歩兵第118連隊

(通称:誉11933部隊)

(中部第62部隊)

編成地 移駐地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
愛知県豊橋 静岡 昭和16年 第43師団 サイパン島で玉砕

創設当初は中部軍の隷下に置かれ、名古屋地区の防衛の任に当たっていた。


戦歴

昭和18年5月、中部軍の隷下から第43師団に編合される。
昭和19年6月、サイパン島に転進途中、輸送船を撃沈され連隊長の伊藤大佐を初め2,240名を海中に失う。残存者は第3大隊長の大塚少佐がまとめたが、6月7日、サイパン島にたどり着いたのは1,000名弱。
海没部隊として武器・被服受領中に米軍が上陸。連隊は極端な兵力低下により第43師団の予備隊となる。
昭和19年6月17日、フィナスス山での戦闘で第1大隊(隊長:山崎少佐)が全滅。
昭和19年6月22日、師団戦闘指令所のあるチャチャで第3大隊(隊長:大塚少佐・実兵力約1個中隊)が攻撃を受けほぼ全滅。この時点での連隊残存兵力は約300名。
昭和19年6月26日、タッポーチョに後退して抵抗するが、神田大尉指揮する連隊27名が戦死し、事実上の玉砕。


此処に歩兵第118連隊ありきの碑


「此処に歩兵第百十八連隊ありき」の碑

(愛知県豊橋市・豊橋公園内)





(平成14年9月15日)
豊橋公園(吉田城)に残る衛門・歩哨舎跡 衛門跡

豊橋公園内の連隊の碑



豊橋公園内の歩兵第118連隊の碑






(平成17年4月2日再訪問)

碑文

軍靴の跡

我が歩兵第118連隊(中部第62部隊)は昭和16年4月1日国家の要請に応えこの地において編成され同年5月21日初代聨隊長陸軍大佐徳弘保衛が宮中で天皇陛下より軍旗を親授さる
爾来将兵は必勝突破の伝統を受け継ぎ一朝有事に際し義勇公に奉ずるを使命とし高師天伯原演習場を舞台に日夜を問はず寒暑晴雨のなか猛訓練に励む
又第2大隊は中部軍第一下士官候補者教育隊とし幹部教育に精進する勇猛果敢その精鋭ぶりは天下に令名を馳す
昭和18年7月6日第43師団急遽編成に伴い主力は軍旗を奉じ静岡に移駐
或る者は他部隊に転属さる
越えて昭和19年5月30日祖国防衛の大任を帯び海路はるばるサイパン島守備の途につくもその大半が敵潜水艦のため海没の悲運に遭う
一部上陸せるものは間もなく開始されたサイパン島攻防戦において昭和19年7月7日軍旗とともに聖寿の万歳と皇国の弥栄を祈念しつつ全員玉砕す
ここに生存者将兵相計り記念碑を建立
尽忠の偉業を顕彰し殉国の英霊を弔う

昭和55年11月2日
元歩兵第118連隊関係者有志建立
設計 石黒信夫
施工 伊藤一男


慰霊碑


慰霊碑
静岡県護国神社

昭和60年9月22日
歩兵第118連隊 生存者有志建之



(平成18年4月13日)

義烈日月と共■あり
昭和19年5月10日
サイパン島方面へ出陣せられし
歩兵第百十八聨隊
殉国将士三千有余柱
慰霊之碑を建て永久の
御冥福を祈る

(碑文より)

※ ■は判読できなかった文字

桜の植樹



桜の植樹
(静岡県護国神社)





(平成18年4月13日)

植樹趣意

過ぐる大戦において静岡聯隊最後の部隊である伊藤豪大佐以下三千有余名の将兵は昭和19年5月勇躍南方戦線に出陣した
然るに戦局囘天の雄図空しくサイパン島およびその周辺海域に華と散った
現在の平和な生活を感謝し その志と事実を永く憶えんがため桜の若樹を植え記念とする
春ごとに爛漫と咲きもって英魂を慰めよ

昭和52年8月14日
遺族代表 伊藤小夜
伊藤部隊付陸士第58期士官候補生一同

(説明板より)

しだれ桜

両陛下サイパン島慰霊記念
献木 しだれ桜
(静岡県護国神社)

平成17年6月吉日
元歩兵第118連隊遺族会有志



(平成18年4月13日)
献木 さるすべり 右:献木
品種さるすべり(白)
第7回慰霊祭記念
平成8年9月26日
左:献木
品種さるすべり(赤)
第8回慰霊祭記念
平成9年9月19日

元歩兵第118連隊伊藤部隊遺族会

(平成18年4月13日)
献木 さるすべり


献木
品種さるすべり(赤)
第9回慰霊祭記念
平成10年10月16日
元歩兵第118連隊伊藤部隊遺族会



(平成18年4月13日)

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