歩兵第110連隊

(通称号:鷺3911部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
岡山 昭和13年 第110師団 洛陽

姫路に第110師団が編成された時に誕生した連隊。
編成直後の昭和13年7月14日に塘沽に上陸、連隊本部は布定に直行、第1大隊・第3大隊は魯北作戦参加のため徳県へ、第2大隊は高碑店に向かった。
第110師団は後方の治安部隊として編成された部隊で、荒漠たる河北省の山野には敵の敗残兵が多く、ゲリラ戦法をもって仕掛けてくることから、治安維持には困難を極めた。
冀西作戦(山西省浹源を攻撃する作戦)では、連隊本部・第1大隊・第2大隊・野砲1個中隊・工兵1個小隊・騎兵1個小隊が参加した。
昭和14年には晋察冀辺作戦に参加。
昭和15年1月から昭和16年2月にかけては嬉村附近において警備討伐に従事。
昭和19年、京漢作戦における洛陽攻撃に参加。
昭和20年、予鄂作戦の西峡口戦ではかなりの苦戦を強いられた。


歩兵第110連隊50年記念碑


『歩兵第110連隊50年記念』の碑
(岡山県護国神社)

昭和63年6月吉日建之



(平成16年10月3日)
岡山歩兵110連隊史発刊記念碑


『岡山歩兵第110聨隊史発刊記念碑』

(岡山県護国神社)

平成3年6月吉日建之



(平成16年10月3日)

記念碑建立の趣旨

想い起こせば50年前即ち昭和13年6月 当岡山市に於ける郷土部隊歩兵第110聨隊を編成し翌7月中国大陸に渡り華北5省に転戦すること8年余 その戦友は万を数え戦没者千名に垂んとす
われら戦後に生きて敗戦の恥辱に耐え只管祖国復興に献身せり
以来50年 今や我が国は世界に誇る経済大国となり且つ戦争放棄の平和国家に生まれ変わりたり
これ国民総力結集の賜と雖も散華勇士の英霊の加護によるものと感慨転無量なるものあり
ここ操山々麓幽玄の地護国神社の境内を借し 有志相集いてこの碑を建立し 今は亡き戦友の霊を慰め併せて世界平和の悠久ならん事を祈念するものなり

昭和63年6月
歩兵第110聨隊有志一同識
右は鷺3911部隊と称せり

(碑文より)


【歩兵第110連隊】

昭和13年6月16日の動員下令により第110師団が姫路で編成されることになり、これに伴って歩兵第110連隊が誕生した。
6月23日、初代連隊長・永幡寮一歩兵大佐は宮中において軍旗の親授を受けて岡山へ帰る。
6月30日、動員完結した連隊を率いて吉備津神社へ参拝、7月1日から4日まで日本原において連隊の団結を固める訓練を行い、同地において出動の準備に取りかかった。
7月9日、岡山を出発、7月10日に宇品港を出帆して征途につく。
7月14日、北支の塘沽に上陸し、爾来、敗残の国民党軍と共産軍を求めて北支各地を転戦した。
時には連隊の全力をあげて建制のまま出動することもあったが、多くは各大隊毎に、大隊単位をもって作戦を行い、時として中隊以下の兵力を用いることもあった。
大東亜戦争開始後、在支米空軍の増加に鑑み、京漢線の打通を目的とする作戦が行なわれた際には、連隊はこれに参加して健闘した。
終戦後は洛陽に集結し、昭和21年、上海を経て帰国復員した。

(参考:『歩兵第十聯隊史』 聯隊史刊行会 昭和49年4月発行)

(令和2年5月8日 追記)


【編制】

人員3,365名、馬400頭

連隊本部 人員174名、馬74頭
大隊 (1個大隊は本部、4個中隊、機関銃中隊を有する)
大隊本部×3 人員114名、馬73頭
大隊の編制定員 人員974名、馬88頭
中隊の編制定員 人員194名
機関銃中隊の編制定員 人員84名、馬15頭
歩兵砲中隊の編制定員 人員126名、馬32頭
連隊砲中隊の編制定員 人員143名、馬30頭

装備
31年式速射山砲×3 榴弾、榴霰弾各161発
11年式曲射歩兵砲×? 榴弾 640発
11年式平射歩兵砲×? 榴弾 320発
3年式機関銃×12 3年式機関銃実包106,920発 (昭和14年秋に九二式重機関銃に換装)
11年式軽機関銃×72 三八式銃G弾103,680発
三八式歩兵銃×2,120 三八式銃実包405,150発
三八式騎銃×21
26年式拳銃×278 拳銃実包8,896発
この他に自衛用として三八式歩兵(騎)銃×154、同弾4,620発を有する。

器材
三九式輜重車×215
九二式電話機×16
九三式軽電話機×10
九三式八回線交換機×2
九四式五号無線機×3
九二式小被覆線×50巻

(参考:『騎兵第百十大隊史』 大隊史刊行委員会 昭和60年3月発行 非売品)

(令和2年5月9日 追記)


華北省



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