年3月
北区教育委員会

(説明板より)

石室神社



石室神社
(平塚神社境内)



(平成22年2月9日)

石室神社(石神明神)

御祭神 蘓坂兵庫頭秀次命
御神徳 社守 天災除 病気平癒

豊島氏の後、平塚城主となった蘓坂兵庫頭秀次は平塚明神を篤く祀った。
秀次はみまかりて社の外側に葬られるが、以降墳墓のあたりに毎年米が降るようになった。
村の長老は秀次の石墳を石神明神と崇めた。
石神明神は崇めれば必ず応えてくれ、水害や日照や疫病の除災に御神徳を顕したと伝えられる。

(説明板より)

平塚神社 平塚神社

源氏の棟梁 源義家将軍を祀る
平塚神社(旧平塚明神社)

御祭神

八幡太郎 源義家命
平安後期の武将で、源頼朝義経や足利将軍家の先祖。
石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号された。
前九年の役(安部定任・宗任退治)、御三年の役をはじめ数々の戦を征された。
「天下第一武勇之士」と称えられ、全国の武士達が臣従した。
その武威は物の怪ですら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白河上皇に献上された。

賀茂次郎 源義綱命
義家公の次弟。
賀茂神社で元服したので賀茂次郎と号された。

新羅三郎 源義光命
義家公の三弟で武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。
新羅明神で元服したので新羅三郎と号された。
笙の名手としても有名。

略縁起

平塚神社の創立は平安後期 元永年中といわれている。
八幡太郎 源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一両を下賜された。
近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。
塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。
さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。
徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得て、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たした。
その後、家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。
将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。
家光自らも50石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた。

(説明板より抜粋)




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