(広島県広島市中区基町21−1)
毛利氏は安芸吉田庄に土着以来、郡山城を本拠とし、応仁の乱頃より戦国大名への道を歩み、中国地方の覇権を握った。
毛利元就の孫、輝元は、従来の吉田の地が山間に位置して交通の便が悪く、中国9ヵ国を支配する城下としては手狭なので、父祖伝来の郡山城を捨て、広島に築城して居城を移そうとした。
豊臣秀吉も天下統一の拠点として淀川デルタである大坂を選んでいて、毛利氏もこれを模して太田川河口デルタを選んだといわれる。
事実、広島の地は内海交通の要衝で、太田川、瀬野川を通じて内陸との連絡の便宜も多い。
天正17年(1589)の築城に当たり、輝元自身が「島普請」と言っているように、当時の広島は北半の平地を除いては、ほとんど海水の出入りする葭原よしはらだった。
黒田孝高の縄張りにより、家臣・二宮太郎左衛門を普請奉行として、領国9ヵ国から一村ごとに人夫を徴発。
各戸からは財産の10分の1を公借して、3年後に元利金を返済する方法が取られ、家臣には資力に応じて櫓、門などを負担させた。
城は秀吉の聚楽城を模したといわれるが、城下全体の構想は河口デルタという点で、大坂に学ぶところが多かったようである。
「広島」という地名は、毛利氏の遠祖・大江広元の「広」と、この地の豪族・福島氏の「島」を合わせたという説と、広い洲に築堤して島造りが行われたためというものと二説がある。
天正19年、毛利輝元が入城、天守もこの頃でき、吉川元春、小早川隆景など家臣も続々と来住したので武家屋敷の整備が急がれた。
また、当時の町屋の範囲は狭く、葭原の埋め立てのため町屋の整備はかなりの日数がかかった。
「平田屋町」の町名の由来をなした平田屋惣右衛門は、尼子の浪人で土木に巧みで城普請、町割りに協力、毛利氏から町人頭を命じられて町中の支配に当った。
慶長4年(1599)1月、広島城は一応完成し、祝宴が行われたが、翌年の関ヶ原の戦いに敗れた輝元は広島城を去ることになる。
その後に、福島正則が安芸、備後49万石で入城。
小方おがた、三次みよし、東城、三原、神辺、靹に支城を構え、領内支配機構の整備に努めた。
元和3年(1617)の洪水で破損した石垣の修理を行ったのが災いして、正則は左遷となる。
これを聞いた家臣たちは城受取の幕府軍と一戦を交えようとしたが、正則のなだめにより事なきを得た。
その後、浅野氏が安芸、備後半国42万石で入城。
12代続いて明治となった。
(参考:大類 伸 監修 『日本城郭辞典』 昭和58年第8版 秋田書店発行)
(平成22年5月1日)
史跡 広島城跡
昭和28年3月 国指定
史跡指定地 本丸跡、二の丸跡、堀およびその周辺
別名 鯉城りじょう
形状 太田川河口の低湿なデルタ上に築かれた大規模な輪郭式の平城
沿革 1589年(天正17年)毛利輝元 築城工事に着工
1591年(天正19年)毛利輝元 入城
1600年(慶長5年)福島正則 入城
1619年(元和5年)浅野長晟ながあきら 入城
1871年(明治4年)廃藩置県により本丸内に広島県の役所が置かれる
1894年(明治27年)日清戦争時本丸内に大本営が設けられる
1945年(昭和20年)原爆により天守閣、太鼓櫓、表御門などすべて崩壊
1958年(昭和33年)現在の天守閣再建
(説明板より)
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二の丸表御門(復元) | 焼失以前の表御門 |
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二の丸表御門 (二の丸内部から見る) (平成22年5月1日) |
史跡広島城跡二の丸表御門(復元)
規模 桁行7.64m、梁間4.85m、軒の出1.27m、軒高7.03m、棟高10.61m
構造 木造脇戸付櫓門、入母屋造、本瓦葺、軸部真壁、軒塗籠、両側面一間庇付
表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失までの約350年間存続していました。
現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。
この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、焼失後も残存した表御門の礎石(柱下の石)上に、昔どおりの工法によって往時の姿をよみがえらせています。
平成3年12月 広島市教育委員会
(説明板より)
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太鼓櫓と多聞櫓(復元) | 昭和初期の多聞櫓と太鼓櫓 |
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太鼓櫓 (平成22年5月1日) |
史跡広島城跡二の丸
平櫓・多聞櫓・太鼓櫓(復元)
構造
平櫓 木造一重隅櫓、入母屋造、本瓦葺
多聞櫓 木造一重渡櫓、切妻造、本瓦葺
太鼓櫓 木造二重二階隅櫓、入母屋造、本瓦葺
規模
平櫓 桁行12.43m、梁間8.64m、棟高7.76m
多聞櫓 桁行67.86m、梁間4.93m、棟高5.13m
太鼓櫓 桁行8.49m、梁間7.76m、棟高10.60m
平櫓、多聞櫓及び太鼓櫓の創建時期は、天正期末(16世紀末)と推定されています。
このうち太鼓櫓は17世紀初期に改修されたものの、3棟とも江戸時代を通して、二の丸の馬出機能を確保する建物として存在していました。
その後、平櫓及び多聞櫓西半分(平櫓側)は明治初期に取り壊され、残った太鼓櫓や多聞櫓東半分についても昭和20年8月6日の原爆被爆によって倒壊炎上しました。
この建物は、平成元年の広島城築城四百年を記念して、発掘調査や昭和初期に当時の陸軍築城本部が作成した実測数値、明治から昭和にかけての写真等をもとに、復元に着手し、平成6年8月に完成したものです。
平成6年8月 広島市教育委員会
(説明板より)
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太鼓櫓内部 (平成22年5月1日) |
太鼓櫓
二の丸唯一の二重櫓で、二階に太鼓を置き、時太鼓を打って城門の開閉の合図を行った重要な櫓です。
元和6年(1620)に台座の石垣が崩壊したため再建されました。
表御門より建築年代が新しかったので、屋根の反りも少なく年代相応の趣を見せていました。
太鼓櫓という特殊性から、二階に高欄こうらん付きの廻縁まわりぶちを設けるなど、城内のほかの二重櫓とは全く異なった造りでした。
(説明板より抜粋)
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多聞櫓内部 (平成22年5月1日) |
多聞櫓
広島城の古記録では「長櫓ながやぐら」と記されています。
平櫓ひらやぐらと太鼓櫓の間を結ぶ全長三十五間の櫓でした。
南面に開いた窓の間隔は不均等で、外壁は黒い下見板張したみいたばりで、軒裏は垂木たるきを見せずに平らに塗籠ぬりこめられています。
(説明板より抜粋)
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二の丸跡 (平成22年5月1日) |
二の丸の特徴
天正17年(1589)、毛利元就もとなりの孫である毛利輝元てるもとによって、広島城築城の鍬初くわはじめが行われました。
この二の丸は、他の城に比べると規模が小さいのが特徴で、本来は馬出うまだし(城内からの出撃の拠点)としての機能を持っていたと思われます。
二の丸の西面に開かれた表御門は階下が城門、階上が渡櫓わたりやぐらとなっていました。
これは「櫓門やぐらもん」と呼ばれるもので、広島城の主要な城門はみなこの形式でした。
階上の櫓部分の柱と長押なげしを白木しらきをそのまま見せる「真壁造しんかべづくり」で、大変古風な外観でした。
平櫓・多聞櫓・太鼓櫓とも外壁は黒い下見板張(壁に横板を少しずつ重なり合うように取り付けたもの)でした。
内部は梁はりをむき出しにし、柱や長押も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素な造りになっていました。
新しいタイプの城は、柱もすべて白漆喰しろしっくいで塗込める「総塗籠そうぬりごめ」であることが多いので、古風な様式であることがわかります。
現在の二の丸は、毛利輝元が建てたころの様式を木造で復元したものです。
(説明板より抜粋)
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番所跡 (二の丸) (平成22年5月1日) |
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馬屋跡 (二の丸) (平成22年5月1日) |
史跡広島城跡
二の丸を構成した藩政時代の遺構
広島城二の丸は天正期末(16世紀末)頃に築城されたもので、表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓などの施設を周囲に配置し、内部には馬屋、番所、井戸などの施設を整え、生じた空間を巧みに利用することで、最も重要な本丸を守る馬出と呼ばれる機能を果たす区画となっていました。
この二の丸も時代によって姿を変えていることが、広島藩が作成した記録などから窺えます。
このため、広島城築城四百年を契機に始まった二の丸整備では、江戸時代後期の姿を基準として、存在が確認された施設を対象に整備をしています。
二の丸の馬屋跡、番所跡、井戸跡は、江戸時代後期に広島藩が作成した絵図をもとに、遺構の配置を表示する整備としています。
平成8年3月 広島市教育委員会
(説明板より)
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東側多聞櫓跡 (二の丸) (平成22年5月1日) |
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二の丸から見た本丸 (平成22年5月1日) |
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中御門跡 (本丸・下段) (平成22年5月1日) |
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中御門周辺 |
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本丸から見た二の丸 |
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広島護国神社 (本丸・下段) (平成22年5月1日) |
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広島大本営跡 (本丸・上段) |
広島大本営跡
明治27年(1894)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所あんざいしょとされ、ここに大本営が設けられた。
明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日までの7か月あまりに及んだ。
その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されている。
(説明板より)
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昭憲皇太后御座所跡 (本丸・上段) (平成22年5月1日) |
昭憲しょうけん皇太后御座所跡
明治天皇の后きさきである昭憲皇太后が、日清戦争の折に滞在した建物の跡です。
大本営跡から西側に少し離れた場所にあります。
もともとは、第五師団監督部庁舎として明治23年(1890)に建てられたものです。
(参考:財団法人広島市文化財団広島城 編集『広島城総合案内』 平成20年6月発行 広島市市民局文化スポーツ部文化財課 発行)
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天守閣の礎石 (本丸・上段) (平成22年5月1日) |
天守閣の礎石
天守閣の南東下には、昭和32年〜33年(1957〜58)の天守閣再建工事の時に撤去した旧天守閣の礎石をそのまま移しています。
礎石とは、建物の柱を乗せるための土台です。
木造だった築城当時の天守閣が偲ばれます。
(参考:財団法人広島市文化財団広島城 編集『広島城総合案内』 平成20年6月発行 広島市市民局文化スポーツ部文化財課 発行)
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天守閣 |
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天守閣から見た景色 (平成22年5月1日) |
【広島城の歴代城主】
代 | 城主名 | 治世期間 | 石高 |
1 | 毛利輝元 | 1591〜1600 | 112万石 |
2 | 福島正則 | 1600〜1619 | 49万8千石 |
3 | 浅野長晟ながあきら | 1619〜1632 | 42万6千石 |
4 | 浅野光晟みつあきら | 1632〜1672 | |
5 | 浅野綱晟つなあきら | 1672〜1673 | |
6 | 浅野綱長つななが | 1673〜1708 | |
7 | 浅野吉長よしなが | 1708〜1752 | |
8 | 浅野宗恒むねつね | 1752〜1763 | |
9 | 浅野重晟しげあきら | 1763〜1799 | |
10 | 浅野斉賢なりかた | 1799〜1830 | |
11 | 浅野斉粛なりたか | 1831〜1858 | |
12 | 浅野慶熾よしてる | 1858 | |
13 | 浅野長訓ながみち | 1858〜1869 | |
14 | 浅野長勲ながこと | 1869 |
(リーフレット『広島城』より)
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石積み (城北駅北交差点付近) (平成22年5月1日) |
この石積みは、広島新交通システム「アストラムライン」建設工事に伴い、平成4年から平成5年にかけて城北駅北交差点付近において発掘調査された広島城外堀の石垣に使用された石材を利用して構築されたものです。
広島城は、約400年前の慶長4(1599)年に毛利輝元によって築城されたもので、内堀、中掘、外堀の三重の堀が巡る、面積約1km2にも及ぶ中・四国最大の城郭でした。
この付近は、当時『北の郭』と呼ばれた武家屋敷地の北西部にあたります。
この度、掘り出された石垣は、明治末年に埋め立てられ、再び約80年ぶりに道路の下から姿を現したものです。
建設省
(説明銘板より)
【広島城】
創建当初の広島城の五層五重の天守は原爆で姿を消し、いま城址にそびえているのは昭和33年の復興天守であるが、内部はともかく外部はほぼ旧天守を忠実に復元している。
以前は、この天守の東側と西側に渡り櫓で結ばれた三層の小天守が立ち並ぶ複合連結式の構成だったが、いまはその二つの小天守はない。
天守を見てまず最初に気づくのは、逓減ていげん率(初層と上層の面積比)がかなり大きいことで、そのため非常に安定した感じがする。
ついで初層から四層まで、外壁は鎧よろい下見板張りとなっていて、全体に黒っぽい感じを与えるがあ、露出した白壁の面積が上層にいくほど増えているため、いわゆる烏う城といった印象はあまりない。
築城の時期は、まだ、戦闘の余燼よじんがすっかり収まっていなかった。
そのため輝元がしきりに工事を急がせたので、石材や木材をいちいち吟味する余裕もなく、近辺から手当たり次第に集めて使用するあありさまだった。
原爆で焼失する前の旧天守は、壁板・柱とも用材は松であり、しかも装飾を加えない長斧目ちょうなめのままだったという。
築城の途中、輝元は手元不如意となり、領地を抵当にして資金を調達しようとした、という話も伝わっている。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月14日 追記)
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