歩兵第102連隊

(通称:基2803部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
水戸 昭和12年 第51師団 東部ニューギニア

支那事変により特設第114師団が編成されることになり、歩兵第2連隊補充隊に予備役と後備役の在郷軍人を召集して歩兵第102連隊を編成。
第114師団は第10軍の隷下に入り、直ちに中国戦線に投入された。
上海の南南西約60キロ、杭州湾北岸の金山衛に敵前上陸した連隊は、嘉興、湖州、長興、宣興で戦闘を重ね、南京攻略戦を開始した。第114師団の各連隊は将軍山、雨花台の戦闘で中国軍を破り南京城で一番堅固といわれた中華門に突入し、南京城を占領した。
昭和13年2月、連隊は北支那方面軍に転用され、河北省、山東省の鉄道沿線の守備に任じる。
5月18日、徐州会戦に参加。
昭和14年7月、水戸に帰営し、9月9日に軍旗を奉還して連隊は解隊となる。

昭和15年8月、軍備改編で歩兵第2連隊が満洲永久駐屯となった為に、第14師団管下で新たに第51師団が編成。
歩兵第102連隊は常設部隊として再編成される。
昭和16年8月、第23軍転用となり、広東付近の警備につく。
昭和17年11月21日、東部ニューギニア方面の作戦に参加する為、黄埔港を出港。
第18軍の隷下に入り、昭和18年1月7日に、連合軍機の猛爆撃の中、ラエ付近に上陸し、ただちに一部をもって危機に直面していたサラモアの海軍部隊の救援に向かう。
連隊主力は前人未到のジャングルの中を分け入ってワウ飛行場攻撃に参加。
米豪軍の反撃は凄まじく、攻防2ヶ月、第2大隊長をはじめ多数の死傷者を出し、軍命令でムボに後退。
以後、連隊はマラリアと栄養失調者続出の中、標高4千メートルのサラワケット山系を越える「サラモア作戦」に従事。
キアリに転進したが、連合軍のキアリ上陸によってハンサからウエワクへと難行軍を続ける。
昭和19年4月、セピック地区に移動し、マリエンベルグ付近で押し寄せる米豪軍に対する戦闘準備中に終戦を迎えた。


水戸歩兵部隊の跡碑



『水戸歩兵部隊の跡』碑

(茨城県水戸市堀原・堀原運動公園真向かいの公園)





(平成18年5月30日)

碑文

大東亜戰争の終結既に遠く 水戸歩兵部隊跡は一変して いま僅かに尼港記念碑を残すに過ぎない
滄桑の変誠に感慨無量である
ここに終戰二十周年を期し 有志相図り 我々の郷土部隊が残した歴史を後々まで伝えたい念願から 大方の協賛を得て この碑を建てるに至った
歩兵第二聯隊は 明治7年明治天皇から軍旗を授かり千葉県佐倉に創設され 爾来西南の役 日清日露両大戦に出征し 明治42年水戸に移駐後は シベリア派兵 満洲 支那各事変に参加し 勇名を轟かした
大東亜戰争の戰勢傾くや 満洲から太平洋の要衝ペリリュー島に馳せ 中川大佐以下5千 敵の猛攻に堪えること七旬 昭和19年11月遂に玉砕し 70年の歴史を閉じた
また歩兵百二聯隊は ニューギニアに転戰敢闘し これに劣らない偉勲をたてた
東部第37部隊外留守機関は 困難な後方業務を完遂し 両聯隊をはじめ幾多郷土部隊善戰の基盤をなした
顧みて水戸歩兵部隊の武勲は 祖國の歴史とともに朽ちることなく 永遠に輝くであろう
この碑が つわものどもの夢の跡を偲ぶよすがとなり 後世に資することができるならば幸である

昭和41年4月
水戸歩兵聯隊遺跡保存会

(碑文より)

水戸歩兵部隊の跡



水戸歩兵部隊の跡
(茨城県水戸市堀原・堀原運動公園真向かいの公園)





(平成18年5月30日)

【歩兵第102連隊】

昭和15年に編成(再編成)し、昭和16年8月より1年間、南支に駐屯。
昭和17年11月、ラバウルに上陸後、岡部支隊の基幹部隊として、ニューギニアに上陸して、ワウを攻撃するが失敗。
ムボ、サラモアに退き、さらにサラワケット山脈の死の撤退を続け、ハンサを警備。
昭和19年4月よりセビツイに駐屯して終戦を迎えた。

(参照:門脇朝秀 編著 『台湾高砂義勇隊〜その心には今もなお日本が〜』 あけぼの会 平成6年1月 発行)

(令和2年9月11日 追記)


【大場挺身隊】

昭和18年6月30日、米軍千名が、ニューギニアのサラモアの近くのナッソー湾北岸に上陸してきた。
この時、歩兵第102連隊の大場少佐は、台湾の高砂義勇隊員およそ30名を指揮して、大場挺身隊を編成して、敵陣に潜入して敵の火砲を爆破した。

(参照:門脇朝秀 編著 『台湾高砂義勇隊〜その心には今もなお日本が〜』 あけぼの会 平成6年1月 発行)

(令和2年9月11日 追記)


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