歩兵第151連隊

(通称号:安10022部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
三重県津 昭和16年 第53師団 ビルマ(シッタン)

日米開戦直前の昭和16年11月21日に軍旗拝受。
昭和19年3月、インパール作戦の増援部隊として、ビルマ方面軍に編入された。
昭和19年5月11日、シッタン河を渡河してビルマ平原に進出。
5月16日、連隊本部はインパール作戦の兵站基地であるモールに到着。
軍命令により第15軍の隷下に編入されイエウに集結。
5月26日、インパールに向けて進撃を開始。
6月8日、チイドウィン河を渡河し、アラカン山脈を越え、チュラチャンプールに到着して第33師団の指揮下に入る。
6月21日、林陣地を激戦のすえ占領するが26日には敵の猛反撃により奪取される。
7月3日、軍はインパール作戦を断念、撤退命令が下る。
連隊は第33師団の撤退掩護のためクワイモール附近の陣地占領を命じられる。
7月11日、撤退する師団を追尾する敵との間に激しい白兵戦が展開される。
7月18日、撤退掩護の任務を歩兵第215連隊と交代し、連隊は撤退を開始する。
原所属部隊の第53師団への復帰命令が下り、8月24日、インドウに向けて出発。
ビルマ進攻時約1,600名の連隊主力は総員250名にまで減少。
損害の半数は戦死であるが、残り半数は病気と飢えによるものであった。
その後、イラワジ会戦、シッタン作戦に参加。
昭和20年8月1日、編成改正により第18師団歩兵第114連隊に統合を命じられる。
8月15日、ミッチョニ三角地帯陣地にて終戦を迎えた。


歩兵第151連隊戦没者慰霊碑



歩兵第151連隊戦没者慰霊碑

(三重県津市 三重県護国神社




(平成16年2月7日)

慰霊碑銘

歩兵第151聯隊(安第10022部隊)は 昭和16年9月三重県久居町に新設され 昭和18年11月動員下令 昭和19年3月ビルマ国へ出動した
聯隊主力はインド国インパール攻略戦に 第1大隊は北ビルマ戦線に5月より参加した
時あたかもビルマは雨期に入り 山中にて食糧その他の補給も無く 栄養失調と過労により身体は衰弱し マラリヤ 下痢等に悩みながらも勇戦奮闘した
11月よりオークトウ マンダレー タウンタ付近の戦闘に参加し 優秀な装備の敵と交戦 戦場は惨烈苛酷をきわめた
その後各地を転戦し 昭和20年6月より雨期の泥沼の如きシツタン河口に於て 必死の攻防戦を展開中 8月終戦の大詔を拜するに至った
風土の異なる遠き辺境に於いて 戦陣にあること1年5か月 この間連合軍 悪疫との戦に斃れたる戦友は2千9百余柱を数える
誠に痛恨の極みである
ここに慰霊碑を建立し 祖国に殉じたる戦友の遺烈を偲び その功績を顕彰する
在天の英霊願わくは永久に安らかならんことを

昭和55年10月
歩兵第151聯隊戦友会建之


インパール作戦・追及部隊

傷病兵に混じって、かなりの数の兵隊がこそこそと隠れるように動き回っているのが見られた。
彼らは傷病兵ではなく、追及途中の治癒兵や、増援のためにはるばる追及してきた兵達の一部だったのである。
追及部隊には第53師団(通称「安」兵団)の第151連隊があった。
安兵団の将兵ははるばる泰緬国境のジャングルを越え、炎熱のビルマ平原を千数百キロにわたって踏破してきたもので、疲労しきっており、中にマラリアで熱発した者、熱帯性下痢で衰弱した者は隊伍から脱落してしまい、三々五々アラカン山脈を越えてやっとテイデムに辿りついた者が多かった。
このようなまとまりのない追及兵達は、前線で敗色が濃いことを聞き、さらに悲惨な傷兵達を目にするに及んで怖じ気づき、少しでも追及を遅らせようと、居心地のよい補給地点に座り込んでしまったのである。
テイデムには、後方輸送を担当する師団参謀(第33師団・弓兵団)の三浦祐造少佐がいた。
三浦少佐は、後方から追及してきた部隊を自動車輸送でどんどん前線に送り出し、配車できない隊には徒歩行軍で追及させるなど、兵隊達の尻を叩き、怒鳴りつけ、一日たりとも滞在を許さなかった。
兵隊達にはまさに“鬼の関所”だったが、その厳しい監視の目を逃れて、こそこそと小屋から小屋へ隠れ棲む兵隊がいたのである。

参考文献:塩坪辰実著『ビルマ戦線とインパール〜一小隊長の戦闘手記〜』

(平成21年5月9日追記)




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