歩兵第145連隊

(通称号:静11963部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
鹿児島 昭和13年 小笠原兵団 硫黄島

第6師団の予備役・後備役を招集して編成。
第106師団に所属して華中に出動し、第6師団の警備地区を引き継ぎ警備に任ずる。
昭和15年、広東省増城、汕頭の警備。
同年5月帰還復員したが、連隊主力は第54師団要員として残留。
昭和18年5月、再び動員され、第46師団に属す。
昭和19年7月、連隊主力は硫黄島に上陸し、小笠原兵団(第109師団主力)に属した。
総勢約2万名とされる兵団に歩兵連隊として参加したのは第145連隊のみ。
硫黄島では、連隊主力と工兵中隊は兵団司令部とともに北飛行場の北部、第1大隊は摺鉢山の北・千鳥飛行場附近の中地区、砲兵大隊は元山飛行場附近に位置した。
昭和20年2月19日、米軍が南海岸から上陸。
同日中に摺鉢山の守備隊1,700名のうち半数以上が戦死。
23日に摺鉢山に星条旗が翻った。
2月27日、元山飛行場が完全に制圧され、3月3日には北飛行場も占領される。
3月4日時点で、守備隊の兵力は当初の4分の1以下、約4,100名程度に激減。
戦線は混乱し、残存兵力がその場で一丸となって抵抗を続けるが、次第に北部に追い詰められる。
3月14日、米軍は硫黄島の完全占領を発表。
各地で小部隊ごとの抵抗を続ける部隊もあったが、指揮官が指揮権を放棄して各自の判断による行動に任せるところが続出。
3月17日、栗林兵団長は大本営に訣別の電報を打ち、無線機を破壊。
この日が硫黄島玉砕の日とされているが、実際に栗林兵団長、市丸海軍少将らが最期の突撃を敢行し戦死したのは3月26日だったとされている。
残存将兵は終戦後も洞窟に潜み、ゲリラ的抵抗を続けた。


一四五連隊記念の碑



一四五連隊記念の碑

(鹿児島市・鹿児島県護国神社





(平成19年3月30日)

碑文

歩兵第145連隊は昭和13年5月「日支事変」のため在郷予備役及び後備役を中心に動員
鹿児島に於て編成を終え急遽中支那方面に派遣され揚子江岸蕪湖に終結後江西省流■橋に於ける諸戦盧山の戦斗を経て徳安迂回戦に参加しました。
この戦斗は約1ヶ月間にわたり弾薬兵糧尽きたる中多数の犠牲者を出し悪戦苦斗し翌14年3月修水河の激戦を経て南昌作戦に武勲をたて安義奉新方面の警備任務につき■浙作戦後一部は萓島部隊に編入され本隊は南支那へ転進広東汕頭作戦を最後に昭和15年3月帰国復員しました。
この生き残った隊員により145連隊戦友会を発会させ以来毎年戦死者並びに物故者の慰霊祭を行って来ましたがこの度戦友会相図り郷土部隊の実情を後世に留めると共に戦歿将兵と部隊関係物故者の霊とこしへに安かれと祈りつゝ
この記念碑を建立します。

昭和50年10月
百四十五戦友会一同

硫黄島の碑



硫黄島の碑

(鹿児島県護国神社)





(平成19年3月30日)

碑文

硫黄島は日本本土より南へ1400粁米の中部太平洋上に浮ぶ面積20平方粁米の孤島である
第二次太平洋戦争の末期昭和19年6月米軍の反撃に備えて硫黄島の守備についた栗林兵団に軍旗を奉じた145連隊を主力とする我等が薩州健児は編制されたのである。
硫黄島は水に乏しく加えて文字通り硫黄と塩水の責苦により燃えるような喉の渇非衛生的悪條件下に激しい下痢や高熱等の病魔に冒され更には糧秣の補給は絶たれこれが為殆多くの兵員は栄養失調となり米軍の上陸以前に無念の思ひで斃れていったのである。
斯くして制海制空権を手中にした米軍は昭和20年2月15日遂に硫黄島に襲いかかり昼夜の別なく連続80時間の猛烈な艦砲射撃と空爆の繰返しによりさしも勇猛果敢な我が将兵も雨霰と降り注ぐ鉄の前に沈黙せしめられたのである。
然して米軍は遂に上陸我が方と1ヶ月の激戦が行われたのであるが武器は悉く破壊せしめられ弾薬も尽き大本営との通信は途絶え3月17日玉砕と公表されたのである。
誠に英霊の辿った激しく凄惨な死斗は筆舌に尽くし難いものがある。
又米軍の発表による彼我の死傷者4万数千人は太平洋戦争の全戦域を通じてこれ程の打撃を米軍に与えた戦線はなかったと戦史に特筆されてゐる。
戦后30有余年激動の歳月は流れ今や祖国日本は世界の大国に互して立派に再建されてゐる。
これは我が身を又家族を犠牲にして祖国に殉じた尊い英霊の御加護であることを忘れてはならない
今私達はこのような悲惨な戦争を再びくりかえしてはならないと誓いを新たにこゝに銘記するものである。

硫黄島戦没者遺族生存者有志


二ツ根浜の戦い(第1大隊第2中隊)

二ツ根浜を守備していた歩兵第145連隊第1大隊(原大隊)・第2中隊(鹿島豊中尉指揮)は、昭和20年2月19日の昼前、正面から戦車数輛を先頭に米海兵隊1個大隊、右前方の摺鉢山に近い海岸から、さらに1個大隊が上陸してきたので、迎え撃った。
第1大隊長原光明少佐は勇猛の名を知られている、歴戦の将校である。
鹿島中尉(第2中隊)は敵の大部隊の攻撃を受けても、たじろがなかった。
隣接している南地区隊水際陣地と協力し、重火器、小銃を猛射し、進出を阻止した。
敵戦車1両、ロケット砲3門を破壊し、敵を近づけなかったが、息つく間もない艦砲射撃と、艦載機の掃射により、被害は続出するばかりで、陣地の将兵は顔をあげて射撃をする余裕もなくなった。
摺鉢山地区には、原大隊(第1大隊)のほかに、独立速射砲第10大隊、独立機関銃第2大隊、歩兵砲中隊、中迫撃砲第2大隊、旅団砲兵第2中隊、要塞建築勤務第5中隊がいた。
最前線の鹿島中隊(第1大隊第2中隊)は、目も開けられない爆風砂塵のなか、一歩も引かず、兵に小銃の着剣を命じ、敵が10数メートル以内に接近するのを待つ。
砲爆撃で全滅したと思わせ、火焔放射器で陣中を焼き払おうとする寸前に敵兵を射殺し、喚声をあげて突撃する。
鹿島中尉らは手榴弾を投げ、米兵を倒し追い散らすが、敵戦車の砲塔からの機銃掃射を受けると、将棋倒しに転倒した。
照明弾のもと、幾度か突撃を繰り返し、2月20日の夜明けがたに、数人の負傷者を陣地に残し全滅した。
鹿島中尉も全身に砲弾の破片を浴びて戦死した。
原少佐は第3中隊の一部を第2中隊の陣地へ救援に走らせたが、ほとんど全滅していたので、わずかな負傷者を収容し、千鳥飛行場の北方、船見台に引き上げさせた。

第1大隊残存部隊の戦い

中地区隊長の原光明少佐は、残存部隊を千鳥飛行場北部の船見台陣地に後退させ、白兵手榴弾投擲により敵の攻撃を食い止める。

2月21日夜、大阪山砲台西側に集結した、歩兵第145連隊第1大隊の残兵は、山田曹長以下により挺身斬込隊を編成し、千鳥ヶ浜海岸から米第5師団の後背部に侵入し、残存する地下壕を伝い、米軍陣地を急襲し、損害を与えた。

(参考:津本陽著『名をこそ惜しめ』文藝春秋社)

(平成22年1月15日・記)

元山飛行場の戦い(第3大隊)

歩兵第145大隊第3大隊、安荘憲瓏少佐は海軍元山砲台群の一部を併せ、2月23日以来、元山砲台、海軍砲台、二段岩、元山飛行場の第2線陣地を指揮していた。
2月25日、戦車1〜2個大隊を含む約1個師団の米軍を迎撃した。
安荘大隊は先制戦法をとり、たちまち米軍戦車9両を炎上させる。
だが米軍は圧倒的火力で安荘大隊を破壊制圧する戦法をとり、1時間10数メートルの極めて緩慢な前進速度で、日本軍拠点を完全に壊滅させ、元山砲台南側から屏風山東側の線に進出してきた。
2月26日、米軍は8時から猛烈な援護砲爆撃のもと、3個師団の総力をあげ、全面攻撃を再開し、元山砲台、屏風山を争奪する激戦が前日に続いて繰り返された。
しかし、26日夕刻までに元山飛行場、西地区を失う。
27日も激闘が繰り返されたが、安荘大隊、西戦車連隊(戦車第26連隊)ともに大損害を受け、火砲、戦車、器材の被害が深刻であった。
27日正午までに、安荘大隊、西戦車連隊の戦力は極度に消耗し、米軍は同日正午に元山砲台、13時頃に海軍砲台陣地を占領した。

栗林中将は3月1日に、歩兵第145連隊第3大隊に対し、感状を授与している。
同大隊は大隊長安荘少佐指揮下、2月22日から28日まで硫黄島元山飛行場を守って、敵の反復攻撃を退け、大隊長以下50名となるまで陣地を確保し続けた武功を賞揚したものである。

3月6日、二段岩付近で死闘を続けていた旅団砲兵中隊、安荘部隊第8中隊は、敵戦車数十両に包囲され、白兵戦を展開して全滅した。

(参考:津本陽著『名をこそ惜しめ』文藝春秋社)

(平成22年1月15日・記)


硫黄島・複郭陣地の戦闘

連隊本部(連隊長:池田増雄大佐)、第2大隊(大隊長:安武末喜大尉)は、師団直轄として師団の直接援護に任じる。
昭和20年2月26日、独立歩兵第311大隊が壊滅に瀕したため、師団命令により西地区隊も併せ指揮。
残存者を逐次「漂流木」に集結させ、北地区の防備の強化を図る。
3月6日、為八海岸南西端〜連絡所南西道路交差点〜天山〜銀明水の線を拠点前線として陣地を占領激戦。
3月7日、米軍の一部が「天山」に侵入したため、夜間斬り込みによりこれを撃退する。
その後、1週間にわたり、斬り込み、肉薄攻撃等の死闘を繰り返し陣地を確保。
米軍に多大の損害を与える。
3月12日、天山地区を喪失。
同地区の残存兵力は夜間斬り込みにより殆ど玉砕。
その後、米軍は左側面に迂回浸透。
火焔戦車・ナパーム、空中爆雷等を集中し、洞窟の通気孔から爆薬を投入する等の各種戦法で攻撃してくる。
これにより、我が方の損害も増加。
3月13日頃には東・南・北の三方向から「北部落」「為八漂流木」に圧迫包囲される。
3月14日、連隊旗奉焼。

(参考:『偕行』平成21年7月号)

(平成21年12月30日追記)


最後の総攻撃

3月17日24時頃、栗林兵団長以下兵団司令部、市丸少将以下海軍司令部は、大本営参謀総長あてに訣別の電文を打電したのち、付近の第145連隊本部に出撃し、重傷を受けていた池田連隊長と合流した。
栗林兵団長は、西北端の漂流木海岸を突破し、元山・千鳥飛行場を攻撃し、最後の死場所とすることにきめた。
総攻撃に参加する者は大須賀応少将(司令部付)、市丸利之助少将(海軍部隊最高指揮官)、池田増雄大佐(歩兵第145連隊長)、高石正大佐(兵団参謀長)、中根兼次中佐(兵団作戦参謀)。
3月25日の深夜、栗林兵団長、市丸少将は白襷しろだすきをかけ、陸海軍約400名の先頭に立ち、漂流木海岸を南下し、翌26日5時過ぎ、西部落南方の米海兵隊、陸軍航空部隊の幕舎を急襲、約3時間にわたり死闘を展開し、196の屍体を残した。
栗林中将は右大腿部に砲弾の破片創を受け、大阪山北方で高石参謀長、中根参謀と共に戦死した。

(参考:津本陽著『名をこそ惜しめ』文藝春秋社)

(平成22年1月15日・記)


歩兵第145連隊は佐賀・鹿児島編成の現役歩兵部隊で、出身地は大部分が鹿児島県であった。
総員2,727名、戦死2,565名、生還162名である。

(参考:津本陽著『名をこそ惜しめ』文藝春秋社)

(平成22年1月15日・記)


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