歩兵第154連隊

(通称号:兵10114部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
岡山 昭和15年 第54師団 ナユーランサクン(ビルマ)

歩兵第10連隊が満洲に移駐後、岡山に第54師団が置かれたのを機に創設される。
昭和15年8月2日編成完了。
昭和18年2月、第54師団に動員下令。
師団は隷下の歩兵各一連隊を基幹とする3個梯団とし、ジャワ(歩兵第111連隊基幹)、マレイ(歩兵第154連隊基幹)、上海(歩兵第121連隊基幹)を経て、逐次ビルマに集結。
昭和19年7月、チェドバ島の守備を歩兵第121連隊(鳥取で編成)に任せ、カンゴウ地区に前進。
昭和19年1月22日、カンゴウ地区・ウマ高地西側地区に英印軍第25師団の一部隊が上陸。
第3中隊が英印軍に対したが、ウマ高地を占領される。
1月31日、ウマ高地奪還のため、第1大隊が一日中、手榴弾戦を展開したが、敵機に阻まれ補給が得られないままに攻撃を断念。
この戦いで第1大隊の大半が戦死、生存者はわずか11名だったと言われている。
その後、第1大隊はアラカン山脈を踏破してサリンに終結、混成第72旅団長の指揮下に入りイラワジ河で激戦を演じる。
第3大隊はシッタン河畔での作戦に参加し、苦戦を強いられた。
8月20日、連隊は南キャドウインに集結するが、その戦力はわずか391名だったと言われている。


忠魂碑


歩兵第154聯隊『忠魂碑』

岡山県護国神社

靖國神社宮司 大野俊康書



(平成16年10月3日)

碑文

歩兵第154聯隊は 昭和15年8月2日岡山市に創設され同18年9月ビルマに出征し各地に勇戦不敗兵団として輝かしい戦果を挙げたが昭和20年8月27日シャン山系に於いて終戦の詔を拝し涙をのんで戈を収めた
この間 我が聯隊の祖国のために命を捧げた2千数百柱の英霊をこゝに鎮魂し世界平和の礎として永く国民の胸に生き続けられることを念願し この忠魂碑を建立する

平成4年10月4日
施主 歩兵第154聨隊戦友会
施工 有限会社 市石材工務店


【歩兵第154連隊】

歩兵第10連隊の満洲移駐後、岡山の兵営で創設された。
昭和15年8月2日に編成を完結し、9月27日、宮中に於いて軍旗を親授された。
初代の連隊長は陸軍大佐・山村兵衛、初代の旗手は陸軍少尉・池田徳次である。

昭和18年2月7日、動員下令。
動員第1日は3月25日。
4月3日、動員完結。
連隊は出陣を前にして日本原および蒜山原に野営して訓練と団結を高め、5月12日に宇品港を出帆して征途につく。
連隊は昭南(シンガポール)に上陸し、クアラルンプール、セレンバン、イポー、タンジョンマリム等に分駐して約2週間にわたり熱地訓練および付近の討伐をおこなった。
9月3日より9月13日にわたりラングーンに上陸。
連隊本部、直轄部隊および第3大隊はペグーに、第1大隊はニューアンレビンに、第2大隊はタラワヂーにそれぞれ集結する。

連隊はまずビルマ西南岸の防衛に任じる。
昭和19年、第2大隊は第15軍司令官の指揮を受けて11月末までインパール作戦に従事した。
連隊主力は宮崎繁三郎師団長指揮下、昭和19年12月よりアラカン以西、ミヨホン、ミエボン、カンゴウ、タマンド附近において、英印軍、西阿軍と戦闘を交える。
昭和20年4月、アラカン以東に転進後は、イラワジ河畔で苦戦し、更にペグー山系に集結転進してシッタン河で戦い、多大な損傷を受けた。
8月27日、終戦を知り、同日夜、連隊長村山一馬大佐は軍旗を奉焼した。

(参考:『歩兵第十聯隊史』 聯隊史刊行会 昭和49年4月発行)

(令和2年5月8日 追記)


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