(通称号:国4903部隊)
(満州第180部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
小倉 | 明治8年 | 第25師団 | 都城 |
秋月の乱、萩の乱、西南の役、朝鮮事変、日清・日露戦争、シベリア出兵などに参加。
軍旗は西南の役で一度失われ、明治10年9月に再び親授されている。
昭和3年11月、小倉から大分に移駐した歩兵第47連隊の後を襲って北方兵営に移駐。
昭和7年2月、上海事変勃発。
第12師団では、混成第24旅団を編成。
連隊からは第2大隊が選ばれて上海事変に参加した。
昭和11年4月、第12師団は満洲駐剳師団として渡満、満洲東部のソ連国境の警備につく。
このときの連隊の警備区域は東寧地区。
ソ連軍と対峙し、抗日パルチザン諸隊と戦闘を展開。
昭和16年7月、第12師団の隷下を離れて、新設された第25師団に編入。
太平洋戦争開戦後、南方の戦局の不利に伴い、第3大隊主力がサイパン島守備に投入され玉砕する。
昭和20年、大本営陸軍部は満洲にある一般師団3個、戦車師団1個等を本土に転用して兵備の強化を決定。
これにより、第25師団は九州に転用される。
昭和20年4月、宮崎県小林地区に移駐を完了。
以後、主力は都城付近に位置して、決号作戦(本土決戦)の発動に備え、築城と訓練中に終戦を迎える。
平成23年9月16日
歩兵第14連隊跡(福岡県北九州市小倉北区城内・勝山公園)
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『歩兵第十四聯隊之趾』碑 |
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慰霊碑 (大阪護国神社) 昭和63年11月6日 満州第180部隊大阪勝山会有志建之 (平成20年6月15日) |
大東亜戦争戦没者英霊に捧ぐ
歩兵第14聨隊は明治8年小倉に創設、その軍旗は明治11年1月西南の役の戦功により、再び拝受。
爾来日清、日露の戦役、シベリヤ、上海事変に赫々たる武勲を樹て名声全軍に轟く。
昭和11年4月東満に移駐しソ満国境東寧滴道地区の警備に当る。
昭和15年通稱号満洲第180部隊となり、同年以降徴募区も大阪を主体に愛知他二十数地区となる。
昭和20年4月本土決戦部隊として宮崎県高原周辺に進駐、決戦の秋待つも終戦の聖断により戈を收め光輝ある建軍70年の歴史を閉ず。
この間北辺警備或は邀撃態勢の苛烈な環境下、無念にも病魔に斃れ、將又大東亜戦局急を告ぐ昭和19年1月以降軍旗と惜別し、サイパン島はじめ南方或は中国大陸その他の戦場に征き、忠烈敢闘悠久の大義に殉ぜられた英霊七百数十柱を超ゆ。
痛恨極まりなし。
今日 祖国の平和繁栄の礎が諸霊の尊い生命により築かれたるを惟い、茲に戦友有志相寄り大阪護国神社の神苑に鎮魂の碑を建立し、亡き戦友を偲び慎みて冥福を祈り、その遺烈を永く伝誦し併せて邦国の安泰と世界永遠の平和を冀う。
英霊安らかならんことを
昭和63年11月6日
満洲第一八〇部隊戦没者慰霊碑建立実行委員会 謹書
(副碑・碑文より)
【事故多発連隊】
歩兵第14連隊は、全国一の事故多発連隊として昔から有名であり、営倉はいつも満員だった。
農村青年を主体とする連隊や近衛師団などには、事故は極めてまれだったが、炭鉱夫、職工、沖仲仕、遊び人の比率が高い小倉連隊は、“無法松”のような兵が多く、そのため営倉はいつも満員という次第である。
また、日曜日に外出して、遊郭の近くで初年兵を脅迫して金を巻き上げ、その金で登楼したり、憲兵を馬から引きずりおろしてお濠に叩き込む。
夜は脱営して街に博打を打ちに行ったり、部隊対抗演習の時には、小銃に小豆大の小石を入れて至近距離から射撃したり、さすが日本一の悪名部隊だけに、とんでもない悪童たちが多かった。
(参考:後藤四郎著 『陸軍へんこつ隊長物語』 毎日新聞社 昭和54年発行)
(平成23年6月30日追記)
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