常陸山像 平成18年5月30日

常陸山谷右衛門 ひたちやま・たにえもん

明治7年(1874年)1月19日〜大正11年(1922年)6月19日

茨城県水戸市堀原・堀原運動公園でお会いしました。


茨城県出身。
明治24年(1891年)出羽海部屋に入門。
明治36年(1903年)11月1日、第19代横綱となり、二代目梅ヶ谷とともに『梅常時代』を築く。
歴代横綱の中でも特に人格・力量に優れ「角聖」といわれた。
優勝回数6回。
大正3年(1914年)、引退して年寄出羽海を襲名。
翌年には力士団を率いてアメリカ巡業。
横綱栃木山をはじめ多くの名力士を育てた。
大正11年(1922年)、48歳で没す。


常陸山谷右衛門像



常陸山谷右衛門像

(茨城県水戸市堀原・堀原運動公園)





(平成18年5月30日)

第十九代横綱 角聖
常陸山谷右衛門像

日本近代相撲の父「角聖」常陸山谷右衛門は、優れた人格と生来の学識、才能を発揮し、日本角界の改革、地位向上に不動の功績を残した。
旧水戸藩士、市毛高成の長男として1874年1月19日、水戸宝鏡院門前(現、水戸市城東)に生まれ、旧制茨城中学(現、水戸一高)を中退後、19歳で角界に入る。
1903年、第十九代横綱に推挙され「梅ヶ谷」と人気を二分し、明治期後半から大正初期にかけての大相撲黄金時代を築いた。
横綱在位11年、83勝10敗17引き分け2預かりの成績を記録。
欧米各国訪問ホワイトハウスで土俵入りを披露。
国技館の優勝掲額第2号に雄姿を飾る。
引退後、五代目出羽海を襲名、取締りに就任、初のアメリカ巡業を成功させた。
1920年、焼失した国技館を再建、今日の角界隆盛の基礎を築いた。
1922年6月19日、本所相生町の自宅で48歳の生涯を終え、生地水戸市酒門の共有墓地に静かに眠っている。
ここに「角聖」常陸山の功績を顕彰し県民各位のご協力のもとにモニュメントを建立する。

1989年7月20日

水戸市制百周年記念
常陸山顕彰事業委員会 会長 佐川一信
新いばらきタイムス社 社長 鈴木正樹
各界、各層のご協力者160名

(碑文より)

常陸山の像 平成18年4月8日

滋賀県長浜市・慶雲館でお会いしました。

横綱像



横綱像
(滋賀県長浜市・慶雲館の前庭)





(平成18年4月8日)

力士りきし

明治時代後期の大横綱である常陸山谷右衛門の石像。
日露戦争のころ相撲界は「梅ヶ谷うめがたに・常陸山時代」を迎え、空前の黄金期に沸き、両国国技館竣工の原因となった。
希に見る教養人として「角聖かくせい」とよばれた。
この常陸山を贔屓ひいきにしたのが、慶雲館の生みの親、浅見又蔵氏である。

(説明板より)


【常陸山谷右衛門】

本名は市毛谷。
旧水戸藩北辰一刀流の剣道師範を務めた父・高成と、水戸藩士の池上新左衛門の娘である母・琴の六男一女の長男として生まれた。
代々、市毛家は水戸藩に仕え、武術指南役を務めた家柄。
曽祖父・市毛谷右衛門本矩は弓翁といわれた日置流雪荷派の弓の達人で、9代藩主・徳川斉昭の弓術師範を務めた。
常陸山が生まれながらにして骨格、容貌の非凡なのに父が驚き、曽祖父の再来とばかりに喜び、豪勇、博学の藩士だった曽祖父の谷右衛門にあやかるようにと、その一字をもらい、谷と名付けたとされている。
後になって、常陸山は谷右衛門を襲名している。

明治維新により、武士を廃業した父・高成は舟運業に乗り出したが武家の商法で失敗し、破産。
明治16年の火災で生家は全焼し、借家住まいを転々とする。
常陸山は幼時、三ノ町の荷見守敬の私塾に学び、その後、茨城県尋常中学校(現・水戸第一高等学校)に入学したものの、こうした家庭の事情のため3年で中退する。
明治23年、東京専門学校で剣道の教授をしていた叔父の内藤高治を頼って上京。
叔父が亀戸天神境内へ常陸山を連れて行き、力試しの巨石を持たせたところ、20貫目(約75kg)、40貫目(約150kg)、60貫目(約225kg)を次々と軽々と担ぎあげたので、力士になることを勧めたが、常陸山は一笑に付して答えなかった。
しかし、その後、叔父に誘われて回向院境内で行われた本場所を見物すると、すっかり力士に憧れた。
一説には、その時、野州山の煙草入れと粋な角帯姿に魅了されてしまったからとも言われている。

当時、相撲取りは裸踊りだと蔑まれたり、力氏は大道芸人並みの扱いを受けていた頃だったので、父・高成は、誉れ高き士族の家柄である市毛家の者がする事ではないと反対。
しかし、茨城県選出の代議士で、朝野新聞の主筆で、常陸山のいとこに当たる渡辺治らの熱心な説得が功を奏し、実家の許しを得る。
明治24年1月、18歳の時、叔父の勧めで4代目出羽海運右衛門の下に弟子入りした。
同年3月場所には、「御西山おにしやま」と称して初めて土俵の前相撲に上がった。
明治25年6月場所、番付面で序ノ口16枚目。
明治26年1月場所、序二段43枚目に進む。
同年5月、序二段21枚目に進んだが、黄疸を患いやせ衰える。
明治27年1月場所、ようやく回復し、師匠の名を継いで常陸山と改める。
同5月場所で三段目に昇る。
明治28年5月場所、幕下30枚目。
しかし、同年10月20日、伊勢松阪の巡業地より2〜3人の同僚と一緒に脱出し、名古屋相撲に行く。
名古屋力士や大坂力士の中に入りその技を磨き、年末に東京に戻る。
明治30年4月になって、ようやく師匠・出羽海親方に許されて東京相撲に戻った。
この時の常陸山は驚くほど体が肥え、骨太く、技量も大いに上達して向かうところ敵なしの勢いだったといわれる。

明治30年5月場所、幕下付出で再出発。
明治31年1月場所、幕下大頭に付出されてからは負け知らずの好成績を収めた。
同年5月場所、10両大頭。
明治32年1月場所、幕内に入り前頭4枚目に昇進。
同5月場所、前頭筆頭。
明治33年5月場所、小結を通り過ごして関脇。
明治34年1月場所、東の関脇で8勝1引き分けの成績を上げる。
同5月場所で西の大関に栄進。
明治36年5月場所では全勝優勝。
明治37年1月、梅ヶ谷と共に横綱(第19代横綱)となる。
この年、常陸山・梅ヶ谷両横綱の名勝負黄金時代を飾った。

常陸山が最も円熟したのは明治35年5月頃から明治40年1月頃まで。
この間の戦績は、54勝1敗3引き分け1預かり。
勝率は9割8分2厘であった。
全盛期の身長は5尺7寸5分(1.75m)、体重39貫(146kg)だったという。

明治40年8月、7ヶ月に及ぶ欧米先進国体育視察の旅に弟子3人を連れて出掛ける。
8月20日にシアトルに上陸し汽車でアメリカ大陸を横断し、シカゴ、ニューヨークを訪問。
11月11日にはホワイトハウスでルーズベルト大統領に土俵入りを披露。
翌明治41年1月にはコネチカット州のエール大学に招待訪問。
同年2月、イギリスに渡り、フランスを経て、3月にはベルリンに到着。
更にモスクワを経由してシベリア鉄道でウラジオストックへ行き、3月25日に敦賀港に上陸、帰国した。

大正3年(1914)1月場所(5月場所の説あり)を最後に引退。
先師・出羽ノ海を襲名し年寄専務となった。
この時、40歳。
角界を引退して出羽ノ海親方になってからも弟子たちに対し「力士という字を読んでみろ。力士はサムライなんだ。今の相撲取りは、まるで幇間ほうかんか末社みたいにただイキ筋を頼って生きている。ワザよりも精神を鍛えねばならぬぞ」と説き、生涯、力士道を高めたという。
大正4年、東京大角力協会の取締役に推薦される。
協会の筆頭取締役として23人を率いてサンフランシスコやハワイへ2ヶ月に及ぶ大相撲の海外巡業に出かけ、成功を収めた。
大正6年11月、国技館が焼失したが、その再建に務める。
また、常陸山はひいきの按摩あんま・関根安中に特別目をかけ、彼の歌う酒席での磯節が気に入り、地方巡業に連れて行っては、先々で歌わせたことから、磯節は全国に広まったという。

大正11年、積年の疲労がたたって関節炎が悪化、膿毒症を併発(一説には靴ずれが原因のブドウ状球菌敗血症)し、東京本所相生町の自宅で世を去った。
大正11年6月19日午後2時10分、行年48歳。

翌6月20日午後、遺志により、慶応大学の医師団の手で遺体の解剖が行われた。
その結果、内臓諸般の構造および筋肉発達において通常の人より卓越していると実証され、相撲が生理上多大の効果があるという絶好の資料を得ることが出来たという。
6月22日、初の日本相撲協会葬が行われた。

(参考:坂田暁風著 『城東歴史散歩』 茨城新聞社出版局制作 平成13年発行)

(平成23年8月7日追記)


【常陸山】 

明治24年、17歳の時に水戸市出身の4代目出羽海運右衛門の部屋に入門した。
その年の5月、御西おにし山谷右衛門と名乗って初土俵を踏んだ。
この四股名しこなは、徳川光圀ゆかりの西山荘から取ったものである。
一時、黄疸おうだんで、前途が危ぶまれたこともあったが、明治27年1月、常陸山と改めた。

明治28年10月、東海地方巡業中に名古屋相撲に移り、名古屋では三湊部屋に厄介になる。
翌年、大阪相撲に移り、中村部屋に世話になった。
(このころはまだ相撲が東京を中心に一本化されていなかった)
明治30年4月、再び東京相撲に戻り、出羽海部屋に帰った。
5月に幕下付出しで再デビュー。
明治34年5月、西大関となり、大関にあること5場所、明治36年5月に全勝を果たし、梅ヶ谷とともに横綱に推挙された。
得意は左四つ、きめ出し、つり出し、つかみ投げなど豪快な技が多い。

明治39年9月、今までともに巡業していた高砂一門から、今後は高砂一門だけで巡業をするという絶縁状が突きつけられる。
出羽海部屋は常陸山の一枚看板であったので、単独での巡業は無理であろうという高砂一門の嫌がらせであった。
常陸山は出羽海一門の単独巡業を決定。
「常陸山同情会」なども結成され、巡業は大成功であった。
一方、高砂一門の人気はがた落ちで、のちに仲介する人がいて和解した。

日露戦争の旅順港封鎖で知られた広瀬武夫中佐とは、義兄弟の間柄であった。
広瀬は明治37年3月に戦死するが、その前に常陸山の土俵入りが見たいと連絡してきた。
早速写真を送ったが、広瀬はこの写真を見ることなく戦死した。

明治43年、朝鮮から旧満州地方(中国東北部)の巡業相撲があった。
大連で興行が終わると常陸山は旅順の忠霊塔を参拝し、奉納相撲をしたいと言い出した。
一行の中には急ぎ帰国したいという意見もあったが、結局、帰国の日である7月22日に白山忠霊塔の前で奉納相撲が行われた。
巡業一行は、この日に「鉄嶺丸」で帰国する予定だったが、この船は出航後、濃霧のため木浦もっぽ浦で座礁沈没し、乗員乗客全員死亡(一部は行方不明)という大惨事となった。
東京で留守番中の相撲関係者は常陸山一行全員が遭難したと思い大混乱となったが、広瀬武夫中佐を偲び奉納相撲を行なったことで難を免れたのであった。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年7月7日 追記)


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